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キスが嫌いになったわけ  作者: 山口 にま
第七章
25/26

放蕩娘は帰るのか

 週末琴音から電話が掛かってきた。琴音は何事もなかったかのように明るい声で言った。

「明日は母の日よ。うちにおいでよ」

母の日?もう私には関係のない話だ。バイトを理由に断ると、

「お母さんが唯恵が来てくれるか気にしているのよ。ねぇ来てあげて」

「お母さんは私が行っても喜ばないでしょう」

「そんなことはないわ。カーネーションの一本でも持って来ればいいじゃない」

「お母さんはカーネーションは嫌いよ」

「じゃあ、お母さんが喜びそうなものを」

「それって一体何?」

琴音は答えられない。当然だ。琴音だって毎年「私のほしいのはこれじゃない」と母親に言われ続けているのだから。琴音は話題を変えた

「明日お母さんはごちそう作って唯恵を待っているよ」

「ごちそう?お湯で煮ただけの湯豆腐?それともポン酢の味しかしない鳥の水炊きのこと?」

 根競べのように私たちは黙った。やがて私から口を開いた。

「私は今自分で家賃を払っているんだよ。就職活動で忙しいからバイトもままならず、貯金を切り崩しながらなんとかやっている状態で、そんな子供にお母さんは母の日のプレゼントをねだるんだね」

「あ、違うの。お母さんは何も求めていないの。ただ私が勝手に・・・・」

「私は行きません。理由は経済的なことです」

「ねぇ唯恵」

琴音は声の調子を変えて、

「お母さんは私たちより早く死んでいくんだよ」

「どこか悪いの?」

母親が死ぬ。私は喜びを隠しきれない。

「そういうわけじゃないけれど、お母さんももう年だし」

母の還暦はまだまだ先だ。当分死んでくれないだろう。

「こんな絶縁状態みたいな状態で、お母さんに何かあったらどうするの?」

「どうするって・・・・」

遺言書の存在が気になるところだ。だから私の不利な遺言書を書く間もなくぽっくり死んでほしい。もちろんそんな余計なことは言えないので、その代わりに私は言った。

「そういえばお母さんは気に食わないことがあると、お母さんは死ぬとか病気になるとか言って私たちを脅したよね」

「そんなことはないよ」

ここで私は口をつぐむ。いつか琴音とは遺産で争うことになるだろうから、今から手の内を見せるのは危険だ。

「私は横浜に異動になるの。家から通えないから一人暮らしを始める」

琴音は言う。

「そうなんだ」

「艶子はあんなことになっちゃったし、もう私たちしかいないんだよ」

琴音は涙声だ。私は少し焦って、

「ごめん、でも私本当にお金がなくって・・・・」

琴音は受話器の向こうで呼吸を整えているようだった。

「唯恵はこれからどうするの?」

「普通に就職するよ。一度フィリピンに行こうと思う。友達がいるの」

「そう」

「琴音は?彼氏と結婚するの?」

「いずれね」

「お幸せに」

「明日待っているからね。手ぶらでもいいのよ」

最後に琴音はそう言って電話を切った。携帯を置いた後、琴音に対する嫌悪感が込み上げてきた。泣いたり脅したりして相手を支配しようとするところは母親とそっくりだ。メカ音痴の母が私の携帯電話の暗証番号を割り出す事など出来はしない。琴音の入れ知恵だととっくに分かっているのだ。


 私は畳に横になった。

 やっぱり私は愛されなかった子供だ。母の一番の関心は、自分がいかに大切にされるかだ。家を出された娘がこんなに困窮しているというのに。

 私は一人暮らしを始めてから白い米飯を食べていない。いつも麦と米半々の麦飯だ。(麦が半分を超えると自分の尿が恐ろしく臭くなるのでやめている)預金通帳の残高を見てはため息をついて、ついに体重は四〇キロを割ってしまった。

 幸せになって母や琴音を見返してやりたいと思う。それと同じぐらい不幸になりたいとも思う。不幸になって、自分を傷つけて、これがあなたの子育ての結果だと母に見せつけてやりたい。


