表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
キスが嫌いになったわけ  作者: 山口 にま
第六章
22/26

外の世界に飛び出して

 艶子が姿を消し、その日のうちに母は警察に捜索願を出した。雪は夜更けには止み、翌朝は朝日が銀色の街を眩しいくらいに照らした。

 午前中に警察から電話が掛かってきた。艶子が見つかったと。艶子は溶けた雪の中から姿を現したのだ。

 

 前日艶子は曇天模様の空の下、発作的に家を飛び出した。近くのマンションの非常階段を上り、最上階付近から飛び降りた模様だ。艶子の体は隣接する工事現場に落ち、だれにも気づかれないまま雪の中に埋もれて行ったのだ。


 艶子は赤ちゃんに直接手紙を届けに行ってしまった。警察に安置された艶子の体は母親が引き取った。これで艶子は永遠に聖一の元に戻ることはない。

「喪主もうちが」

と母は希望したが、いくら別居中とはいえ世間体もあるので喪主は聖一が務めることになった。彼は喪主でありながら艶子の亡骸には寄り添えない。それは母が艶子のそばから離れないからだ。

「どうして家を出ちゃったの?どうして・・・・。お母さんのそばにいさえすれば良かったのよ」

母は艶子の顔を撫でまわしながら言う。母は子どもが外の世界に行くことを好まない。家に縛り付けていたのに最後の最後で艶子は外の世界へ文字通り飛び出してしまったのだ。ここでも母は置いてけぼりだ。最愛の娘は死んで、そりの合わない末娘はいつまでも家にいる結果となった。


 「あんた、前の晩に艶子と話していたわよね。艶子に余計なことを言ったんじゃないの?」

母は私に詰め寄る。八つ当たりのように。確かに私は余計なことを言った。告げ口されて悔しかったと。艶子が母親から可愛いがられる為に殊更私を悪く言っていたと。

「何にも言っていない」

私は短く答えた。

「嘘!あんたが艶子を嫌っているのは分かっているわよ。喧嘩でもしていたんでしょ!」

通夜に訪れた親戚の前での尋問だ。弔問客も聖一も不安げにこちらを見ている。

「言いなさいよ。どうせ口に出せないようなひどいことを艶子に言ったのね」

母は私に掴み掛らんばかりだ。私は身を引いて母の手から逃れた。黙っていたら私が艶子を殺したと思われかねない。私は答えた。

「病院を変えた方がいいんじゃないかって言った」

「それが余計なことだっていうの。何にも分からないくせに」

母は足踏みしながら怒鳴り散らす。

「病院の待ち時間が辛いって艶子が言っていたよ」

そう、母は子供のことは何も分かってはいない。

「他には?」

母は私の粗を探そうと躍起だ。

「家に帰った方がいいと」

「家?」

親戚に艶子の別居がばれたら大変だ。私は小声で

「聖一さんのところ」

「ねぇ唯恵」

母は怒気を含んだ顔になっている。

「私は艶子のためを思ってやっていたの。何であんたがぶち壊すのよ」

「艶子のため?」

本人の意思も聞かないで?夫婦の仲を裂くことが?夫に浮気の機会を与えることが?

「唯恵、今回はあんたが出過ぎたようね」

琴音がやって来て母の肩を持つ。いつもそうだ。

「お母さんに任せておけば良かったのに」

母に任せたら艶子はいつまでも半病人もままだ。母の目的は子供を自分の手の中で閉じ込め、飼い殺しをすることだ。しかしそんなことは口に出せない。私は黙った。弔問客の間で、唯恵が余計なことをしたから、という空気が流れる。聖一だけが青ざめた顔で何かを言いたそうにしていた。


 死産、別居、精神科受診、艶子のことで隠しておきたいことは一杯あった。艶子の葬儀は密葬扱いだ。艶子宛に分厚い年賀状の束が届くのが我が家の正月だったのに、弔問に訪れるのは普段付き合いのない親戚だけだった。祖母の遺産相続で断絶状態になっている親戚も告別式には参列した。特に母と不仲だったのは藤沢の伯母だ。伯母は受付に立つ私と向かい合うと、目を白黒させて物が言えない体だ。

「叔母様?」

私が呼びかけると、叔母はさっと私から目をそらし

「このたびはご愁傷さまで」

と手短に悔やみを言って香典を手渡し、私から離れて行った。

 

 参列客の少ない密葬は焼香がすぐに終わってしまう。誰もいない祭壇に艶子は一人ぼっちだ。僧侶の読経が終わるまで、艶子は辛抱強く一人に耐えなければならない。

 何でこんなことになってしまったのだろう。艶子は何でも持っていたのに。赤ちゃんさえ無事に生まれてきてくれたら。いいえ、その前に、私たちはどうしてこんなに仲の悪い姉妹になってしまったのかしら。艶子には多くの友人がいた。心根は決して悪くはなかった。私は艶子を見ようとはしなかった。艶子の後ろにいる母ばかりを見ていた。本当はもっと分かり合えたかも知れないのに

 火葬場で棺の蓋が閉められる瞬間、私は艶子を呼んだ。

「お姉ちゃん」

聖一が私を見る。

「お姉ちゃん、お姉ちゃん」

後は声にならなかった。いっぱい話したかったよ。もっと一緒に過ごしたかったよ。もっと仲良くしたかったよ。

 窯の前で私は泣いた。誰も私と悲しみを分かち合おうとする者はいなかった。ひとしきり泣いた後、これは悲しいことではないと思い至る。艶子は今やっと赤ちゃんを取り戻したのだ。もう死んでしまった後なのだから、親子を引き裂くものは何もないのだ。

