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キスが嫌いになったわけ  作者: 山口 にま
第六章
21/26

手紙の宛先

 確約のない甘言を餌に聖一の慰み者になっている私であるが、一つだけよいことがあった。


 来年度の交換留学生に選ばれたのだ。大学の掲示板に私の学籍番号と名前を見つけた時の驚きと喜びは忘れることはできない。何をやっても駄目、そんな私が生まれた初めて勝ち取った未来。私が掲示板の前で動けずにいたら、

「唯恵の名前がある」

と莞爾が声を掛けてきた。

「沢木耕太郎になるんだ」

私は莞爾の前で子犬みたいにぴょんぴょん飛び跳ね、そのままゼミ室に入る。ゼミ室にはまだだれも来ていない。

「魔法の帽子のおかげね」

私は言った。

「魔法の帽子?」

「ほら、莞爾がくれた帽子があるじゃない。あれを被ると集中できるのよ」

帽子を被っていると髪を抜かずに済むし。

「それは良かった」

と莞爾。

「英語の家庭教師に報告しないと。フィリピン人の先生なの。ゼミの先生にも卒業制作のことを相談するわ。帰国が十一月になるから、それから卒業制作に取り掛かって就職活動もしなくちゃいけないから忙しいなぁ」

「唯恵のドリームカムトゥルーだな」

莞爾の言葉に私は大きく頷く。

「寂しくなるけれど」

莞爾は言った。

「帰国するまで私たちは会えないかも知れないね」

明日から春休みなのだ。休みが明けたら早々に私は旅立つ。

「でも唯恵はニュージーランドに行ったほうが良いよ。最近変だった」

「変?」

「服とか化粧が派手になってきたし。何かあったの?」

付き合う男が変わったせいだ。私は大きく開いたセーターの胸元を引き上げる。

「ううん、何にも」

そう言った後、莞爾をからかってみたくなった。

「こういうの、嫌い?」

「いや、嫌いじゃないけれどさ」

莞爾は頬を赤らめる。

「ま、これを機会に身辺整理をするわ」

「国立大の彼氏は?」

「そんなのとっくに終わったわよ」

私は軽く言った。


 「お母さんあのね」

帰宅後玄関に入るが早いか、喜び勇んで母に報告だ。

「艶子が大変な時に」

それが母の第一声だ。去年選考に落ちた私のことを「出来が悪い」と罵っておいて、選ばれたら選ばれたでケチをつけるのだ。私の気持ちは急速にしぼんでいく。

「お金は用意できないわよ」

「大丈夫。バイトで貯めた」

「ならいいけれど。帰ってきたら就職活動をしてよ。留年とか就職浪人とか許さないからね」

私だって金のことであんたに恩に着せられるのはもうたくさんだ。

「そういうことだから。お父さんにも言っておいてね」

私はすっかりつまらない気持ちになりダイニングの椅子から立ち上がった。

「あんた、服装に気をつけなさいよ。挑発的な格好をして。スカートが短すぎるわよ」

艶子だって同じ格好をしていたのに、私はそう思った後に、はっとする。私は聖一が求めるままに体の線の出る服装をするようになっていたが、彼は同じことを艶子にも求めていたのだ。


 底冷えがする寒い夜、私は部屋で梅酒のお湯割りを飲みながら本を読んでいた。そこへ艶子がノックとともに部屋に入ってきた。私はとっさに警戒する。高校生のとき部屋で喫煙していたところを艶子に見られ、母に言いつけられたのだ。艶子はいつだってそうだ。「唯恵が部屋で勉強しないで漫画を描いていた」「唯恵のランドセルから零点のテストが入っていた」「今日唯恵は学校で泣いていた」「体操着を忘れてスカートで体育の授業に出ていた」

「何?」

私は固い声で聞いた。艶子は

「手紙を書きたいんだけど、レターセットを持っていないかしら?」

艶子の口調は丁寧だった。私は机を漁って、ティファニーの水色のレターセットを艶子に渡す。

「素敵ね。一セット貰っていい?」

いいよと答えた後、私は

「聖一さんに?」

「ううん、友達に」

用が済んだ後もまだ艶子は部屋を出ない。もじもじと何か話したそうにしている。

「何を飲んでいるの?」

艶子は聞いた。

「梅酒のお湯割り。あったまるよ」

「私も欲しいな」

「お酒は飲んでいいの?」

「お薬と一緒に飲まなければ」

私は階下に降りて極薄目にお湯割りを作ってやった。部屋に戻ると艶子は私の本棚を眺めている。

「ゲームばっかりで飽きちゃった。何か面白い本はないかしら」

面白い本・・・・。最近『ブリキの太鼓』と言う背の伸びない男の話を読んだ。悪意に満ちた描写の連続で、今の艶子に受け止めきれるか。『ホテル・ニューハンプシャー』これも背が伸びない同性愛の男の子が出てくる。では太宰の『人間失格』は。今の艶子をあてこすったと思われないだろうか。結局沢木耕太郎の『深夜特急』を勧めた。

