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キスが嫌いになったわけ  作者: 山口 にま
第二章
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汚れた下着

『汚れた下着』



高校に入学したばかりの頃、こんなことがあった。

「自分のしていることをよく考えなさい」

メモ書きとともに、私のパンツが画鋲に刺さり脱衣所の壁にぶら下がっている。これをやったのはもちろん母だ。母は私の背後から言った。

「年頃の女の子が母親にパンツを洗われることを恥ずかしいと思えないの?」

生理の血で汚れているわけじゃあるまいし、洗濯機で洗ったほうがきれいで早いじゃないかと私は心の中で反論する。

「お母さんだって、パンツは自分で洗っていたのよ」

それはおばあちゃんがあんたを嫌いだったんだろうね。私には分かる。母が私を嫌っていたように祖母も母を嫌っていたのだ。


 母はとてもだらしのなく、脱水が終わった洗濯物をいつまでも洗濯機内に放置して洗濯物を臭くさせたり色移りさせるような女性だった。洗濯物がいつまでも洗濯機に残っていて、私はいつ洗濯機を使っていいのか分からない。それに母が設計したこの家は住みにくいことこの上なく、私の部屋の窓はすべて腰高で、その腰高窓を乗り越えてベランダに出なくてはならない。ベランダにはひさしがなく、雨に降られることが心配で洗濯物を干して外出ができないのだ。よくここまで将来のことを考えずに設計が出来たものだ。母は頭の悪い女だった。


 私は母の前に出ると言葉が出ない。むっつりと押し黙っている私に、

「うちのやり方に文句があるならば出ていきなさい。あんたはもう義務教育が終わっているんだから一人で勝手に生きていけばいいんだからね!」

家から出ていけ扶養から外してやる。それが母のお決まりの脅し文句だ。母が脱衣所から出ると、私は母の下着の入った引き出しを開けた。ボトリ。母のレースのスリップの上に唾を落とす。せいせいする。いつもこうして私は心の均衡を図っているのだ。母はオナニー目撃事件もあり私が嫌いだから私の下着を触れないのだ。


 とは言え、母は潔癖なわけではない。どちらかというと不潔で無神経な人間だ。例えば家族で外食などする時、または何かの祝い事で皆でケーキを食べている時、必ず母は「一口頂戴」とねだるのだ。私は人の唾液がついた食べ物はもはや食べられない。母から「ねぇ一口」と言われると、私は「勝手に食え」とばかりに皿ごと母の方へ押しやってしまう。母はそこでぷっとむくれ、「みんなで楽しく食べているのに・・・・」と文句を言い始めるのだ。そうすると艶子や琴音が「お母さん私のを食べて」と母の機嫌を取りに来る。

 このように私と母は合わない親子だった。


私は次第に家にいると呼吸ができなくなった。殊に母に低身長に関するおなじみの嫌味を言われたり、扶養から外される恐怖で言い返すと事が出来ない時などは喉の奥が縮こまるような苦しさを覚えた。

煙草でも吸ったら楽になるんじゃないか、そう考えて高校生の私は私服の時に自販機でラークを買ってみた。早速家族の留守中にベランダで一本。

煙が胸に中に入って行くと同時に気道が広がって行くのを感じた。気道だけではない。委縮していた気持ちまでゆったりとして行くのだった。煙草はアメリカ先住民の習慣だ。空腹やうまくいかない人生を煙草で紛らわせていたと言うことか。私も同じ。経済的な理由で母親に隷属せざるを得ない私はニコチンでその場その場の苦しみを紛らわせるしかない。

私の喫煙は習慣になって行った。母が私をいじめるのが習慣であったように。


ある日私が学校から帰ると、母は私に煙草の空き箱を投げつけた。箱の角が目の端に当たった。過失を装った私への暴力。

「あんた、煙草を吸っているんだって?もう背が伸びないからって高校生が喫煙することはないでしょう?あーもう嫌だ!あんたは次から次へと!もういい加減出て行ってよ」

確かに喫煙は非行だ。しかし母は私の非行の裏にどんな気持ちがあるか考えることはない。彼女は人の気持ちが分からない。その前に、人には感情がある事すらも頭が悪すぎて分からないのだ。

