7・微醺の宴
蜜酒の衝撃から立ち直るのにしばらくかかったが、それでもなんとかサトルは本題を切り出した。
「俺は治療士になることが出来ると思いますか?」
セイボリーはすぐに答える。
「君がか……可能性は低くはないだろう」
しかしそれをマレインが否定する。
「サトル自体は可能性があるかもしれないが、すぐには無理だろうな。ボスが今は緑の精霊を呼び出すことが出来ない」
ルイボスもそれに同意する。
「タチバナが亡くなってからのローゼル殿は、情緒が不安定でね、上位の精霊を召喚する成功率が下がっている。友人の死と言うだけでなく、タチバナの存在はローゼルには大事な意味がありましたからね」
「……そうでしたか」
あのひょうひょうとして見えるローゼルが、実は友人の死で落ち込んでいるなど、パッと見には思わないだろう。
しかし表面がどうあっても、心が負った傷がそうそう癒える物ではない、という事は、サトル自身が何より実感していることだった。
何せさっきの今、自分の心の傷を酒に抉られたのだから。
サトルは残っていた蜜酒を一気に煽る。
眩暈がするほどの熱を感じたが、先ほどのような、泣きたくなるほどの切なさは感じなかった。
この酒が自分の恋心の味だとするなら、自分の心の傷と向き合って飲み込めば、飲めない物ではないと分かっていた。
案外あっさりと飲み干したサトルに、マレインは少しばかり感心したように笑う。
嫌味なことをと眉間に皺を寄せるサトルに、マレインはそらとぼけて見せる。
「他の人間にはできないのか、とは聞かないのかい?」
「ローゼルさんに召喚してもらうことが肝要だからなあ」
「何を考えている?」
ローゼルに特定して召喚を頼む理由は何か、あまりよろしくない考えなら承知しないぞと、マレインの細く引き絞られた目が語っていた。
「何か深く考えてるという事じゃなくて、ジスタ教会とは違う立場での治療士としての力があればなと思ったんだよ」
「同じことを考えていた人物を知っているのですが、もしかして」
サトルの答えに、ルイボスが心当たりがあると反応を返す。
サトルに緑の精霊の事を教えた人物、バジリコはルーの伯父だと自称していたので、ルーの亡き師の知り合いであるルイボスが知っていたとしてもおかしくはなかった。
「ええ、ルーの身内に会いました」
マレインも覚えがあるぞと納得する。
「ああ、彼か。だが彼が本当にルーの伯父かどうかは、確かめられていないらしいよ」
バジリコ本人も言っていたが、なぜルーの伯父であるという確証がないのだろうか。そのままサトルが問うと、マレインはひょこりと肩をすくめる。
「ルーの母親が亡くなったのは、ガランガルダンジョン下町ではないからね。彼女が物心つくかどうかの頃に亡くなったそうだよ」
そんな幼い頃にルーの母親が亡くなったとしたら、とてもではないが一人でこの町にまで来ることはできなかっただろう。
「という事は、ルーはこの町の生まれでなく、タチバナやローゼルさんがここに連れてきたってことか?」
「そう聞いているね」
事実は確認していないがとマレインは言うが、それでも確信があるようだった。
詳しく知っているのはマレインよりもルイボスだろうが、ルイボスは苦い酒を飲み下し、口を閉ざしている。
「幼いころから知っている同族だから、ルーをあんなにも気にしているんだろうか?」
「ああ、ボスとルーは疑似的な母と娘の関係さ」
誰が、とも言わなかったサトルに、マレインはローゼルがルーを実の子のように思っていると断言する。実際サトルもそれに同意だった。
ならばワームウッドはどうだろうか。
サトルはワームウッドがローゼルやルイボスから、情報を聞き出したがっていたが、上手く行っていないことを思い出す。
「だったらワームウッドとは? あいつもまるで親のようにタチバナを慕っているだろ?」
その疑問に答えたのはルイボスだった。
「ワームウッドは、タチバナがこの町で拾った子供ですよ。親がいないようで、仕事を探していると言っていましたから、ならばこの屋敷で働くと良いと勧めたのです。ワームウッドもそうしたいと言っていましたが、何よりタチバナが……自立していけるように、彼に学を与えたいとね」
懐かしい物でも見るように目を細め、グラスを覗きながら答える。
サトルの見る限り、ワームウッドはヒースを育てることに力を入れている。あれは自分がタチバナに受けた恩を、別の形で返そうとしているのかもしれないと思えた。
「なるほど、だから恩義に感じてるんだ」
「彼何か言っていたのかい?」
ワームウッドがサトルに何を語ったのか、興味があるとマレインは笑みを深くするが、サトルはそう何か話を聞いたわけではないと否定する。
「俺が何か言われたというよりも、タチバナについて詳しいみたいだったから」
「確かに彼なら詳しいだろうね。僕たちの誰よりも、タチバナの身近にいた。ルイボス先生よりもだ」
「はは、付き合いは流石に私の方が長かったですけどね」
