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キスが嫌いになったわけ  作者: 山口 にま
第三章
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クリスティーナ

「交換留学プログラムへの参加にはTOEFLのスコア提出が義務づけられています」

交換留学の募集要項にはそう書いてあった。試みにトーフルと呼ばれる英語能力判定テストの過去問題に当たってみた。

 まずは文法や長文読解問題。さっぱりわからなかった。こういう時こそ悪癖の抜毛が始まってしまう。次いでリスニング。文字通り瞬く間に瞼が落ちてくる。一度瞬きをしたらもう目を開けられない。私は問題集を閉じた。向いていない。私は沢木耕太郎にはなれないのだろうか。

 留学準備のための塾に行きたいが私は親に言い出せなかった。私のやりたいことはどうせ否定されるからだ。 


 一つ閃いた。外国人教師に個人レッスンを頼もう。私って頭いい。私はネットで英会話の家庭教師を検索する。ネイティブの外国人で、女性で・・・。アメリカ人やカナダ人だと大体一時間5千円くらいだ。九千円という強気の値段を設定してきたイギリス人教師もいた。オーストラリア人だと少し安い。男性教師だと総じて安いがお断りである。素性の分からぬ外国人と結婚することになったら大変だ。尤も私の英語能力では愛をささやきあうことも出来ないが。


 背に腹は代えられない。この際ネイティブでなくてもいい。帰国子女の日本人教師やフィリピン人ならば欧米人の半額だ。私は近所に住む留学生のフィリピン人、クリスティーナに連絡を取ると、彼女から駅前のカフェで会おうと返事が来た。


 多くの日本人が抱いているフィリピン人のイメージは、よく喋り、よく笑う。そしてちょっと軽薄。しかしカフェで会ったクリスティーナは静かな女性だった。グレーのトレーナーにジーパンと言う苦学生そのものの質素ななりでカフェにやって来た。今の私には英語で自己紹介するのが精一杯だ。彼女との打ち合わせは日本語で行った。

「どうして英語を勉強したいのですか?」

クリスティーナは聞いた。

「留学のためです」

「使いたいテキストはありますか?」

彼女の日本語は外国人向けの日本語会話集をそっくりそのまま読み上げているようだった。正直彼女の日本語はうまくない。それは却って私には好都合だった。週に一度彼女の家で英語だけでレッスンをしてもらうことに決まった。


 クリスティーナの部屋は築三十年ぐらいの古いアパートだった。六畳一間で一人暮らしていたが、その狭い部屋に留学生仲間をよく泊らせていた。

「私も一人暮らしをしてみたい」

私は英語で言ってみた。

「ユエもしてみたら?楽しいわよ」

「親元から離れるのも留学の目的の一つなの」

「どうして?」

「親と関係が良くないから」

私の答えにクリスティーナは心配そうな顔をする。私は話が深刻にならないように

「私は小さいころから体が弱くて、親に心配かけていたから」

と取り繕う。そして

「大学を卒業したら結婚して親から独立するのが私の夢よ」

と付け加えた。

「ユエ、ボーイフレンドは?」

「いる」

「どういう人?」

「国立大に通っている優秀な人」

私が答えるとクリスティーナはちょっと恥ずかしそうに、

「私もボーイフレンドがいるわ。留学を終えたらフィリピンに帰って結婚するつもりよ」

彼女は童顔で幼く見えるが、フィリピンで大学院を出てから日本に来たので、年のころは三十歳前後だろうか。

「私が育ったのはダバオなの」

とクリスティーナ。

「ダバオ?」

「知らない?フィリピン南部のミンダナオ島にあるシティーよ。ムスリムが多いところだけれど私はカソリック。ダバオにヨハネパウロ二世がいらした時、私もパレードを見に行ったんだから」

と興奮気味に言うのだった。


授業料が安いだけあって彼女の発音は確かに変だった。フィリピンの言語にはCやFの発音がない。だからCATをフィリピン風に発音するとカットになるし、ELEFHANTはエレファントではなくエレパントだ。それでも彼女と一緒にいると自分が思いの他英語を喋れていることに驚くのだった。それはフィリピーナ特有の能力だろうか、彼女は私が話しやすい話題を次々に提供して来るのだ。私はクリスティーナにすっかり心を許し、毎週決められた時間に彼女のアパートに通った。


 留学準備にもう一つ必要なことがあった。それは滞在費を工面することだった。

「まだ選考に受かるかわからないけれど」

そう私は前置きしつつ、

「七カ月間ニュージーランドの大学に行くことになったら、寮の家賃とか食費とかもろもろかかるんだ」

と親に相談してみた。

「いくら?」

母親は聞いた。

「百万円」

父と母は顔を見合わせた。

「全額出してくれとは言わないよ。これからバイトをして貯めていくから、足りない分は貸してくれないかな」

「足りない分ってどのぐらい?」

と母。

「来年渡航するとしたら、今年一年で五〇万円貯める。だから残りの五〇万円を貸して欲しい。再来年に行くのなら、二年で百万円ぐらい貯められるから自分のお金で賄えると思うのだけど」

母親はしばし考え、

「だったらお金を貯めて再来年行けば?」

母は私にはお金を出したがらなかった。いつだってそうだ。

「再来年だと私は四年生になっている。就職活動で忙しくなるでしょ?だからなるべく早く留学したいんだ。それに正直、選考に通るのが来年か再来年か分からないし」

と父親に向かって言ってみた。父は返事をしない。この人は私の敵にはならないが、味方にもならない人だ。

「大体何しにニュージーランドに行くのよ。あんたは英文科でもないんでしょ」

母のとげを含んだ問いに私は、

「少しでも有利な就職をするためだ」

と即答。金さえあればさっさとこの人たちと縁が切れるし。

「まあいいわよ」

母が言った。

「あんまり親を当てにしないで自分のお金で行ってちょうだい。どうしても足りなかったら少しは貸してあげるわ。私たちの老後のお金なんだから絶対に返してよ」

「ありがとう」

私は頭を下げた。私は頭を下げながらも、母だって父の扶養なのに何故この人はこんなに私に恩に着せるのか理解できなかった。



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