由紀の苦悩
[010901] 由紀の苦悩
夏休みも終わり、運動系クラブ活動では三年は引退し、受験や就職に備える。残り一、二年の新人によって新たなチーム編成がされるのである。
ソフト部はチームBがAに、KがBに繰り上がり、二チーム編成となった。夏の大会で好成績を残したので顧問の先生も前より時間を割いて練習に参加してくれるようになった。
相原は、あいかわらず俺との練習を毎日黙々と続けていた。もう三ヶ月になった。実力は格段に上がり、今ではリターンをバックハンドで返す練習を集中してやっていた。
そんな時である。変な噂が流れ始めたのであった。『職員コートで練習している二人は昼間コート内で、あからさまにキスをしていた』と、言うものである。
そりゃたしかに校舎の真ん中でやってるのだから目立つ。しかし職員室の真横である。そんなこと出来るわけが無いと言うか、もし、そんな関係だったとしてもここでやることは無い。
「なんかイヤな予感するの」
相原は今までの噂もあり敏感になっている。と言うか何かに怯えているように思える。
「まーいいじゃないの。焼餅妬くのもいるかもしれないし、別に何も実害はないからだいじょうぶだろ。自然と消えるよ」
「でも、だれかに見られているような気分だと・・・」
たしかに以前より観客が若干多い気もする。以前なら一人か二人が稀にって感じが今は常時誰かが入れ替わり見ているような気がする。
「これも練習の一環としよう。試合なんてこんなもんじゃないぞ。もっと沢山の人に見られてる。こんなので上がったり、違和感覚えてたら実戦で使い物にならないぞ。観客大歓迎」
我々は何の気にもとめず、いつものように、ただひたすら練習に打ち込んだ。噂と言うものは、内容が過激なほど、早く広く伝わる。しかし信憑性がなかったり、あまりにも誇張されていたり、期待と異なるほど収束も早い。
だれだれと、だれが付き合っているとか。別れたとか。そのようなものは好奇心だけで、対象者が堂々と付き合ってたりすると、それこそ公然とした単なる情報と同じで何の実害も無い。
一番困るのが、悪意のあるもので、誰かを不利にしようと故意に嘘の噂を流す場合である。その事実が無いのに、だれかが妊娠させられたとか、自殺未遂した。家が倒産した。離婚した等々。わざわざ本人に直接確認しようなんてだれも思わないし、本人が嘘ですなんて訂正の為に言いまわるわけにもいかない。
我々の噂は程なく終わり、だれも感心を示さなくなった。練習を見ていたらわかるが、こんな一生懸命にやっている最中、ドラマみたいにキスなんて逆に違和感しかない。二人の練習が終わると俺はソフト部へ行くし、相原は一人でサーブをやるか、テニス部へ行く。
だから何も面白い展開などあるわけがない。つまり、観客からすると、極めてつまらないのである。
しかしまたすぐに次の噂が流れ始めた。その内容は『職員専用コートで練習している二人は、自分らがコートを独占したい為に、使わせてほしいと言いに来た者を難癖を付けたり罵倒して追い払った。しかも言い争いになって暴力でもって制圧した』と、なっている。
この噂が広がるにつれ、だれだれが被害を受けたらしいとか、複数の名前も尾ひれとして付くようになった。
これは、完全におかしい。そんなことを言いに来た者など存在しないし、暴力など持っての他。しかもタイミングが良すぎる。前の噂が不発に終わり、即次の噂を故意で流した感がある。
相原もこれにはショックを受けたようで、日々周りの目を気にするように怯えて過ごすような常態になった。過去の噂も考えると、明らかに彼女を標的とした悪意が感じられ、何度も見回れたことによって精神的ダメージが積み重なってもおかしくない。
一種の被害妄想の前兆でもある。だれかが友達どうし話しをしているだけでも自分の噂話をしているのではないかとか、自分をチラッと見られるだけで、嫌われていると思いこんでしまうのである。これは恐怖との戦いでもある。
ふだん益々孤立し、だれとも話しすらしなくなる。しかし彼女は練習だけは毎日つづけていた。けど、もうレッドゾーンであることもたしかだった。
そして、決定的な出来事が起こってしまった。練習を始めようとしてコートに来てみると、ネットがカッターナイフみたいな鋭利な刃物でズタズタに切られているのである。
当然だれがやったのか判るはずは無い。昼間は職員室の前であるし中庭になるので人目につきやすい。そうなると早朝しかない。
しょうがないので補修用のナイロンロープを使って切れた箇所を一つづつ直していった。