「ありがとう。今度病院に行くときに読んでみるね」

「ずいぶん混んでいる病院みたいだね」

「そうなの。最初はこんなに精神を病んだ人が多いのかって驚いたわ」

「艶子には合っているの?」

「合っているかどうかはわからない。ただ、待たされるのは本当に苦痛。診察の次の日はぐったりしちゃう」

艶子はお湯割りのグラスを手で包み込むようにして持ち、私のベッドに腰かけた。

「温かいね」

艶子は静かに梅酒を飲んだ。


 私は構わないんだけどと前置きしつつ、

「聖一さんのところに帰らないの?」

と聞いてみた。艶子は虚を突かれたように目を見開き、そのまま黙った。暫くして、

「帰らないとね。でも・・・・」

「でも?」

「一人で病院に行く自信がない」

「じゃあ他の病院にも行ってみたら?診察に一日がかりって言うのは体力的にも辛いでしょう?町医者にもいい先生はいると思うよ。だからそんな混む病院でなくても」

「・・・お母さんが見つけてくれた病院から移ることはできない」

母はわざと艶子一人では通えない病院を選んでいるとしか思えない。そうして艶子が母から離れられないようにコントロールしているのだ。

母は妬みの神だ。他人に自慢できる程度には娘に幸せになってほしい、それでも母親を差し置いて幸せになるのは我慢できない。勿論「お母さん教」信徒の艶子にはそんなことは言えないが。

「そもそもこっちに帰ってきたのはどうしてなの?」

「聖一さんと赤ちゃんのことで喧嘩しちゃって、そのことをお母さんに電話で話したら、お母さんが迎えに来た」

そうなのだ。母が無理やり娘夫婦を別居させた。母は娘の不幸が大好きだ。


「ねぇ唯恵」

艶子はためらいがちに言った。

「唯恵もそういう病院に通っているよね?」

艶子は私の抜毛癖のことを言っている。かつて艶子は母に私の病気を告げ口していたのだ。私はちょっと怖い声を出して

「何かお母さんに言いつけたでしょ」

艶子はさっと顔を紅潮させ、

「そんな、言いつけるなんて・・・・ごめんなさい」

私はまたムラムラと艶子への怒りが湧いて来た。高校生の時母に喫煙を言いつけられたことを私は忘れていなかった。

「お姉ちゃんは悪意を持ってお母さんに私の事を言いつけるよね。いつだってそうだ。自分が可愛がられる為に私を利用する。私が悪い子でいた方がお姉ちゃんには都合が良いもんね。自分の株が上がるから」

艶子は手で口を押さえたまま黙っていたが、その内泣き出してしまった。人に涙を見せるのは服従を意味する。私は自分が初めて艶子よりも優位に立てて気分が良かった。

「煙草のことも言いつけたよね。私がどんな気持ちで煙草を吸っていたか」

「煙草は体に悪いじゃない。だから…」

「へぇー不良の妹を立派に更生させようとしたんだ」

高校生の喫煙よりも、実家に出戻って精神病院に通っている方が非行の度合いが強いと思うけれど。最後のとどめは口には出さずに心の中において置いた。

反論もせずにいつまでも泣いている艶子を見ているとどうでも良くなってきた。勝負は既についている。私の勝ちだ。とは言えこんな病人に勝ったところで面白くもない。こいつが完治した暁にはガチンコでやっつけてやる。


