私がおばあさんになっても
私が柔術サークルに出なくなったのを莞爾は気が付いていた。私は莞爾に理由を説明した。
「私もサークルを辞めちゃったよ。雰囲気が変わってつまらなくなっちゃったし、女でその上小柄な私が後輩の指導なんかできないもん。それに・・・・」
「それに?」
「言ったでしょ?私は女沢木耕太郎になるの。世界に羽ばたいて行くのよ」
と言って、両手を広げ、あたかも鳥が羽ばたいて行くような真似をした。はぁ、と莞爾は口を半開きにして私を見つめている。
「真面目な話、将来を見据えてちゃんと勉強をしたいんだよね」
私は改まった口調で付け加える。
「もしかして留学を考えているの?」
「そう!大学が募集している交換留学。留学先で取得した単位も卒業単位にしてくれるのよ。だから一年間留学しても留年しないの。こんな素晴らしいシステムを使わない手はないわ」
しかしそれは多くの学生が考えることだった。素晴らしいシステム故に希望者が殺到しているのだ。留学資格が与えられる学生のほとんどは語学学部在籍だ。選考には語学の試験が課される。
ここで一つ問題がある。私の成績は非常に悪いのだ。小学校、いや幼稚園から常に落ちこぼれである。幼稚園のお勉強について行けず、教育らしい教育をしない保育園に転園したという駄目っぷり。その保育園すら登園拒否を起して月に数度通えば良いほうだった。こんな障害児だからこそ母は私のパンツを洗いたがらないし、高い着物を買いたくなかったのだ。成績が悪いのは頭が悪いせい。そして精神が細すぎるせいだ。
不眠症を自覚したのは幼稚園の時。夜寝られないから朝起きられない。だから私は中学生から遅刻の常習犯である。絶対に遅刻が許されないときはどうするか?私は前の晩から徹夜をして寝坊を防いでいるのだ。睡眠不足で私の頭は霞がかかっていることが多い。これでは何を教えられたって脳みそが吸収できるはずはない。
そしてもう一つの悩み。
ここで書くのもお恥ずかしいが、私の頭にはいつも小さなはげがある。ストレスで抜けてしまうわけではない。自分で抜いてしまうのだ。だから美容院に行けないのだ。そんな恥ずかしい病が発症したのは中学生の時。レベルの低い私立中学に通っていた私は、馬鹿中学の中ではまあまあ成績は良かった。それが抜毛が始まってごらんなさい。坂道を転がり落ちるように成績が落ちて行って、数学や化学ではいつも赤点。馬鹿中学の中の本当の馬鹿になり下がる。
常に睡眠不足で授業に集中できない、試験前に焦る、焦ると毛を抜き始める、明け方まで毛を抜き続け、さらに睡眠不足と準備不足のまま試験に臨み、進級できるかどうかの瀬戸際の成績だ。出来立てのはげを触るとそこだけがつるつるだった。勉強を怠り、一晩かけて成し遂げたのは頭にはげを作ることだけだった。
脱毛癖は大学生になっても治らなかった。その日も大学の課題が手につかず、自室でぷすぷすと髪の毛を抜いていた。机の上にこんもりと積み重なった私の髪の毛。その黒々とした塊を見つめ、いい加減解放されたいと思った。
私が通う皮膚科はちょっと変わっていて、不登校相談や心療科も標榜していた。いつも飲んでいるアレルギーの薬をもらいに行くがてら、私は相談してみた。
「夜寝られないんですけれど」
「いつから?」
医者は聞いた。
「幼稚園の頃から」
「そんなときから?なんでだろう?」
「布団に入ると胸がどきどきして眠れなくなるんです」
「そうだねぇ・・・」
と目の前の中年男性の医師は考えてから、
「精神の緊張を取る薬を出そうか。デパスと言って割と有名な薬だよ。布団に入る二時間前位に飲むといい。比較的副作用は少ないと言われている。後は頓服で眠剤も出すから」
医者はキーボードで薬の名前を打ち込んで今日の診察は終わり、の体になった。
「あ、あの、それから」
私は急き込んで言葉を継ぎ、診察室から追い出されまいとする。
「あの、私」
私の手も声も震えだした。医者は軽く身を乗り出して私の言葉を聞こうとする。
「どうしたの?」
医者はあくまで優しい。私は勇気を振り絞り、
「髪の毛を抜く癖があるんですけれど、これって病気ですかねぇ」
緊張とは裏腹に、軽く相談してみただけ風を私は装う。医者の顔色が変わった。
「君が?」
「はい」
「今も?」
「はい」
医者はカルテを覗き込み、
「君は十九か。ここまで大きくなって珍しいね。小さい子が髪の毛を抜くっていうのは良く聞くけれど」
私は精神的に幼いのか。医者は質問を続ける。
「君のお母さんはどういう人?」
「だらしのない人です」
「親御さんとはうまくいっているの?」
「いや全く」
「そうだろうね。家庭内のストレスで抜毛が始まるパターンが多いからね」
うちはやっぱり子供を変にする変な家だったのか。医者は立ち上がり、
「ちょっと見せてごらん」
と私の髪の毛をめくる。ああ恥ずかしい。私は顔が赤くなっていくのを感じる。
「あ、本当だ。結構抜いているね」
「だから美容院に行けないんですよー」
医者は椅子に戻って、私をまっすぐに見つめる。
「で、君は直したいんだよね?」
私は強く頷く。
「薬を追加するから。朝と夜に飲んで様子を見てみよう」
生まれて初めて処方されたこころの薬。これは私の未来を変えるのか。新しい世界へのパスポートを得た気持ちで私は夜を待ちわびた。
しかし私は抜毛の薬を続けることは出来なかった。複数の薬を試したが、どれも副作用のの吐き気が我慢できないのだ。
治らない。私はその現実を受け止めなくてはならない。私は抜毛を抱えたまま四〇歳になり五〇歳になり、老婆になっても髪を抜き続けるしかないのだ。