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キスが嫌いになったわけ  作者: 山口 にま
第七章
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さらば故郷

 アパートで本を読み寛いでいると、携帯電話が鳴った。発信者は聖一だった。私はメーカーに就職が決まったこともあり、迷った末に電話に出てみた。

「久しぶりだね」

電話の向こうの声が言う。

「こんばんは」

あんたなんかまったく問題にしていないんだと言わんばかりの落ち着いた声で私は応じた。

「日本にいるの?」

私は一瞬黙ったが、ふふんとだけ答えた。

「何で?」 

聖一は聞いた。

「何でって、あなたのせいじゃないか」

私は声に怒りを滲ませる。涙が出てきた。

「ごめん」

「いいの。罪と罰だ。自分が悪いんだから」

「今どうしているの?」

「大学は続けている。親は学費だけは出してくれた」

「唯恵ちゃん、就職は?」

「一社だけ内定が出た」

「良かったね。どういうところ?」

「どこでもいいじゃない」

「ごめんね」

私たちは黙った。めそめそしていても仕方がない。私は気を取り直して、

「仕切り直しだ。聖一さんだってそうでしょう?」

「そうだね。僕もすべてを無くしてしまったし」

「全て?」

「子供も艶子も」

「お骨は」

「君の実家にあるよ」

まるで他人事だ。こういうところが彼を信頼できないのだ。

「私、フィリピンに行ってくる」

「フィリピン?」

「留学の話が駄目になっちゃって、そのことを英語の先生に話したら可哀想に思ったのかフィリピンに呼んでくれたの。英語の勉強ならばフィリピンでも出来るし」

あんたはなんの助けにもならなかったしねとの言葉を私は飲み込む。

「いつから」

「飛行機のチケットが取れ次第」

「一度ゆっくり話したいんだけど」

こう来たか。私はただで呼びつけられるデート嬢じゃないのに。

「話してどうするの?」

私がこう返すと

「どうするって・・・・」

聖一は苦笑する。これで聖一と続けたら潔癖なクリスティーナは私を受け入れないだろう。

「私、思うんだ。赤ちゃんが死んだのも、艶子が死んだのも、私たちのせいだって」

私たちが面白半分に地獄の入り口を訪ねたから。

「唯恵ちゃんが責任を感じるのは分かるけれど・・・・」

「少なくとも二人は死んだ」

「俺はどうすればいいんだろう」

私に聞くなと思いつつ、

「再婚をすればいい。そうすれば巻き戻せる」

海辺の別荘で私が聖一に笑いかけた事も、貴船で気持ちが通じ合ってしまった事も、全てなかった事になる。

 私は食い殺したんだ。聖一だけではなく、赤ちゃんも艶子も。

「唯恵ちゃんの人生、幸多かれと願っている」

「私をこんな目に遭わせておいて」 

聖一は嫌な声を出して、

「人のせいにばっかりしないでよ。全部君から仕掛けて来た事じゃないか」

と食って掛かってきた。

確かにそうだ。じゃあ自分も含めて登場人物全員不幸になった結末は私自身が望んでいたのか?私はけっと笑った後に

「じゃあもうさようならだ」

と言って電話を切った。

 

 いきなり音のない世界に放り込まれたようだった。タバコが吸いたいと思った。確か吸いかけの箱が残っていた筈だ。タバコタバコ。私はいくつかの引き出しを開けて、引っ越し荷物に紛れていたタバコを探す。随分前に買ったそれは湿気っていたがまだ香りは残っていた。私は一本くわえてガスコンロに顔を近づけた。煙が私の胸を満たした。その煙をそっくり吐き出すと胸のふさがりがなくなった。続けざまに煙を吸い込んだ。気持ちが落ち着いてきた。


 母は私を嫌っていた。物心ついた時から感じていて、母が年頃になった私のショーツを洗うことを拒絶したことで、それは確信となった。子供を受け入れないなんてなんてひどい母親だと、私も母を憎み続けた。

 しかし母は分かっていたのだ。自分が一人になりたくないという理由だけで、誰にでも体を開いてしまう私のだらしなさを。近親者の相手には手を出さないという、どこの共同体にもある基本的な掟すら守れない倫理観のなさを。こんな子供の分泌物のついたパンツなど、血を分けた母でさえ洗いたくはないだろう。


 私はあの家の嫌われ者なのだ。私が今一人で暮らしているのは、家出をしたからではない。追い払われた結果だ。猿山で同じことをしたら、追放されるか、咬み殺されるか、階層の一番低いオスザルをあてがわれるか、何某かの制裁を受ける。

 今になって気が付くなんて。私は母が言う通り、「出来ない子」「遅れた子」「何をやらせても駄目な子」だったのだ。

 私は二本目の煙草を香炉でもみ消した。

 フィリピンに行って、沢木耕太郎みたいに世界に出て行って、自分の力でお金を稼いで____そんな風に思い描いていた未来が本当に手に入るのかしら?親からでさえ愛されなかったこの私が。私は気味の悪い奇形児だ。親の手で海に流されたヒルコだ。

