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キスが嫌いになったわけ  作者: 山口 にま
第七章
24/26

石持て追われ

 生家から石持て追われて、アパート暮らしが始まった。一人暮らしはどんなに寂しいかと思っていたが、実際はそうでもなかった。朝ごはん作って、家を飛び出してバイトに行ったり就職セミナーに行ったり、夕方に帰ってきて夕飯を作り、風呂に入り洗濯をして掃除をして食器を洗って、それで一日が終わりである。クリスティーナはテレビを残していかなかった。空いている時間を私は履歴書を書いたり本を読んだりして過ごした。大方単位を取得してしまったので大学には行っていない。友人たちは皆私がニュージーランドで留学生活を満喫していると思っているだろう。


 妙な話であるが、留学が駄目になってホッとしている自分がいる。私は母に貸しが出来た。親だからという理由だけで遠慮したり敬ったりする理由はない。母が私の夢をつぶしたのだから。

 

 ふと気が付くと、私は最近髪の毛を抜かなくなっていた。私は鏡を後頭部に当て、髪の毛をめくりあげた。はげは新たに生えた髪の毛で塞がっていた。どんな薬を試しても抜毛癖は克服できなかったのに、一人暮らししただけであっさりと治ってしまうとは。

 私は早速美容院に行く。取れかかったパーマは潔く切り、根本だけが黒い髪の毛は染め直した。生まれ変わったような気持ちになった。


 クリスティーナとは相変わらず週に一回レッスンを続けている。スカイプが日本とフィリピンを繋いでいる。

 故郷に帰ったクリスティーナはご機嫌だった。

「婚約したのよ」

彼女は恥ずかしそうにダイヤがはめ込まれた指輪を見せる

「おめでとう!」

「九月に結婚式をするの。あなたにも来てもらいたいのよ」

「いいの?勿論!」

そう言った後に、私は声の調子を落とし、

「ちょっと待ってもらえるかしら?就職が決まらないことには・・・・」

「分かっている。返事はいつでもいいわ」

七月にフィリピンに渡航し、九月の結婚式参列後に帰国が理想である。


 就職のほかにもう一つ懸案があった。それは親が今年の学費を払ってくれるかどうかだ。確かに父は大丈夫だと言った。しかし、母はどうだろうか。制裁として学費を出さないことは十分にあり得た。また学費をネタに私から何かを引き出そうとすることも考えられる。


 クリスティーナとのレッスンが終わった後、私は通帳を確かめた。何とか学費は納められる。しかし、その後はフィリピン留学どころかアパートの家賃さえも払えない。納入期限は五月の連休明けである。お金のことがいつものど元に引っかかっている。面接のない週末はいつもアルバイトだ。酒もたばこもお菓子もやめた。


 授業料納入最終日、私は就職活動用のスーツのまま大学に行ってみた。もし納入されていなかったら取り急ぎ延納の手続きをし、可能であれば奨学金の申請もしなくてはならない。(しかし五月のこんな中途半端な時に奨学金が申請できるのか?)

 夕方の学務課は静かだった。私は学生証を提示しつつ暗い気持ちで納付されたか確かめる。職員はパソコン画面を覗きつつ、

「一括でお支払い済みですよ」

と言った。私は大きく息をつく。礼を言って学務課から離れた。

 グラウンドでは野球部が練習している。その様子を見るともなしに見た。アパートの家賃が納められる。不安がなくなると気持ちが緩んで涙が出てきた。これで卒業できる。もう私と親をつなぐものはなくなったのだ。