 もう悲しくはない。私は苦く後悔しているだけだ。艶子の気持に分かろうとしなかった自分の意固地さを。

告げ口をされただけで姉に戒名までつけて葬式ごっこをした残酷さを。


 精進落としで母はしたたかに酔っぱらっていた。母も私も実は酒の席が苦手である。自分の身の置き所がなかったり、自分の感情をうまく表現できないと、酒の後ろに隠れようとする。勢い酒の量が増えて、酒に飲まれてしまうのだ。今日の私は酒の力で余計なことを言わないよう飲酒をしなかった。

藤沢の叔母が近づいてきて、

「秀美、本当に大変だったわね」

と母を労わる。叔母は遺産を巡る長年のいがみ合いを乗り越えようとしているように見えた。母は優しくされると徹底的に甘えてしまう。今度は自分の姉に八つ当たりした。

「今日は何しにきたのよ」

「何しにって、艶子ちゃんのお別れに・・・・・」

「へぇ。可愛くもない姪っ子にお別れ?お姉ちゃんは遺産のことで散々私の悪口を言いふらしていたでしょう。知ってんだから。罰が当たったって思っているくせに」

「いい加減にしなさいよ。こんな席で酔っ払って」

コートと香典返しを手に叔母は立ち上がった。母は生涯不妊で悩んだ叔母に一撃を食らわす。

「お姉ちゃんには私の気持ちが分からないのよ。お宅には子供がいないから」

母の嫌味に叔母も嫌味で返した。

「家庭不和を抱えているおうちは大変ね」

「御心配には及びませんよ。うちは夫婦仲は良いので」

「そうじゃなくって」

叔母は鼻で笑った。そして私と聖一のほうにそれぞれ一瞥を向けると、

「あんたは子供のことが何にも分かっていないのよ」

と言い捨てて出て行った。藤沢で何か見られたんだ、私は察する。その時の聖一の表情を私は確かめることが出来なかった。


 解散後、聖一は一人で帰って行った。遺骨は我が家に置いて行った。事実上の離縁だ。

「さっきの、何なの?」

琴音が探るように聞いた。

「全然分からない。心当たりがない」

私はそうとしか言えなかった。


 入浴後化粧水をつけていると居間から母の叫び声が聞こえた。そしてどすどすと足音が近づいてきて、母が遠慮なく脱衣所の扉を開けた。私はまだキャミソール姿だ。

「何なのよ、これは!」

母は私の携帯を突きつける。私の心臓は縮み上がった。暗証番号は破られたのだ。3856、沢木耕太郎。それが私の暗証番号だった。

「艶子がいなくなった日にどうしてあんたと聖一さんが横浜にいたの?どういうことよ。説明しなさいよ。淫乱!あんたたち出来ていたのね」

恐怖を感じたのは一瞬だった。淫乱とか出来ているとか、こんな汚い言葉をよく自分の子供に言えたものだ。私は呆れてしまう。琴音は母の後ろで神の眷属よろしく私を生け捕りにせんと立ち塞がっている。

「お願いだからもう出て行って!」

母は言った。

「四月になったらニュージーランドに行くからもう一緒には暮さないよ」

「ちょっと待って。こんな悪いことをしておきながら、留学する気?それに外国から戻ったらまたこの家に居座るんでしょ?そんなの絶対に許さないわ」

絶対に、語気を強めて母は言う。

「じゃあどうすればいいの?」

「アパートを借りて一人で住めばいいじゃない。たんまり溜め込んでいるんでしょ?」

「あのお金は留学のためのお金で」

私の声は震えている。こんなことで私の夢が駄目になるの?

「就職したら出ていくから、それまでは何とか家にいれないかな?」

「図々しい」

母は言った。図々しいって、私はこの家の子供ではなかったのか。

「唯恵、謝りなさい」

琴音が口を挟む。

「誰に?」

私は琴音に聞いた。

「誰にって・・・・」

琴音は答えることが出来なかった。母に?母は別に被害に遭ったわけじゃない。では艶子の霊前に?そもそも聖一と私が「出来る」機会を与えたのは母だ。艶子に謝るのは母の方だ。

「家にいたいんならば手をついてちゃんと言いなさい。この家に置かせてくださいと。留学後もこの家に帰らせて下さいと」

母は言った。私は涙を止めることができない。留学、私の夢。陸に捨てられた夜も、母や艶子達からいじめられた後も、ひたすら勉強してつかみ取った初めての栄冠だ。私は下着姿のまま冷たい床の上に座り込み、手をついた。床にぼたぼたと私の涙が落ちる。 

 母と琴音は私を見下ろしている。私が許しを請うのを待っている。

 この家にいさせて下さい・・・・・。私は涙ばかりが出て、声を絞り出すことができない。いつまでも哀願しない私にしびれを切らせたのか、彼らは懐柔作戦に出た。琴音は言う。

「唯恵、ちゃんとけじめをつけようよ。お母さんだって唯恵を追い出したいわけじゃないんだよ。留学だって控えているでしょ?家にいたいならばいたいでちゃんと言葉で伝えなきゃ」

母はうっすらと涙を浮かべ、

「唯恵、私はこれ以上子供を失うのは嫌よ。唯恵の気持ちを聞かせて」

こういう時の母は、私の気持ちなんて聞く気はないのだ。ただ自分の好む返答に誘導するだけ。私はいつの間にか母の質問には答えられないようになっていた。

 私の気持ち。私の気持ちって何だろう。


 私はふらふらと立ち上がり、下着のまま自分の部屋に引き上げた。体は冷え切っている。私は通帳を取り出して残高を確認した。目標額の百万円は超えていた。

 私は鳥になれるだろうか。

 

 この家から出て行こう。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