 私はいつの間にか髪の毛を抜き始めた。もう逃れられない。こうやって髪の毛を抜いて年老いていくのが私の運命なのだ。不思議なことに髪の毛を抜き続けていると地肌の感覚がなくなる。痛みがなくなり、髪の毛はたやすくぷすぷすと抜けていくのだ。私は夕飯も食べずに抜き続ける。畳の上に髪の毛の黒い山ができ、そこで私の手はやっと止まる。起き上がって合わせ鏡で見ると、後頭部に小豆大の禿が出来上がっていた。

 せっかく治ったのに。せっかく美容院に行けると思ったのに。

そうそう、こんな時こと魔法の帽子だ。幸い私は莞爾から私は莞爾からもらった帽子をアパートに持って来ていた。帽子を被ってこれ以上頭皮を触れないようにした。

 なんで私はこうなんだろう。何かがいつも私の行く手を邪魔しているのだ。その日は履歴書を書く気にもなれず、深夜までネットサーフィンをして時間を浪費してしまう。

 深夜までパソコンの画面を見ていたので、布団に入って目を閉じても瞳の裏がちかちかと発光しているようだ。一人暮らしを始めてから睡眠薬をやめていたのに。私はいつまでも眠れず、午前三時になってやっと睡眠薬を飲む決心がついた。


 今日のアルバイトは午前八時半開始の早番だった。二つの目覚まし時計で這うように起き、吐き気を噛み殺して家を出る。睡眠薬がまだ脳に残っている感じだ。

 私が乗車した新幹線は午後五時に東京駅に着く。今日の仕事はこれで終わり。


 駅構内の花屋は行列ができている。皆カーネーションやミニバラを手に精算を待っていた。カーネーションの花束は千五百円だ。私は花屋の前で歩みを止めた。今日、私が実家に行かなかったらどうなるだろうか。私は母の資産の相続人から外されるだろう。母は裕福な家庭の出身だった。祖母から相続した海辺の別荘をはじめ、駅前にある月極め駐車場、親戚と共同経営しているアパートなど、すべてが琴音に渡ってしまう。私はカーネーションの花束を持ってレジに並んだ。母と琴音には勝てなかった。しかし物は考えようだ。たった千五百円で不動産が相続できるならば安い投資である。

 私は十数年ぶりに買うカーネーションをしげしげと見つめた。薄い花弁、単純な色。鼻を近づけても何のにおいもしない。確かに母が「好きじゃない」というのも分かる。その上母の日のこの時期だけ信じられないほど値段が高騰する。確かにこんな花を貰ってもうれしくもなんともないだろう。

 店員がショーケースを開ける。とがった蓮っ葉な匂いが私を包む。これは百合の匂いだ。手元のカーネーションと見比べると、百合の方が花弁が大きく見栄えがする。少なくとも百合は適正価格だ。私は店員に黄色い百合を花束にしてくれと頼んだ。

 このユリを母に差し出す、それでいいんだ。


 電車に乗って実家に向かう。東京駅から一時間の距離。ふと花言葉が気になった。なんにでもケチをつけたい母はありとあらゆる粗を探し出すだろう。携帯のサイトで調べた百合の花言葉は、「純潔」「洗礼された美」。これならば問題はなかろう。サイトには丁寧に色別の花言葉も載っていた。

 白い百合「威厳」

 赤い百合「優しさ」

 オレンジの百合「華麗」

黄色い百合「偽り」

 

 偽り。

 私は笑いたくなった。勇気を振り絞って母への贈り物を買ったというのに、意味は「偽り」。嘘はつけないようになっているのだ。私は百合の匂いを嗅いだ。途中の駅で電車を降り、自分のアパートへ向かう。


 家族をやめることは簡単だと今の私には分かるのだ。幼いころは家と父と母と姉たちが私の世界のすべてだった。しかし艶子が死に、私は家から離れた。そして琴音は遠くに転勤し、父と母は二人だけの家族に戻った。監獄の鍵は実は常に開いていたのだ。 


 帰宅途中で花瓶を買い、百合の花を挿した。黄色い百合は媚びるような芳香を一晩中まき散らし続けた。私みたいな、人の顔色を伺ってばかりの花だ。

 琴音からの電話は掛かってこなかった。

 


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