貴船
出町柳駅は鴨川のすぐそばだ。私たちは午後の早い時間に出町柳から叡電に乗り込む。叡電は森林を縫うように走り、私たちは思いの他山深く入り込んでいることに驚いた。三十分弱で無人駅の貴船口駅に着いた。降りたのは私たちだけだ。京都市内よりもさらに気温が低く、路肩には雪が残っていた。神社までは貴船川沿いを歩いて二キロだ。川の反対側は杉林である。曇天模様でそれでなくとも日差しに恵まれない一日なのに、更に巨木が続く杉林で日の光は遮られている。薄暗い道を私たちは白い息を吐きながら進んだ。一台の車が私たちを追い越して行った。車が通りすぎると後は貴船川の川音しか聞こえない。
「蛍」
私のつぶやきに、聖一はえっ、と聞き返す。
「貴船川って蛍の名所なんですってね。和泉式部が貴船の蛍を見て、自分の魂、生霊かと思ったと詠っていますよ」
ものおもへば 沢の蛍も わが身より あくがれいづる魂かとぞみる
私は言った。
「苦しくなるほど人を好きになるとか、分からない。私はたぶん一生分からないかも」
「誰かが君を苦しいほど思っているかもよ」
「そんなことはありませんよ」
私は首を横に振る。誰も私のことを本気では愛さないことは分かっている。
「人のことを思って苦しくなることはあるけれど、それは純粋に好きって気持ちなのかな?相手が自分の思い通りにならない悔しさだとか、本来自分が受けるべき愛情を他の誰かに横取りをされた時の妬ましい気持ちとか、愛とか恋とかじゃないように思うんですよ。単なる自分の欲求っていうか」
私はあんり嬢の誕生日ケーキを苦しく思い出す。聖一は私の話を黙って聞いていた。
貴船神社に続く石段が見えて来たその時、雲の切れ間から青空が覗き、日光が雪の残る石段に注いだ。石段の左右には赤い灯篭が続き、奥に何か聖なるものがおわすことを暗示させる。
「ここが貴船・・・・」
水の神、そして呪詛の神だ。私は姿勢を正して石段を登っていく。
「気を付けて」
凍った雪に足を取られそうになると、聖一が私の手を支える。私は手袋に包まれた左手を聖一に預けたまま、貴船の神に参拝する。
高みにある本宮は開放的な雰囲気で、境内には柔らかな西日が注いでいた。
「深呼吸したくなるような神社ですね」
私はそっと息を吸い込む。清浄な空気が私の胸を満たしていった。
境内には水占斎庭と呼ばれる小さな池があり、そこで水占みくじが出来るのだ。私と聖一はさっそく社務所で白紙のみくじを引いた。それを水に浮かべてみると、結果が浮き出てくるのだ。果たして私の運勢は・・・・。
「聖一さん!私、大吉でしたよ!」
参拝客が私たち以外いないのを良いことに、私は声を出してはしゃいだ。しかし、聖一のみくじを覗き見ると、結果は凶。
「ま、そういうこともあるよね」
と言って聖一は弱弱しい笑顔を見せた。
次いで私たちは奥宮へ。境内から階段を下り、貴船川上流を七〇〇メートルほど進む。奥宮と言われているが、実はこの地こそ貴船神社が最初にあった場所だった。
本宮は石段を上った高みにあったが、奥宮は川のそばにあり、社殿も境内にある杉にも苔が生えていた。ここは呪いの場。「丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻」に貴船明神が貴船山に降臨したとの由緒から、丑の刻参りの名所になったのだ。すぐ近くに五寸釘を打ち込まれた藁人形があっても不思議ではない。思いは聖一も同じらしく、苔むした杉の大木に呪詛の跡を探している。太陽は再び厚い雲に覆われ、境内は薄暗い。
本殿の隣には石を積み上げられてできた「船形石」があった。文字通り、船のような形だ。釣り船より大きいぐらい。それはうっすらと雪で覆われ、やはり苔が生えている。
「この船形石の石積みは、玉依姫御料の黄舟を、人目を忌みて小石を覆うたと伝う。航海する時、この小石を頂き携帯すれば海上安全と言われている」
私は船形石の説明を読み上げ、小石を一つ財布に入れた。聖一は私の願いが分かったらしく、
「ニュージーランドに行けるといいね」
と言って微笑みかけた。
私は船形石に合掌した後、
