そんな小さなこと
私は意気地のない臆病な子どもだった。だからこそ強くなりたいとの気持ちが常にあり、大学では柔術サークルの門を叩いたのだった。
小学校に入学して初めての予防接種。死刑執行を待つ罪人のように、私は体育館の列に並んで医者からの注射を待つ。ついに私の番だ。医者に腕を掴まれると、私は思わず、
「いやッ」
と声を上げて医者の手から逃れて、大声で泣き出してしまう。看護師から宥められながらなんとか接種を終えて、涙目で体育館を出る。途中で姉の艶子と琴音に目が合う。二人は私を慰めるでもなく、面白い見世物を観たかのようににやにや笑っている。
果たして夕飯の時は、艶子と琴音の
「いやッ」
「いやッ」
「うえーん」
「うえーん」
「いやッ」
「いやッ」
「うえーん」
「うえーん」
のお囃子の元、母に今日の出来事のご報告。
「唯恵が注射で泣いたんだよ。艶子、みんなに笑われてすっごく恥ずかしかったんだから」
「そうそう、あの泣いている子、お前の妹だろうって男子に言われちゃったよ」
母は姉たちの意地の悪さを叱るでもなく、姉たちと同じようにおかしそうに笑っている。
そして娘たちそっくりなにやにや笑いで、
「学校で泣いちゃダメっていつも言っているでしょう。唯恵ちゃんは背が低くて幼稚園生みたいに見えるんだから、小学生らしくしないと。これじゃ中身も幼稚園生じゃない」
その夜の夕飯は水炊きだ。母親は料理が嫌いで、夕飯は手のかからない鳥の水炊きか湯豆腐が多かった。それをポン酢で食べる。酸味の苦手な私は食べられない。母は子供の味覚に気を配るような女性ではなかった。姉たちからからかわれ、母からは一番言われたくない低身長を指摘され、おまけに夕飯はポン酢で食べる水炊き。私はもう夕飯がのどを通らない。艶子たちがデザートを食べながら居間で楽しくテレビを観ているというのに私はいつまでも食卓にいる。
「早く食べちゃいなさい!」
母親の雷。私は涙が出て来て更に食が進まない。母は眉間にしわを寄せて
「食べるの?!食べないの?!」
私はやっとのことで、食べないとだけ言う。母はため息をつき、乱暴に食器を下げる。
「ちゃんと食べないと背が伸びないわよ」
こうやってお母さんから怒られるのは艶子と琴音のせいだ。二人とも死ねばいい。
私は幼いころから皮膚が弱かった。母はどこで聞きかじってきたのか、紫外線が皮膚に良いと信じ、海水浴場での甲羅干しを私に強要した。湿疹に海水が沁みて痛い。その後の火傷のような日焼けの痛みと言ったら。しかし一番許せないのは、混雑した夏の海水浴場で水着を脱がされて素っ裸にされたことだ。母は先回りして言うのだ。
「子供だから良いわよね」
そのころ私は小学生。恥ずかしいに決まっているではないか。私がためらうと、母は嫌な顔をして
「子供のくせに恥ずかしがっていやぁね。子供らしくないわ。だれもあんたの裸なんか見ていないわよ」
それでも私が言うことを聞かないと、
「アトピーが治らなくてもいいの!?」
と脅迫。私は自分で水着を脱ぐ。艶子と琴音は例によって私の受難をにやにや笑っている。小学四年には胸が膨らんできていたが、それでも母親は私が公衆の面前で裸になることを命じ続けた。
母と艶子と琴音。三人は仲が良い。では私は父と仲が良いかというとそうでもない。ただこの家の中で、下の子が父親好きであることを暗に要求されているようなので、父とは仲良しの振りをしていた。旅行先では当然のように父と男風呂に入らされる。拒絶する気すら起きなかった。
「恥ずかしがるなんて子供らしくない」
と責められるに決まっているからだ。そもそも真夏の海水浴場で裸にさせられているのだから、今更恥ずかしいとは言えないが。
そう、人間の持っている恥ずかしい、嫌だ、怖いという感情を捨てればいいのだ。私は自分のことを僕とか俺と呼ぶようになって言った。私は男だ。だから恥ずかしくなんかない。服は男のいとこから貰った古着ばかり。おしゃれなんかしたら、
「色気づいちゃってさ」
と母や艶子たちに笑われるのだ。汚い恰好をしているとホッとする。それが私にふさわしい身なりだから。
「僕なんて言わないでよ。女の子がみっともない」
「みそぼらしい恰好はしないで。あーもう、あんたって本当にセンスがないんだから!」
母は機関銃のように私を責め立てる。時に母親は子供たちと連れ立って服を買いに出かけたが、私の服を選ぶときには
「もう四年生なのに唯恵はまだ一三〇センチだって。一度病院に連れて行ったほうがいいのかしら」
と必ず身長のことにケチをつけるのだ。
なお私は母親から「人の嫌がることはしない」と言われたことがない。何故なら、人が嫌な気持ちになるのは、その人の心が狭いせいだからだ。母に言わせれば「そんな小さなことを気にして」。それでおしまいである。
十歳の頃、私が脱衣室で裸になっていると艶子が
「あー、唯恵のおっぱい大きくなってる!」
と大声を上げた。艶子の声に琴音も脱衣室に飛び込んできて、
「本当だ!おっぱいが大きい!」
この二人が騒ぎ出すと、必ず禍々しいことが起こる。案の定母親が険しい顔で脱衣室に入ってきて、
「背が低いのにおっぱいが大きくなってどうするのよ!」
と私を責める。私は自分の体が恥ずかしくなって、胸を隠して浴室に逃げ込む。目の端で艶子と琴音がにやにや笑っているのが目に映った。
日に日に胸が膨らんでいく私の姿を、母親は汚いものを見るような目で見た。
「生理が来たらどうするのよ。背が伸びなくなるのよ」
母の言葉に私はうなだれる。母は手で顔を覆って言った。
「小学生にうちに生理が来たらどうしよう・・・・」
「今は小学生で来るのが普通だよ。お姉ちゃんたちだって小六で来たじゃない。それに小四でなっている子だって・・・」
小学生で生理になっても私のせいじゃない、先回りして自分の逃げ道を作るために私は言った。母は私を睨み付けて、
「お姉ちゃんたちは体が大きいからいいの!あんたは背が低いからいけないの!」
ついに人生最悪の日がやって来た。十二歳になったばかりの冬、私の下着に血がついていた。もう隠せない。私は母に言った。
「生理になっちゃった」
母はキャッと短く悲鳴を上げて、手で口を覆った。今日の艶子と琴音はいつものようなにやにや笑いをしていない。気味の悪いものを見るような顔でこちらを見ている。
「驚いたわ、こんなに早いなんて・・・」
艶子と琴音は小声で、「生理・・・」とささやき合っている。
これで私の成長期は終わりである。わずか十二年足らず。もう背は伸びない。この奇形すれすれの身長のまま胸が膨らみ男を知り、妊娠していくのだ。