 三本目の煙草を手に取ったが、ため息が押し寄せて、火をつける気にはなれなかった。

  

 ゼミの担当教授は人遣いが荒い。内定を報告したとたん、

「ゼミ活動に参加しなさい」。

それは美術展の搬入作業に駆り出されることを意味する。お礼奉公も一度はしなくてはならないし、三年生相手に先輩風を吹かせるのも悪くなかった。私は指定された美術館にジーンズで向かった。バックヤードにいるのは知らない顔ばかりだ。その中に莞爾がいた。莞爾は教授の助手よろしく下級生に指示を与えていた。

「莞爾先輩。私は何をすればいいんですか?」

私は莞爾の背後から声をかけた。莞爾は振り返り、

「唯恵も来たのか」

「お礼奉公よ」

「ってことはどこか決まったのか?」

「インテリア資材メーカーに」

「おめでとう」

後輩たちは顔をあげて私たちの会話を聞いている。彼らも来年に控えた就職活動が気になった仕方がないのだ。

「莞爾も就活は終わり?」

「一応ゼネコンからも内定はもらった」

「ゼネコン?やっぱりコンペ荒らしは違うわね」

「そんなんじゃないよ」

莞爾は首を横に振る。


 思いの他搬入に時間がかかり私たちが解放されたのは午後八時を過ぎたころだった。今から帰宅したらアパートに着くのは九時になってしまう。

「何か食べていく?」

私たちはどちらからともなく誘い合う。食事ができそうな店を探したが、軒を連ねるのは飲み屋ばかりだ。やがてインド国旗を掲げたカレー屋を見つけ入ることにした。この店は・・・・。莞爾も同じことを考えたのか一瞬歩みを止めるも、他に適当な店がなかったのでそのまま入店した。

「あの時はすみませんでしたね」

私は頭を掻き掻き言う。以前この店に莞爾と訪れ、その帰りに陸と鉢合わせをしてしまったのだ。

 席について私も莞爾もナンとサフランライスがついているタリー定食を頼んだ。

「飲んじゃおうかな」

と私は言い訳しながらワインも頼む。私は聞いた。

「莞爾はこれから卒業までどうするの?」

「公務員試験も受けるつもりなんだ。それが終わったらコンペが控えている。その後は卒業制作」

「またコンペ?好きだねー。そのうち原田莞爾展が開催されるんじゃないの」

いやいやそんな、と言いつつ莞爾はまんざらではない笑顔だ。

「莞爾はいつも制作に明け暮れていたよね」

「思い描いていた通りの学生生活を送れて俺は満足だ」

「そんな風に言い切れるなんてすごいね」

ワインが運ばれてきたので私はグラスを手に取った。

「唯恵だって目標に向かってまっしぐらだったじゃないか」

「私はいつだってぐらぐらだよ。結局ニュージーランドの地は踏めなかった」

「残念だったな」

「でも捨てる神あれば拾う神ありよ。英語の先生がフィリピンに呼んでくれたから、二か月ぐらいミンダナオ島って所に行ってくる」

「いつから?」

「再来週。当初は先生の家でホームステイするつもりだったけれど、そこまでお世話になるのもなんなので、語学学校の寮に入るわ」

莞爾はためらった後、

「出発は成田?見送りに行こうか?」

「莞爾だって忙しいでしょう?いいわよ」

私は即座に断った。

「実家には時々帰っているのか?」

莞爾は聞いた。

「全然。母の日に花でも届けようと思ったけれど、結局やめちゃった」

「一度ぐらいは帰っておいたら?風のうわさで娘がフィリピンの島にいると知ったら、親御さんはどんなに心配するか」

「心配するかねぇ。親は私には匙を投げていたし」

正直心配させてやりたいとの気持ちもある。自分たちの子育てが成功に終わったと思ったら大間違いだ。せいぜい後悔すればいい。莞爾はラッシーを一口飲んだ後に言った。

「おかしな病気を持っている俺なんかどうなっちゃうんだよ」

莞爾が自分のてんかんに言及するのは初めてだった。

「それを差し引いても莞爾には長所があるし。才能とか」

「でも俺、車の運転は出来ないんだぜ」

「就職先はそのことを知っているの?」

知っている、莞爾は答えた。

「後でばれたら大変なことになる」

「そうよ」

私は莞爾の選択に胸を撫で下ろす。将来の懸案が一つ消えた。


 あの夜と同じように私はワインをお代わりした。やがて店には蛍の光が流れ出し、インド人たちは店内を掃除し始める。私たちは慌ただしく店を出た。

「しばらく唯恵とは会えなくなるけれど」

「私たちって変だね」

「変?」

「いつも会っているのが当たり前になっちゃっている」

「変わっていくのかな、俺たちが卒業したら」

「寂しいけれどね」

「それだけ?」

莞爾は歩みを止めた。それに釣られ私も立ち止まる。莞爾の顔を覗き込むと彼と目が合った。何だか居たたまれないような逃げ出したくなるような気持になる。私は歩き出す。莞爾は黙って私に従った。