「この石積みは御陵なんじゃないかしら」
「ごりょう?」
「お墓です」
「そういえば・・・・」
聖一はまじまじと船形石を見る。
「本殿の地下に竜の穴があるといいますけれど」
「知っている。本当に穴があるんだってね」
「でもその穴を見てはいけないのです。見ると祟られます」
私が貴船の伝承を伝えると、聖一は固い表情で頷いた。
私たちは暗くならないうちに叡電の駅に戻った。
「どう?今後の方向性は見えて来た?」
聖一がからかうように聞いて来た。
「私、デザインには向いていないようです」
「君はサブカルチャーの方が向いているよ」
「ここはやはり一人で来るところではないですね」
「そうでしょ?」
「何かに取り憑かれそう」
私は周囲を見渡して言った。
「唯恵ちゃんのお陰で楽しいというか、珍しい旅が出来たよ」
「長い春休みの唯一の思い出が、冥界に響く鐘の音を聞き、呪いの神社への参拝・・・・」
私は暗い声で応じた。
京都市内に戻る叡電は間もなくやって来た。車内は温かい。シートに座り、私は息をつく。
「湯豆腐でも食べる?」
聖一は聞いた。
「湯豆腐でも湯葉でもいいですよ」
湯豆腐嫌いの私は他の選択肢も提示する。
「どっちがいい?」
「湯葉」
私が即答すると聖一は
「じゃあぽんと町に行こう。あそこならば湯葉料理があるし」
と鴨川近くの先斗町に誘った。
店は各テーブルが障子で区切られ、半個室といった趣だった。私たちは熱燗を頼む。
「京都がこんなに寒いとは」
私は手をこすり合わせる。
「貴船には雪が残っていたもんな」
「鞍馬も行ってみたかったなぁ。何でも金星から舞い降りた魔王を祀っているらしいじゃありませんか。しかも鞍馬寺って今じゃ仏教寺院ではなく、新興宗教の所有になっていますよ」
聖一は珍獣を見るような目を私に向け、
「君、そういう情報はどこから仕入れるの?」
「本と新聞」
「君は僕の周りにはいない類の人間だよ」
「オカルト雑誌の編集部にでも就職しようかな」
「外見は普通の女の子なのにね」
私は自分の赤いワンピースに目を落とし、
「今日は普通の格好で来たんですよ。男の人と一緒なのに、破けたジーンズじゃなんでしょ?」
私の前世は遊女か商売女だ。私は女よとばかりに、男性には常に異性を意識させる言葉を言ってしまう。
「僕もこんなかわいい子を連れて歩けて嬉しいよ」
聖一の言葉に私は首をすくめて、照れ笑いをする。
「まあ飲んでよ」
聖一は私に銚子を傾ける。私は彼の酌を受け入れつつも、
「今日はほどほどにしておきますね。バスに乗れなくなっちゃう」
「バスは何時?」
「十一時」
私は湯葉刺しを口に運びながら言った。
「いざとなれば俺の部屋に泊まればいい」
と聖一。
「お気遣いありがとうございます。聖一お兄様」
と私は冗談めかして慇懃に頭を下げる。自分の頬が赤らんでいくのが分かる。
「唯恵ちゃん、恋人は?」
「いますよ。今は自分探しの旅に出ていますけれど」
「自分探し?」
「言葉の通じない海外で、どこまで自分が出来るか試してみたいんだって」
「すごいね」
「全然すごくありませんよ。彼のフェイスブックを見たら、日本人同士でつるんで、やれ海辺のバーベキューだ、ラグビー観戦だ、誰かの誕生日会だ、で毎日遊びまくっていますよ。誕生日会なんて女子中学生かって感じよ」
なんかがっかりだな、と私は付け加える。
「フェイスブックも考え物だね」
「本当にそうですよ。相手の知らなくてもいい一面まで見えてしまうでしょ?今までは尊敬できる恋人だったのに」
私は聖一の酌を受けて、熱燗を一口口に含んで言った。
「人を深く愛することがそんなにいいことだとは思わない」
「どうして?」
「愛すると相手を支配したくなるから。自分の欲求を押し通そうとするから。相手も自分も不幸になる」
「唯恵ちゃんは見かけによらず情熱家なの?」
「情熱家って言うか、好きになり過ぎて相手を握りつぶしたくなる」
「その感覚、なんとなく分かる」
私は言葉を探しつつ、
「愛すれば愛するほど、相手を苦しめる。だったら、逆に愛する気持ちのない人の方が、結果として優しい人ってことになるんじゃないかしら」