 「唯恵か?」

背後から呼ばれた。私は涙をぬぐって振り返る。

「なんで唯恵がここにいるんだよ」

西日を背景に莞爾は驚きを隠せない体で立ち尽くしていた。

「ニュージーランドは?」

「駄目になっちゃったの」

「どうして?」

莞爾は質問ばかりだ。私は再び涙が出そうになったが、空を見て気持ちを紛らわせた。

「私、家を出たんだ。アパートの家賃を払うので精いっぱいで留学なんてとても」

「なんでそんな大事なことを言ってくれないんだ」

「言えないよこんなみっともないこと」

姉の旦那との逢瀬がばれて家を追い出されたと言えるはずないではないか。莞爾は心配げな顔で私を見つめた。私は気分を変えるように、

「女沢木耕太郎になる夢は捨てたわけじゃない。ニュージーランドは駄目になったけれど、フィリピンに行くツテはあるもん」

私は明るい口調で言ったが、莞爾は笑わずに

「君、さっき泣いていなかった?」

「泣いていた」

私は小さな声で認めた。

「どうして?」

「親が授業料を納めてくれたから、なんだかほっとしちゃって」

莞爾は言いづらそうに

「お姉さんが亡くなったって聞いたけれど、何か関係あるの?」

私は微かに頷いた。莞爾ってこんなに踏み込んでくる人だったかしら、と思う。

「私が姉を殺したわけでもないし、死ぬ原因を作ったわけでもない。でも親はそうは思っていない」

私は機械的な声で説明する。

「ま、いいさ。いずれこうなる運命よ。大体自分の家すら出られないような人間が広い世界に出ていけるかって言うの」

私がそう言うと莞爾はやっと表情を緩め、

「就活頑張っているみたいだね」

「背水の陣よ。生活が懸かっているからね。莞爾は?」

「俺もぼちぼち」


 私たちは学生ホールに入り、缶コーヒーを飲みながら話した。私は黒いスーツだが、莞爾はジーンズだ。

「デザイン会社からも内定を貰った」

莞爾は言う。

「すごいじゃない」

「でももうちょっと活動を続けるつもりだ。唯恵はどの辺りを狙っているの?」

「美術とかデザイン系は受けていない。才能がないって分かるでしょう?」

「そう?いいもの持っていたけれど」

「いやいや。私には向いていない。今は商社とかメーカーとか回っている。ま、普通のOLになるんだろうね」

「OL・・・」

「ほら、私、家を出ちゃったでしょう?だから自分の可能性を探るよりも一人できちんと生きていくのが先決だと思うんだ」

莞爾は改めて私を見て、

「苦労しているみたいだな。痩せた?」

「痩せた痩せた。でもお金がなくって食べていないわけじゃないのよ。私、実はお米も炊けないような女で、最初は自分の作った料理のまずさにまったく食欲が湧かなかったの」

「えっそうだったの?」

「女が料理好きだっていうのは幻想よ。でも最近はきんぴら作ったり魚を焼いたりして自炊している。私は自分の部屋を文化発信基地にしたいの」

「基地?また突拍子もないことを・・・・」

莞爾は苦笑する。

「私は文化的に暮らしたいの。部屋にはテレビはないし、酒もたばこも持ち込まないようにしている。あるのは新聞と本だけ。ネットだって就活以外ではやらないようにしているんだから」

「唯恵節健在だね」

私は茜色に染まった窓の外を見ながら、

「ずっと自分の居場所がなかった。でも自立してやっと自分の場所を見つけたよ」

「なんだか安心した」

「安心?」

「唯恵ががりがりに痩せて青白い顔をして、おまけにニュージーランド行きもなくなったって言っていたけれど、一人暮らしを満喫しているみたいだし」

「家を出てよかったと思っている。人はどこかで故郷を捨てなきゃいけないんだよ」

「中原中也みたいだな」

「あとは前進あるのみだ」

私は壁の時計を見て、

「あらこんな時間だわ。遅くまで引き留めてごめんね」


 夕日の名残が西の空を優しく染めている。私たちは立ち上がり、ともに駅に向かった。

「十一月まで唯恵に会えないと思っていたのに、こんなに早く会えるとは」

「ゼミのみんなも私がニュージーランドの空の下、青い目の男の子とトークを楽しんでいるかと思っているんだろうなぁ。実際は築三十五年のぼろアパートで履歴書を書いているというのに」

「まあそう言うな。俺は唯恵と会えて嬉しかったぜ」

「私も隠し事をぶちまけて胸のつかえが取れた」

「髪の毛切った?」

切ったと私は答える。

「短いほうが似合う」

「髪の毛に触られるのが大嫌いだったんだけど、気分を変えたくって切ったの」

今の私は抜毛癖に悩むフリークスじゃない。

 

 学費の支払いは親の義務とはいえ、百万近くの金だ。翌日父親の携帯に電話をかけて礼を言った。

「どうもありがとう。ちゃんと卒業するから」

父は

「お母さんにもお礼の電話をしなさい」

母は専業主婦で毎日習い事三昧だ。さらには怪しげな健康食品を買い込んで、百万円なんてお金、母は一年で浪費している。とはいえ手切れ金は貰ったし、最後に礼ぐらい言ってやるか。言葉はタダだし。私は自宅に電話をした。母が出た。彼女と会話をする気はない。私は言いたいことだけ言った。

「昨日学費の支払いを確認した。どうもありがとう。これで卒業できます」

母は黙っている。金さえもらったらもう用はない。私は「じゃあこれで」と電話を切ろうとする。母は言った。

「あんたを許したわけじゃないんだからね」

私は生まれて初めて親に口答えをした。

「お母さんはどうせお姉ちゃんの味方だもんね。いつだってそうだ」

受話器の向こうで息を飲む音がする。母は一瞬黙った。

「そうよ、何が悪いの?」

そう母は言うかと思った。だが、受話器から聞こえてくるのは予想とは全く違っていた。

「そんなことはないわ」

それは私がかつて聞いたことがないほど、甘く優しい声だった。



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