上機嫌なルイボスの笑い声に、サトルは少し驚く。ルイボスは見ている限り常に穏やかな笑みではあっても、声に出して笑う事は無かった。
常に外から人を見ている様子のあるこの先達が、会話のうちに自ら入り、笑い声をあげているのはごく珍しい事のように思えた。
黄金の蜜酒の効果だろうか。
サトルはだったらと、ルイボスの空になりかけのグラスに、もっと飲んではと蜜酒を注ぐ。
「私にも分けてもらえるだろうか?」
セイボリーも空のグラスを差し出してきたので、何の思惑もないかのように、サトルはそこにも酒を注ぐ。
セイボリーは言葉少ないが、裏表もほとんどないようで、上機嫌に酒を舐めているだけ。普段と違う様子があるとすれば、周囲に気を遣わず、ハルハナ豆を遠慮なく食べつくしてしまっていることくらいか。
ずっと尾が上機嫌に揺れているので、一番幸せそうな飲み方に見えた。
マレインにもお代わりを所望され、もう一度サトルはグラスに酒を注ぐ。
蜜酒はアルコール度数がそれなりに高いようで、サトルはこれ以上飲んだら潰れそうだからと、自分のグラスには注がなかった。
すっかり酒の回った三人と、生酔いのサトル。サトルは上機嫌な三人の言葉に注意深く耳を傾ける。
「それにしても最高の出来だな。ここまでの出来は滅多にないよ。君が入院中どうしようかと思ったが、美味い事退院に間に合った」
嬉しそうなマレインの言葉に、サトルはじとりと目を細めマレインを睨むように見やる。
「おい、マレインあんた……さては」
サトルを無理に退院させたのは、実のところ明りよりもこの酒の方が目当てだったのでは、とサトルが疑えば、マレインは悪びれなく露骨な言い訳をしてみせる。
「うん? いやあ、誤解だよ。誤解」
むうっと唸って嘘はいけないとセイボリーが咎める。
「だがマレインは、君の入院中蜜酒の事を毎日のように」
「セイボリー、ここは笑って気のせいだということにしておくべきだろう」
「そうなのか……すまなかった」
嘘を嘘とバラスのは色気が無いと、よくわからない言い訳をして、マレインは上機嫌にグラスを口に運ぶ。
嘘を吐いていると公言しておきながら、その嘘には何の意味もない状態。しかしそれをマレインは楽しんでいるようだった。
だがそれも、蜜酒の味を知った後だと納得のいくところ。
この味が損なわれる前に、分け前にありつけるよう働きかけていたとしても、それは仕方ない事のように思えた。
これは本当に人を虜にする美酒だ。
飲んで苦しむと分かっていても、サトルはもう一口くらいいのではと、誘惑にかられそうになっていた。
「……地味に腹が立つ。が、この味を知ったら確かに……分からなくもない」
「だろう?」
我が意を得たりとマレイン。それがまた腹立たしくて、サトルは膝に肘を吐き頭を抱え唸る。
「苦しいとも思ったんだが……それでも身も心もほぐれる味というか、心がふわふわするというか、ああなんだろうな、味だけじゃないんだ……脳に直接、多幸感を注入されているような……これは、かなり危険じゃないか?」
「ふふふふふ、危険だとも」
危険だ危険だと言いながら、それでも飲むのだから、とんだ中毒性だ。
「舌ではなく、心で味わい、身体ではなく精神を酔わせる酒か……自白剤にでもなりそうだ」
実際に、彼らの舌は今かなり軽くなっていることだろう。この状態ならば、ワームウッドでもタチバナについて聞き出せるのではと思えるほどだ。
そもそもタチバナについて、ルイボスたちは危険を感じて口を閉ざすというよりも、苦い思い出を語りたくない、と言った様子なのだ。
部屋を辞するときにでも、ワームウッドにチャンスは今だと伝えようと、サトルは胸に止める。
「なるとも。使い方次第だが……明日は僕が作った方も飲んでみると良い。あちらの方がもっともっと、興奮が高まるよ。君の蜜酒はとてもやさしい、優しすぎる味だからね」
優しすぎる味、とはどういうことだろうか。
サトルにとってこの蜜酒は優しいどころか、一番抉られて辛い部分をピンポイントで狙ってくるものだった。
しかし、マレインだけでなくセイボリーもルイボスも、その通りだと頷く。
「好ましい味だ」
「ええ、ここまで優しく酔わせてくれる金の蜜酒は、タチバナ以来……」
タチバナと名を口にした時、ルイボスの唇が震え、細めた目の端に涙が光った。
蜜酒は相当に彼らを酔わせているらしい。
蜜酒の味に酔わされ饒舌なマレイン。いつも以上に感情が見えるセイボリー。そして苦くも愛しい思い出に心寄せるルイボス。
では他の者に飲ませてみたらどうなるだろうか?
半分ほどに減った蜜酒入りの瓶に視線をやり、サトルは考える。
話を聞いてみたいのはローゼル。彼女は彼らほど簡単に口を軽くはしないかもしれない。それでも、蜜酒を飲ませてみる価値はあるのではないだろうか。
ただ、タチバナの死で情緒が安定していないという話を聞いた後だ。
「女性の心に無理やり踏み込むのは、紳士じゃないな」
サトルはふうっと息を吐く。吐き出された呼気には蜜酒の香りが濃く混じり、まるでその香りだけでも酔ってしまいそうなほどだった。