10.「喪失へ向かう記憶—其の参」
五月二十四日の水曜日。
◆◇◇
——その日が来た。
今日は自然と朝早くに目が覚め、時計の時刻は六時半を指していた。
いつもと比べたら随分と早起きだったが、早く目が覚めたとは言ってはみたが、殆ど寝てもいない。緊張と動悸で、全く眠る気にすら、ならなかった。
一晩、考えてはいたが、死神との接触後の策なんかは全然思い付かなかった。
そもそも、どうやって死神に会うかが、一番の問題だ。死神がLINEやらSNSをやっているとも思えないし交換すらしていない。そもそも携帯電話の類を持っているはずもないだろう。アイツがスマホゲームに熱中しているところなんか、イメージと程遠い。
なんて、ことを馬鹿みたいに考えていた。
そんな余裕ぶっているようでも、今日という日は、俺にとっては大一番の日だ。——大切な幼馴染を取り戻せるか、一生失うかの。大一番の日だ。
そもそも、彼女が——本当に死んでしまっていたのなら死神と接触して、無駄な勝負をするだけのことになってしまうのだが、何もせずに失うよりはずっとマシだ。結果として、死ななければ良い。今はそう思うだけだった。
ただ、何もせずに後悔をするくらいならば、その時は、死んでも良いと思えるのだろう。
——俺は、今日、絶対に幼馴染を取り戻す。
自分に言い聞かせる。
——そう、幼馴染を。
———取り戻す?
——— ⁈
(……誰を、取り戻す?)
「それは、幼馴染。」
———
彼女の名前……。
———
ミス、ズ……ミユリ。
———
「……みゆりだ。」
「どんな顔してたっけか……。」
——アレ、おかしいな。
——思い出せなかった。名前を思い出すことすらやっとだった。
昨日はまだ、覚えていたんだ。確かに
——覚えていた。
けど、今はもう、その名前と微かな面影しか残っていなかった。
あまりにも早すぎることだった。
「こんなにも、早く人間の血の副作用が効いちまうだなんて……。 ——クソッ」
自然と言動が焦り始めている。
制服に着替え、いつものパーカーを羽織ると息つく間もなく、俺は、家を飛び出していた。
とりあえず、絆愛に、この事を伝えて……、早く死神の奴と接触しねぇと
——全部忘れてしまう。
忘れてしまえば、——俺の人生は、本当に死に絶えた人生も同然だ。
俺の、太陽みたいな存在だった大切な、——幼馴染。
忘れてしまえば、陽の光など一度だって浴びたこともない、浴びることさえ出来ない吸血鬼のように、其れこそ、本当に俺は、孤独で、醜い化け物だ。
——死神と言う名の、化け物だ。
そして、皮肉なことに、今はそんな化け物の血を信じるしかなかった。
死神と接触する目的さえ、忘れた時はもう、成すすべが完全に絶たれる。
実際、心優莉のこのを忘れてしまった時には、其れこそ全て、なかったことになるのかもしれない。俺は気兼ねなく、これまでの様な日常に戻れるのかもしれない。
——違う。
心優莉がいたから、幼馴染のあいつが居たから、今の俺はいるんだ。何度だって言う。心優莉のいない日常なんて、決して日常なんて呼べないのだ。
俺はそんなことを、ずっと思い、考え続け、——日が昇り、ほんの少しの朝靄が掛かる中、人工的にコンクリートで固められた道をひたすらに走っていた。
◇◆◇
——
私のこと、忘れちゃったの?
違う。
じゃあ、名前!呼んで!
名前。
うん!
お前の名前は。
お前じゃなくって!
その。
どうしたの?よしと
俺は。
ほら!名前呼ぶだけだよぉ!
お前のこと。
よしと、もしかして
違う。
よしとは私のこと、忘れちゃったの?
違う……!
だったら。
◇◇◆
「深鈴 心優莉……」
——絶対に、この名前だけは忘れては、いけない。
朝霧の中に、ふと見たのは、走馬灯のようなものだった。
別に死ぬ間際でもなかったのに、見聞きしたそれは、言うなれば、『記憶の死』に導かれたのだろう。おかげで、心優莉の姿も、再び思い出すことが出来た。——もう、忘れない。
そんな幻想、幻覚、幻聴に思い出させられた俺は、その名前を必死に脳裏に焼き付けようと必死だった。
そして俺は気がつけば、見慣れた家の前に立って居た。
インターホンを押すと、運良く両親ではなく、絆愛が出て来てくれた。
「よっ!好翔先輩……、どうしたんですか、こんな朝早くに……。 何だか気分悪そうですけど」
ザ・パジャマな寝巻き姿で、髪の毛はいつもの数倍くるくるだった。
「絆愛、今すぐにでも死神に接触したいんだ。」
「今、ですか……? でも昨日の時点では、実行は今日の放課後と言うお話では?」
「悪いな。少なくとも一、二時限目の授業はサボらせることになりそうなんだ。俺の記憶が、もう、保ちそうにねぇ」
「記憶が……、そんな。」
「嫌なら、はっきり言ってくれ。 最初から俺は、お前を巻き込みたくなんてなかったんだ。」
すでに、それなりに巻き込んで置いて言う言葉では、なかったが、今は、そう言うのが筋だったろう。
一人でも構わない覚悟だったのだから。
けれど、絆愛は「何言ってるんですか! 先輩について行きますよ」と何の躊躇もなく言ってくれた。
「絆愛……」
「直ぐに、着替えてきますね……!」
こいつ、寝ぼけてないよな?
絆愛が、こんなにも俺の支えになってくれるだなんて正直全く思っていなかった。
心優莉の妹としか認識してなかったが、今のあいつは、俺が失くした心優莉の代わりになろうとしてくれて、いるのだろうか。
絆愛なんかは、全く心優莉のことを、覚えてすらいないはずなのにな。
玄関のドアが再び開くと「先輩、お待たせしました」と絆愛が跳ねた髪を右手で抑えながら、慌てた様子で戻ってきた。
「髪の毛くらい、とかしてきてくれて良かったんだぜ……?」
女の子としての意地はないのかコイツは、と、突っ込まんばかりに髪の毛は跳ね放題で、左こめかみ辺りにはいつもの子供っぽさをより引き立たせる、リボン型のヘアピンだけ、しっかり付けていた。
「今は、人の目なんか気にしてる場合じゃないですから!」
右肩に学校指定の鞄を抱えて、左手にはコッペパンを持っていた。せめてもの朝ごはん、なのだろう。
「好翔先輩も朝ごはん食べます?焼きそばパンならまだあるんです!」
せっかくの好意だが、朝ごはん、なんて気分ではない。そもそも俺は朝ご飯は、食べない派でもあり、何よりご飯派だ。とか、今はそんなこと言ってる場合じゃないので、「食べてきたから」とだけ言った。
「それなら良かったです」
おかげで、緊張がほぐれたが、危うく心優莉のことをいよいよ忘れる所だった。危ない、危ない。
「とりあえず学校に向かうぞ、作戦終了後、直ぐに授業に出れるし、体育館かなんかを使えば人目につくこともねぇだろ」
こっちが、早く事に及んだ所で死神が現れなければ意味がまるでないのだが、とにかく今は、死神が現れてくれる方向性を信じた。
「はい!」と絆愛も寝起きらしかぬ、元気な返事をすると、パンを咥えながら俺の後に続いて走りだした。
とにかく上手くいくことだけを願い、俺たちは学校に只々急いでいた。