 そろそろ聖一を艶子に返してやるか。こんな病人にはあの浮気者がお似合いだ。

私は言った。

「とりあえず聖一さんのところに戻りなよ。病院に行く日だけマンションにお母さんに来てもらったら。実家とマンションは近いのだから」

「お母さんがなんて言うか」

「お母さんじゃなくて、艶子はどう思うの?」

「分からない・・・・お母さんはしばらく実家にいたほうがいいって」

艶子はこんなに自分に自信のない女性だったのだろうか。風呂に入っていないのか自慢の黒髪は垢じみて汚れている。私は言う。

「母親は子供が幸せになることだけを考えていると思うけれど、普通はね」

うちの母親は普通じゃないと含みを持たせた。艶子は思い当たることがあるのかしばらく考え込んでいたが、

「そうね、一度帰ってみるわ」

艶子は冷めてしまった梅酒のお湯割りを飲み干した。

「おいしかったわ。ごちそうさま」

艶子は右手に空いたグラス、左手にレターセットと『深夜特急』を持って立ち上がった。

「髪形を変えた?」

艶子は聞いた。私が頷くと、

「可愛いよ。レターセットは二セット貰ってもいいかしら」

「勿論」

「赤ちゃんにも手紙を書くの」


 翌日は平日だったが、私は聖一と会う。今や家庭がないも同然の聖一は上司に求められるまま休日出勤を繰り返し、代休が山ほど残っているのだ。二人で横浜に出かけた。私は以前聖一に褒められた黒いミニスカートのワンピースを着ている。細い雨が車のフロントガラスに当たり、やがてそれは雪になった。

「今日は早く帰ろうか」

聖一の言葉に私は頷く。港のそばで夕食を早めに済ませて、帰路に就く。

「昨日、艶子と喋ったわ」

「何だって?」

「今通っている病院の待ち時間が長くて辛いって」

「ふうん」

「だからほかの病院も勧めたんだけど、母親が見つけた病院だから転院はできないと悩んでいた」

「艶子とはよく喋るのかい?」

「ううん、物心ついた時から喧嘩しかしなかった。会話らしい会話をしたのは昨日が初めてだった」

私は窓の外を見ながら、

「艶子に謝られた。それも初めてだった」

「何を謝ったの?」

「あの人は何でもかんでも母親に言いつけるのね。それを私が怒ったら、謝ってきた」

「そうか」

「それから、赤ちゃんに手紙を書くんだと言っていたよ」

「赤ちゃんのことは本当に可哀想だったと思っている」

「赤ちゃんが?艶子が?」

「両方」

「聖一さんだって可哀想だよ。赤ちゃんは勇敢な子だ。一人で生まれてきて一人で戦って」

「子供の存在は大きかった」

聖一は前を向いたまま、

「もう俺たちをつなぐものはなくなってしまった」

 その時ダッシュボートのホルダーに置かれた聖一の携帯が鳴る。表示は「中尊寺」だ。運転中の聖一は当然無視をする。十二コール目で電話は切れた。

「今のはお母さんから?」

私は聞いた。

「多分ね」

「艶子のことでなにかあるのかな」 

「後で掛け直してみるよ」


 高速道路を降り、聖一は自宅からずっと手前の駅で私を下ろす。駅前ロータリーの改札前は混んでいて、駅から離れた所で車は止まった。

「ここで大丈夫?」

聖一は聞くが、この雪の中大丈夫ではない。しかし最寄りの駅まで送らせる選択肢はなかった。

「暖かくなったらまた旅行でも行こうよ」

聖一は私の手を握った。私は聖一の手を握り返すことなく

「艶子はもうすぐ戻ってきますよ」

聖一は自分の手を私の手に重ねたまま首を横に振り、

「それはどうかなぁ。もう帰ってこないと思う」

私は聖一をまっすぐに見つめ慇懃な口調で

「私、ニュージーランドに行くことが決まりました。十一月まで帰って来ません」

聖一は驚いた顔をしたが、気を取り直したように

「おめでとう。夢が叶ったね」

「だからもう私たちはこれ以上は・・・・」

聖一は私の手を離し、シートに体を預けて前を向いた。

「分かった。仕方ない」

聖一は唇を噛み締めた。私はコートを着て助手席のドアを開けようとする。聖一は私の手を強く引き

「今の俺には何も約束はできない。でも艶子のことはちゃんとするから。このまま会えなくなるなんて嫌だよ」

そして私を抱き寄せようとした。私はここで怒った顔を聖一に向ける。実際に私は怒っていた。私を日陰の女扱いしやがって。しかも本妻は仲の悪い姉の方か?私はこれから世界に飛びだしてひとかどの人間になって帰って来るのだ。あんたみたいなつまらない男の内緒遊びに付き合うのはもうまっぴらだ。

 

 私は身を引いて、そのまま車から飛び出した。降りしきる雪が私の頬に当たった。暖房で上気した頬にその冷たさが心地よかった。やがて熱いものが頬に流れていった。

 こんな涙なんか。

 私は涙をぬぐい、手袋をはめて改札へと急ぐ。一度だけそっと振り返ると聖一の車は止まったままだった。


 その日艶子は帰ってこなかった。

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