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キスが嫌いになったわけ  作者: 山口 にま
第五章
18/26

私は芸術家

 莞爾とまた武道を始める、その計画は結局実現しなかった。私たちのゼミ教官はとにかく人遣いが荒く、ことあるごとにゼミ生を「実習」と称して展覧会や美術展の準備に駆り出すのだ。留学準備も忙しく、とても新たに習い事を始める余裕はなかった。


 ある時私たちは美術展準備に動員された。作品の搬入が終わったのは午後八時を過ぎてのことだ。莞爾と私はグループ制作の相談もかねて夕飯を共に食べていくことになった。インドカレー屋でナンとカレーのセットを頼み、莞爾はチャイを、私はワインをお代わりしながら話し込んでしまった。店に蛍の光が流れだし、私たちは席を立つ。私は課題の材料やら授業の教科書などがあり大荷物だった。

「持ってやろうか」

と莞爾。私は一度は拒否したが、莞爾が手を伸ばしてきたので、恐縮しつつも莞爾に持って貰うことにした。そのまま話の続きがあったので、駅まで莞爾としゃべりながら歩いた。

 その時、すれ違いざまに軽く頭を叩かれた。何だろうと思って振り返ると、陸の後姿が見えた。あっと思って、その気持ちが顔に出た。

「追いかけたほうが良いんじゃない?」

莞爾は陸の方を顎で指し示す。

「でも・・・」

「行けよ」

莞爾は私に荷物を押し返す。私はそれを受け取ると、小走りに陸を追いかけた。

「ねぇ、陸」

陸は私を無視してずんずん進んでいく。

「ゼミの先生に駆り出されて美術展の搬入を手伝ったの」

私は聞かれもしないのに陸に説明する。

「荷物まで持って貰って女王様気取りだな」

「そんなんじゃないわよ」

「あいつ、どこかで見たけど」

「柔術サークルで一緒だったしね」

「一年の時からの仲良しか」

そんなんじゃ・・・と言いかけて、確かに一時疎遠にはなったけれど仲は良かったなと思い直し、特に否定はしなかった。

「あいつと京都に行ったのかよ」

「あの人とじゃない」

と私は即座に否定。陸は口を歪めて、

「お前、一体何人男がいるんだよ。じゃあ青森か?レイ子ちゃんと行くと言って恐山にあいつと行ったんだろう」

莞爾だったら大丈夫、てんかん持ちだもの。そう言ったら陸は安心するかしら。・・・・陸だったら安心する。そういう思考回路だ。しかし、今の私にはてんかん持ちと莞爾を思いたくないのだ。

 私は陸に弁解する代わりに、

「いい加減にしてよ。私の三年の成績がかかっているのに」

と強い口調で言った。

「偉そうに」

陸は応戦して来た。

「私、いい成績を取りたいの。ゼミのみんなといい作品を作りたいの」

陸は鼻で笑いながら、

「いきなり芸術家ぶるなよ。男と酒を飲んでいたくせに」

「関係ないでしょ」

私と陸はにらみ合う。ま、どうでもいいけどよと陸は口の中で言う。

「好きにしろよ。俺、お前のことどうでもよくなっちゃった」

陸は再び歩き出す。追いかけなければ。将来の旦那様だもの。でも荷物が重くてこれ以上歩けない。私は追いかける気になれずに、踵を返すと駅に向かって歩き出した。


 翌日はクリスティーナのレッスンだ。まだ怒りが収まらない私はレッスンが始まるが早いか、

「ねぇ聞いてよ。頭に来ちゃうのよ」

と昨夜の顛末を英語で話し始めた。クリスティーナは

「いくらボーイフレンドとはいえ研究仲間との関係を干渉してくるのは嫌よね」

と理解を示しつつも、

「さっきから聞いていると、あなたはそのカンジ君って男の子のことが気になって仕方がないようだけれど」

クリスティーナの指摘を私は否定できなかった。

「私のことを差別主義者だと思わないでね」

と前置きしつつ、

「彼はてんかんの持病があって、それで・・・」

「ユエはそれが気になっているの?」

クリスティーナは聞く。私はその質問には答えず、

「本人が気にしているみたい。部活で発作を起こしてしまってから、彼はクラブを辞めてしまって、私とも一年間まともに口を聞いてくれなかった」

私は言葉を選びつつ、

「どんなに親しくしていても、カンジとの間に壁を感じてしまう。それに、ボーイフレンドはやっぱり結婚を意識している関係だし・・・・・。ボーイフレンドとの関係のほうが重要だわ」