 駅に着いて、軽く別れの挨拶を交わして私たちは逆方向の電車に乗った。


 小一時間でアパートに帰る。この部屋はテレビがなく、静かすぎるのが欠点だ。この部屋からたった一人でアジアの劣等国へ旅立つのか。こんな時に莞爾がいれば。私は魔法の帽子を出して被って見た。私は心から莞爾を必要としていることを知る。莞爾のいる場所はいつも微笑みがあった。莞爾は太陽に向かって真っすぐ伸びてゆく夏の菩提樹だ。私は携帯を取り出して、彼にメールした。


七月一日 十三時三〇分 フィリピン航空、成田発マニラ行き もしよかったら見送りに来てください。


返事はすぐに来た。


了解。成田のどこに行けば会える?詳細を教えてください。莞爾


 旅立ちの日の朝は静かに晴れ渡っていた。私は出かける前に冷蔵庫を開け、清涼水のペットボトルを取り出した。これで冷蔵庫は空っぽだ。バックパッカーに憧れを持つ私は、当然バックパックの旅である。玄関のカギを閉め、このアパートから世界へ飛び出すのだ。 


 フィリピン航空は成田第二ターミナルからの出発だ。搭乗手続きを済ませ、出発ロビーで待っていると、莞爾がやってきた。

「顔色が悪いぞ」

「実は一人で外国に行くのが初めてで」

「初めての一人旅がフィリピンか。大丈夫?」

「不安になってきた」

私はため息をついた。不安になるとまたいつもの悪癖が顔を出す。私の指はいつに間にか髪の毛を引っ張り始めた。いかんいかん。

「そんな時はこれを」

と私はひとりごちてバッグから魔法の帽子を取り出した。

「君、まだそれを持っていたのか?」

「フィリピンでも役に立つかと思ってね」

二ヶ月も英語漬けならば髪の毛を毟りたくもなるだろう。莞爾は笑い出した。そして

「とても君に似合っている」

と言って私を見つめた。莞爾は言う。

「唯恵は自分の居場所が見つからないって言っていたけれど・・・・」

「今でも見つからないよ。それを探しにって言うか、作りに行くのが旅立ちなのかな」

「唯恵の居場所は・・・・俺のそばじゃ駄目なの?」

莞爾は私の手に自分の手を重ねてきた。心臓が轟き出す。胸の鼓動は一人旅の不安によるものなのか、それとも莞爾との初めての触れ合いのためなのか。しまいには膝が震えてきた。

「唯恵、俺は、俺は・・・・」

莞爾はかすれた声を何とか絞り出す体で、苦しく私の名前を呼び続ける。

「唯恵、君が好きだ。唯恵がいなくなる世界なんて信じられない」

莞爾は早口で言い切ると、肩で激しく息をする。私は返事はおろか、動くことさえできず莞爾に手を握られたままだ。

 やがてマニラ行きフィリピン航空への搭乗を急かすアナウンスが流れてきた。

「私、もう行かないと」

私は震える足で立ち上がる。莞爾もふらふらだ。私たちはお互いにもたれ掛るように抱き合った。その勢いで帽子が脱げてしまう。頬に感じる鼓動は莞爾のものなのか自分のものなのか最早分かりはしない。私は顔をあげて莞爾の顔を覗き込む。莞爾はそのまま顔を近づけて私の唇を盗もうかためらっているようだった。私はふと成田空港の雑踏に泣いている艶子がいるような気持ちになった。そして聖一の手に中で息絶えた新生児の事も思い出した。べったりと人の死がへばりつく私の青春。

私は莞爾に胸の中で目を閉じることが出来なかった。私はそっと莞爾の背中に腕を回し、一度だけ自分の鼻先を彼の胸に押し付けた。

「今日は来てくれてありがとう」

そう言って私は体を離した。莞爾は帽子を拾い上げて埃を払った後に私に被せてくれた。そして帽子の上から愛情を込めて私の頭を撫でた。

「唯恵が帰ってくるのを待っていていいのかい?」

私はそれには答えず、

「行ってくる。沢木耕太郎になって来る」

とだけ言った。そして莞爾と手を強く握り合った。


 私はセキュリティーチェックの列に並んだ。人の波に流されて莞爾はやがて見えなくなる。出国審査を済ませたら、そのまま一直線に搭乗ゲートだ。私は帽子を脱いでバッグにしまった。搭乗ゲートからは私が乗るであろうフィリピン航空の機体が見えた。ダバオの空港ではクリスティーナが待っているはずだった。 


 この長い話は私が故郷を捨てる物語だ。莞爾がその物語の中で単なるエピソードになってしまうのはたまらなく悲しい。しかしハッピーエンドはあり得ない。私には分かるのだ。この私は、到底莞爾とは結ばれないことを。

 

 さらば故郷。

 さらば莞爾。

 さらば、幼き自意識の世界よ。


 私はマニラ行きフィリピン航空に乗り込んだ。


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