「すごい逆説だね」
「相手に何の気持ちもないんだから、支配しようとは思わないし、何の期待もしない」
「だったら他人じゃないか」
「そう。他人だから優しくできるってことがあるでしょう?」
今度は聖一が言葉を探す番だった。
「引き算の愛って言うことかな?」
「引き算?」
「全身全霊を傾けるのが百パーセントの愛だとしたら、相手への嫉妬とか、支配欲とか、自分の思惑とかを引いて行ったら、シンプルに相手の幸せだけを望むようになるんじゃないの」
「引いてって引いてって、最後は十パーセントしか残らないかも知れませんよ」
「その十パーセントは他人としての愛情だ」
聖一が大真面目に言うので、私は笑ってしまう。私は話題を変えた。
「艶子と結婚するんですか?」
「どうなるか分からないね。俺は三十五歳まで結婚する気はないから」
「艶子の結婚願望は半端ないですよ。逃げ切れますか?」
「逃げ切るって・・・・」
「それからうちの母親、強烈な人ですよ。あんな人が姑になったら大変だぁ」
私は首を大げさに左右に振って見せる。
「うちの母親は艶子を手放さないから、多分聖一さんがうちで同居になりますよ。近いうちに私はあの家を出ますから、二階を改築して二世帯住宅にするんですな」
「それはちょっと・・・・」
「それが現実ですって」
狼狽している聖一の姿が笑いを誘う。隣席と障子で仕切られているので、会話が筒抜けでないのがいい。
「とはいえ、聖一さんはそんな小さな器の人には見えませんけれどね」
「どうして?」
「私なんかと京都に来ちゃうし。業が深いというか、血が濃いというか」
精液が濃いというか。
「確かに業が深いね。でも唯恵ちゃんと京都に来たかった。いけないかな」
そんなんじゃ幸せになれませんよーと冗談で返そうと思ったが、聖一は笑っていなかったので、私は急に恥ずかしくなり
「もちろんいけないけれど、でも、私も・・・・」
ともごもごと口の中で言うだけだ。
「なんか唯恵ちゃんっていいんだよね」
「いい?」
「とても魅力的だよ」
完全に手綱は向こうが握っている。私は何も言えなくなってしまう。
「このまま唯恵ちゃんのこと、帰したくないって言ったら怒る?」
甘言を弄しているけれど、こいつは私との関係をおねだりしているんだ、私は感じる。怒ると答えたら、彼はもう踏み込んでこないだろう。怒らないと答えたら、次の扉が待っている。その扉を開けたら・・・・。
私は陸に優しくなれるかも知れない。今までのように彼に自分の全ての気持ちを注ぐことがなくなり、単純な思いやりだけが残るだろう。聖一の言うところの「引き算」だ。
そして、艶子の横顔にぐちゃぐちゃと汚らしく墨汁を擦り付けることもできるのだ。いつもお高く留まっているあの女、だが実際はどうだ。その恋人は私に対して、餌を目の前にした飼い犬よろしく一夜のおねだりだ。私の体は今や凶器となった。艶子を、そして艶子を溺愛している母親をもまとめて切りつけてやる。聖一、お前も噛み殺してやろうか。
私は聖一にイエスもノーも与えなかった。返事の代わりに私は盃を飲み干す。聖一が再び満たした盃も更に飲んだ。まるで何かの神事のように。
「どうする、もっとお酒を頼もうか?」
聖一は私に顔を近づけて、聞いた。いいえと私は答える。聖一は店員を呼んで勘定を済ませる。私は半額を払うことを申し出ることもなく黙っていた。それが答えだった。
店を出て、私はどちらに行くべきか迷っている。長距離バスの停留所か、それとも・・・。
「来ないの?」
聖一が私を呼んでいる。私はふらふらと聖一の方に歩き出した。聖一はいち早く私の肩を抱き、私を捕獲する。私は半ば引きずられるように通りを歩き、タクシーに押し込まれる。タクシーの中では聖一は私の手を握りしめた。聖一の手は大きく温かい。私はぎこちない動きで聖一の肩に自分の頭を預ける。即席の恋人だ。どんな理由であれ、他人から求められるのは嬉しかった。聖一は自分の欲望を満たすため、私は艶子の将来を傷つけるため、私たちは仲良く聖一の泊まるホテルへと向かって行った。