「それが答えね」

「私にとって結婚はとても大切なことなの」

「どうして?」

「家を出て自立したいから」

「じゃあ就職したら一人暮らしを始めたら?」

「それはちょっと・・・」

「なぜ?」

「実際に母や姉から出ていけと言われているから、結婚以外で家を出たら彼女たちに屈したようで、悔しい。それに結婚以外で家を出たら、何だかけんか別れみたいだし・・・・」

「プリンス・チャーミングね」

「え?」

「知らないの?」

私は手元の電子辞書で調べる。それは白馬に乗った王子様だ。

「そう!私は待っているの」

「女性はみんなそう」

クリスティーナは笑う。私は、

「カンジの発作に出くわして、その時はものすごくショックだった。でも今ではそんなに深刻なことには思えないの」

「実際深刻じゃないわ。患者たちはみんな薬でコントロールして日常生活を送っている」

「そうよね」

「でも彼らは内向的になる人が多いでしょうね」

「まさしくそれ!カンジの方からはこちらに近づいてこようとしないの」

「彼のほうから近づいて来てほしいの?」

クリスティーナはちょっと意地悪な質問をした。私は考え考え、

「私は彼をとても尊敬している。それに話も合うし。ボーイフレンドに本とか美術の話をしても、『芸術家ぶるな』って言われるだけ」

「リク君はそんなことを言うの?ひどいわ」

「私たちは良いところも悪いところも全部見せあってしまったから、もう尊敬するとかときめくとか、そんな気持ちはないの」

「私は自分のボーイフレンドのことは尊敬しているわ。結婚しても相手を尊敬するものよ」

そんなものかしらね、とあいまいに返事をいていたら、携帯にメールが入った。陸からだ。

「噂をすれば、よ。ボーイフレンドから。あら、ずいぶん時間をオーバーしちゃったわ」

私はそう言うとレッスン料をクリスティーナに渡し、来週の約束を取り付けた。

「ユエ、仲直りしなさいよ」

別れ際にクリスティーナはそう言ってアパートの玄関を閉めた。


 翌日、陸のほうから謝ってきた。

「何に対して謝っているの?」

私はわざとつっけんどんに聞いた。

「唯恵が一所懸命取り組んでいることに対して芸術家気取りと言ったこと」

「そうよ。グループ制作で大変なの。大枚をはたいて夜行バスで青森まで現地調査に行ったのよ。それなのに・・・」

「悪かった。でも、俺の驚きだって分かるだろう。終電間際の時間に唯恵が男と一緒で」

「ごめんね」

私は頭を下げる。

「彼はそういう対象じゃないから。単なるゼミ仲間よ」

「分かっている」

私たちは互いに晴れ晴れとした気持ちになり、それからはいつも通りのデートを楽しんだ。陸は私を自分のアパート誘う。私達は遅い時間まで二人きりで過ごす。馴れ合いの触れ合い。陸は私の体のすみずみを知っていて、それは良いのだけど、避妊をしてくれない事が多く、とても不安だ。

「唯恵との子供が欲しい」

「絶対に唯恵似の可愛い子になる」

「明日にでも区役所で婚姻届を出しても良い」

陸はそんな風に言う。しかし、こんな風に会うたびに触れあって、私を妊娠させる危険に晒し、これで本当にお互いを尊敬出来るのかしら?


