その名はビートルズ
大学に入学してすぐに教授のお気に入りが原田莞爾だと分かった。前期が始まったばかりだというのに莞爾の作った課題は教授の推薦を受けてコンペに出品された。提出される多くの課題の中で教授が真っ先に見るのはいつも莞爾の作品だ。
そんなひいきを受けている莞爾自身は、時代遅れの黒縁眼鏡をかけた、冴えない十九歳。一応芸術家を気取っているつもりか、髪型はマッシュルームカットで気持ちの悪いことこの上ない。私はもともとデザインがやりたくって大学に入ったわけではない。受かったのがこの大学のデザイン学科だけだったのだ。美的素養の全くない私にとって莞爾は芸術の神だ。
面白半分に入った柔術サークルに莞爾もいたのには驚いた。莞爾のあだ名は髪型に因んでビートルズ。練習の後、帰りの電車の中で莞爾と私は二人きりになってしまう。何で私がこんなダサい奴と。私は手持ち無沙汰でバッグから本を取り出した。
「今これを読んでいるの」
と谷崎潤一郎の『細雪』を莞爾に見せた。こんな時大概の男は、
「すごーい」
と言って私を賞賛するのだが、莞爾は違った。
「谷崎は純文学だ耽美派だの言われるけれど、この話はひたすらお見合いをする話だよね」
「あら、読んだことがあるの?」
「うん。谷崎は好きだから」
「私、永井荷風も好きだよ。玉ノ井ってどこだか知っている?」
「墨田区でしょ。今でも銘酒屋の建物が残っている」
同じクラスのよしみもあり、私と莞爾は自然と話すようになった。髪型の由来を尋ねると
「床屋が嫌いなんだ」
それだけだった。ちなみに私も美容院が大嫌いで前髪ぐらいならば自分で切って済ませている。人に言えない理由があって美容院には通えない。
大学の道場には冷房がなく、莞爾の髪の毛から汗が滴り、メガネには水滴がついた。休憩のたびに髪の水分をタオルで拭っている莞爾に私は
「髪の毛切れば?」
「そうだね。購買の横の床屋で切ろうかな」
「何も学校の床屋で切らなくてもいいじゃない」
「あそこなら千円じゃないか。僕はおしゃれにお金を使いたくないんだ、そんな軟派なこと・・・」
たかが髪を切るのにそこまで禁欲的にならなくても。私は呆れて投げやりに言う。
「まあ勝手にすれば」
「決めた。明日の午前中に切ってくる」
翌日の午後、莞爾はちょっと長目の坊主頭で授業にやって来た。
「似合うじゃない」
私が言うと、莞爾は頭を撫でつけながら、
「なんだか涼しいよ」
と恥ずかしそうに笑った。
夏だというのに青白い顔、くぼんだ眼、今度の莞爾のあだ名は「修行僧」となった。私としてはGI莞爾はいけてると思ったのだが。
部活以外で莞爾と出掛けたことが一度あった。都内の文学館の運営に指導教授が関わっていたので、課外活動の一環として莞爾と、レイ子というこれまたおとなしい感じの女子の三人で文学館に向かったのだ。
丁度そのとき沢木耕太郎展が開催されていたので、それを見るのも目的の一つだった。
今では古典となった『深夜特急』。ユーラシア大陸を陸路で横断する旅行記を私は何度も繰り返し読んだ。文学館に展示されているのは、もう自由旅行が許されない地、アフガニスタンの入国スタンプが押されたパスポートだ。私はガラスケースに貼りついていつまでもその古いパスポートを眺めていた。
「私もあんな旅がしたい!」
退館後も興奮冷めやらぬ私は帰る道々莞爾とレイ子に沢木耕太郎の魅力を喋り散らした。
「腹が減った」
莞爾はきょろきょろと飲食店を探している。丁度夕飯時だったので私と莞爾はレストランに入ったが、レイ子はバイトを理由に帰って行った。
メニューをめくりながら、莞爾と二人になるのは部活の帰り以外では初めてだなと思う。私は食事と一緒にワインを、莞爾はコーラを頼んだ。莞爾の前でタバコは吸わなかった。
私は言った。
「バックパッカーとか国境越えだとか、すごく憧れる。私、女沢木耕太郎になるわ」
「は?」
「私も狭い日本を飛び出して、色々見たいの。大学でやっている交換留学に応募してみようかな」
「行くとしたらどこ?」
「英語圏がいい。ニュージーランドとか」
「お言葉を返すようだが、深夜特急ではニュージーランドに行っていないんだよ」
「じゃあイギリス。どこでもいいよ。なーんか、家にも学校にも自分の居場所がないんだよね。ここではないどこかに行ったら、私の場所が見つかるのかな」
私はワインを一口飲んで、
「莞爾の居場所はデザインの世界だよね。先生からの覚えもめでたいし」
「そんなことないよ」
「そんなことあるって。クラスのみんなが言っているよ。莞爾は特別だって。私も何か莞爾みたいな才能があれば自分の居場所が見つかるんだけど」
「唯恵はクラスのみんなから特別可愛いって言われているよ」
言いなれない世辞を言った後、莞爾は頬を赤らめて、恥ずかしそうに笑った。
その後私と莞爾は後期の履修などを話して、遅くならないうちにレストランを出た。秋の夜風はひんやりと冷たく、私はカーディガンを羽織った。川沿いの道を通り、駅に向かう途中、莞爾はふと歩みを止める。まっすぐに私を見つめ、
「唯恵。唯恵は付き合っている人がいるの?」
莞爾は聞いた。あらあら良い雰囲気になってきた。告白する気かしら。莞爾が言った「唯恵は特別可愛い」はあながち的外れな賞賛ではない。実は私はモテるのだ。私は莞爾の質問には答えず、莞爾の次の言葉を待った。
「ほかの大学に行っている人と付き合っているって聞いたけれど」
なんだばれているのか。私はしぶしぶ恋人がいることを認めた。
「莞爾は?」
私の問いに莞爾は首を横に振る。
「女の子と付き合ったことは?」
「それもない」
「そうなの?恋人がいても不思議じゃないけれど」
私の言葉になぜか莞爾は苦しそうな顔をした。