母の背後には検察官さながら真面目くさった顔をした艶子が控えている。

「煙草なんて、やめなよ」

と説教だ。艶子が言いつけたんだなと私は分かった。


艶子なんて死ねばいい。

私の憎悪はいつまでも消えず、時々棺桶に横たわる艶子の絵を描いては一人溜飲を下げていた。終いには艶子の戒名まで考えた。

大悔院濡艶信女


母親の太鼓持ちの生き方をいつか涙に濡れて後悔すればいい。







『母の望み』



母は私に与えたものを必ずケチを付ける。

「私、この名前大嫌い」

母は書類に私の名前を書くたびに、言った。

「これどうやってもゆえって読めないわ」

「じゃあ他の名前にすれば良かったじゃない」

私がもっともな意見を言うと

「だってお義父さんが勝手につけちゃって。うちのお父さんもおじいちゃんの機嫌を取るために何にも言わないのよ。艶子と琴音は私が付けたから良かったけれど」

母は自分が被害者のように言い募るが、つまり私のためには舅と戦えなかったということだ。

 

 成人式の数か月前、母は急に思い立ったように言った。

「あんたの振袖を買うわ」

買ってもらえるならばそうするか。私は母親の車の助手席に座る。姉たちと私は身長が違い過ぎて振袖の共用はできなかった。母が向かった先は呉服屋でもデパートでもなく、何故か工業団地だった。工業団地の倉庫で着物のセールをやっている。そこで安く済ませようという寸法だった。当然これはというものはない。

「なにこれ。全然良いのがないじゃない」

母は対応した従業員に食って掛かったが、私を普通の呉服屋に連れていくつもりはないようだった。二人の姉は有名な呉服屋で作家物の絵柄を選んだと言うのに。

「こちらにおいてあるお着物は手書きではなくプリントですので、まれに同じ柄をお召しになっているお嬢様もいらっしゃいます」

従業員の言葉に母は嫌な顔をする。それでも、「デパートも見に行こう」とは絶対に言わないのだ。

「小柄でかわいらしいお嬢様ですので、こちらのなでしこ色などいかがでしょう?」

売り子が私に反物を合わせる。

「この子童顔でしょ?ピンクは赤ちゃんみたいだわ。それに膨張色で横に膨らんでみえるし」

「では大人っぽく辰砂色は?」

くすんだ濃い桃色のそれを母は

「この子みたいに背が低い子は古典柄が似合わないの。柄に体が負けちゃうのよね」

と文句しか言わない。

「ではこれでしたら柄も控えめですし」

売り子が山吹色の反物を出してきた。

「これで良いですよ」

私は面倒くさくなって言った。

「えっこれにするの?」

母はぎょっとした顔をする。

「いいんじゃないの個性的で」

私は母の論評を聞き飽きたのだ。

「でももうちょっと、こう・・・・」

母は私に翻意を促す。私は母の駄目出しを一つ一つ上げていく。

「ピンクは童顔に似合わないから駄目なんでしょ。柄が大きいのは小柄な私には駄目なんでしょ」

「そうだけど」

「ねぇ、お姉ちゃんたちが振袖を買ったお店には行かないの?」

私はそばで控えている売り子に聞かれないよう小声で言った。

「あのお店は高いし・・・」

母は口の中で言い訳をする。姉たちには高いのは買えるけれど、私には買えないということらしい。痛いところを突かれて母は即決した。

「この山吹色にして良いわよ。あんたも気に入っているようだし」

今にして思えば、母は私に高いものや赤や桃色などかわいらしい色のものを買い与えたくはなかったので、その意味では母の作戦勝ちだ。そのくせ工業団地を出るときに、

「ねぇあの着物で本当によかったの?」

変なものを選びやがって、と私に責任を擦り付けるように聞くのだ。


 一か月後、仕立てあがった振袖が我が家に届くと、

「見てよ。唯恵ったらこんなおばあさん臭い着物を選んだのよ」

と言いつけるように艶子と琴音に言うのだった。

「こんな着物、ああ嫌だ」

母は何度も繰り返す。じゃあ与えなければ良かったろうに。そして母は付け加える。

「この着物安かったのよ。艶子や琴音たちの振袖の半額以下だったんだから」


 おばあさん臭くっても艶子たちと値段がまったく違くとも、これは私の着物だ。着潰すつもりで着付けまで習いに行き、何度も袖を通した。私が振袖を着る度に、母の

「こんな着物、ああ嫌だ。この着物は艶子たちの着物の半額以下で・・・・」

が始まるのだ。

 普通の母親だったら、自分の与えた着物を娘が機会を見つけて着る、それが親孝行だと考えるだろう。でもうちの母は普通ではない。母にとって親孝行とは、母がこの着物を恥ずかしいと思うように私も恥ずかしいと思うことだ。


 母は振袖といい名前といい、とかく変なものを私に与える。変なものを与えて私をいじめる材料にする。母からの攻撃を私がきちんと受け止めて、母の望むように傷つくこと。それが母の願いだった。





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