 七月末がグループ制作の提出日だ。私たちはその日に目標を定めて太宰治展の展示デザインを作る。展示会場の中に太宰の生家の一部を再現し、太宰の経歴や当時の左翼思想を紹介するつもりだ。

「土間は外せない」

莞爾の主張だ。

「特権階級の象徴だ。ここで三百人の小作人から米を取り上げていたんだ。実家は資本主義の頂点に君臨していたというのに、そこの息子は罪滅ぼしのつもりか左翼活動にのめりこんでいたのは噴飯ものというほかはない」

莞爾は太宰に恨みでもあるのか。

メンバーそれぞれに太宰に対する思いを胸に、会場を俯瞰できるような模型を作っていく。その作業に一番時間がかかった。

遅い時間までゼミ室に残り、焦って作業しているとやっぱりいつもの悪い癖が出てしまう。抜毛だ。この癖は人前でも構わず出現する。やだなやだなと思っているのに私の手は止まらない。

「何だ、ここにあったのか」

莞爾の声で私は顔を上げた。彼は数日前から持ち主不明でゼミ室に置きっ放しの帽子を持っている。

「失くしたと思って新しい帽子を買っちゃったよ」

莞爾の古いキャップはくたびれて色あせていた。

「そろそろ買い替えどきなんじゃない?もうボロボロよ」

そうレイコが忠告するも、莞爾は

「気に入っていたんだぜ。高校生の時から被っている」

他のゼミ生も笑いながら、

「十分被っただろう。新しいのに替えろよ」

と口を挟む。莞爾はやや不服そうな顔を見せたが、

「そうだな。そろそろおさらばするか」

「だったら私にちょうだいよ」

私は横からすかさず言う。

「何で?結構臭いぞ」

「それでも良いからちょうだい」

私は手を突き出す。そして

「疲れてくると髪の毛をいじる癖があるから、帽子でも被ったら集中できるかなーって思って」

と素直に白状する。

「そう言う理由ならばどうぞご自由に」

莞爾は古い帽子を私に被せた。私にはぶかぶかだ。それでも私の指はもう髪の毛に届かない。

「うーむ非常に快適だ。これは魔法の帽子だね。ありがとう」

私は礼を言って、作業に戻った。


帽子のご利益があったのかどうにかこうにか提出日に間に合わせることが出来た。生家を実際に見たときに感じた、壮大さと陰気臭さを表現できたか不安である。それでも達成感は残った。


 「打ち上げしようぜ」

誰ともなく言い出し、私たちは一人暮らしのメンバーの部屋に押しかけ、小さなホームパーティーをする。夏の盛り、冷房の効いた部屋で私たちはしたたか飲む。

「女二人を引き連れて現地調査か」

三人で行った青森旅行を冷やかされ、莞爾は恥ずかしそうだ。

「何かされた?」

メンバーからの質問に

「二人の女性が代わる代わる俺をおもちゃにして」

そんな冗談を莞爾は返している。缶チューハイを一杯しか飲んでいないというのに莞爾は真っ赤だ。

 話題はいつの間にか恋愛談議になった。

「あんまりうまくいっていない恋人がいる」

私は言った。

「倦怠期の夫婦みたいよ」

私は陸との関係をそう表現する。

「莞爾は?」

そう聞かれた莞爾は赤い顔のままかむりを振り、

「俺はそういうのはないよ。この先も多分ない」

「なんだよ将来を悲観するなよ」

「いいんだよ俺は」

莞爾はいやに頑固だ。

「お前はチャンスを生かし切れていない」

メンバーの一人が説教口調で言った。

「せっかく女二人と旅行に行ったって言うのに何にもなかったのかよ。今からでも遅くはない。どちらかに手を出せ」

その言葉に莞爾はしばし考え込む体だったが、やがて居ずまいを正すと、

「俺はすべての女性を尊敬している」

とだけ言った。こういうのが壁なのだ。莞爾はいつも周りとの距離を取ろうとする。

時計は十時を過ぎている。

「私たちはそろそろ・・・・」

女性たちは立ち上がって片づけを始めた。会はお開きだ。莞爾も私たちと同時にアパートを出た。帰り道、女性二人が前方を歩いているのを確認して、莞爾に言う。

「この間はごめん」

「仲直りは出来た?」

仲直りと称して避妊なしに陸に抱かれたとは言えない。私はあいまいに頷く。

「それは良かった」

それが莞爾の答えだ。莞爾の気持ちはいつも見えない。




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