「酷いことしやがる。見つけたら叩きのめしてやっから。こんなこと気にするなよ。どっかのアホが、面白半分でやったかもしれないし」
そんな普通のことしか言えなかったが、相原は何も答えず黙々と修繕作業を繰り返すだけだった。
そして、しばらくすると微かな泣き声が聞こえてきた。もう限界だと思った。今まで必死に耐えてきたのも判る。もう充分だ。
「相原、もう止めよう。今日はいいから」
そのまま相原の手を取ってコートから離れ、いつも着替えをしている視聴覚教室のほうへ向かった。この時期、新設校なので部室は今建設中なのである。
図書室の前を通る時、中から出て来た西本先輩にでくわした。ただ事ではない状況に驚きつつも、二人を図書準備室に案内してくれた。
そうだった。西本先輩はソフト部を引退となってから放課後は、ここにいるのだった。図書委員と言うやつで、図書関係の雑用を一手にひきうけているとのことだった。
泣いたままの相原をテーブルに座らせ、介抱してくれた。このあたりは女どうしでないとこうはいかない。
「だいじょうぶよ、おちついて。あたしがいるから、もう何も心配いらないから」
西本先輩はそう言いながら、棚からカップを四つ出して、インスタントコーヒーを入れポットから湯を注いだ。
「由紀・・・ちゃんだったよね、さぁこれ飲んで、気持ちが安らぐから」
「砂糖とミルクもあるから、あなたは自分で入れてね」
西本先輩は相原の横に座り、背中をゆっくりさすってやっている。そうすると、だんだん呼吸を整え、落ち着いてきたみたいだ。
「ここ、いいでしょ。コーヒーも自由に飲めるし、ちょっとした秘密基地」
たしかに。こんな場所があるとは思ってもみなかった。図書室のカウンターの奥に間仕切りで準備室を作ってある。普段は新たに購入した本にラベルや所蔵印を押し準備したりカードや帳簿関連の整理もするとのことで、作業用のテーブルや椅子もあり、ちょっとした個室になっている。そして電気ポットでお湯を沸かし、コーヒーがインスタントではあるが常備されているとのことだった。
「先輩、カップ四っつってだれか来るんですか?」
「えぇ、そろそろ彼が来るころだから。例の専属護衛員よ。そしたら、話でも聞きましょうか」
しばらくすると、例のコンピューター部の部長が来た。
「紹介するわ。市野沢くん。一応あたしの彼氏かな」
「で、こちらは南条君と、相原さん」
市野沢先輩はちらっと由紀を見たあと。
「優子から話は聞いてるよ。最近中庭のコートで練習してる二人だよね。何かあったみたいだし、力になれるかもしれない」
俺はそれから、今までの出来事を詳細に説明した。この市野沢先輩は身長も高く、以前は何かスポーツをやっていた感じがした。
「なるほど。これは故意に流してるやつがいる可能性が高い。タイミングが良すぎる。しかも怨恨によるものたろう。愉快犯や便乗犯ならここまで執拗にやらないだろうし、過去の噂も全て個人への攻撃性が強いものばっかりだしな。二人とも、だれかに恨まれるようなことは心当たりない?」
妥当な推理である。ただ強いて二人と言ったが、これは相原がターゲットになっているのは明らかである。俺は首を左右に振った。
「ねぇ由紀ちゃん、何か思いつくようなことないかしら?」
「ごめんなさい。あたしが悪いの。迷惑かけちゃって、ずっと前からだから我慢すればいいだけ」
由紀はカップを両手で包むようにして、下を向いたまま擦れるような声で言った。一種の放心状態でもあった。
「私たち三年のほうには、まだ最期の噂は流れてないから、たぶん一年か二年が発信源かもしれない」
「ううん、犯人は別にだれでもいいの。このままじゃぁ南条君にも迷惑かかる。あたし、テニス止める。そうしたら、噂も終わる」
「それは負けることになるぞ。それこそ犯人の思い通りになってしまう。俺は何言われたって全然平気だし、この前も言っただろ。相原の悩みは半分にするって」
「僕もそう思う。このままテニス止めるのは敗北を認めたことになる。できたら反撃したいな。相手がわかれば」
「でもお願い。犯人を捜すとか、反撃するとかは止めて。後に何もいいことないから」
「それはそうだけど・・・由紀ちゃんちょっとここにいてね。アイデア話してくるから。二人とも、こちっち来て」
西本先輩は俺らを準備室から図書室の方へ案内した。
「ねぇ、これって由紀ちゃんは犯人判ってるんじゃない?」
「たぶんそうだね。だからあえて攻撃的なことを控え事態がエスカレートすることを嫌ってるように思う」
「同意ですね。先輩たちから見て相原の怯えかたはどう見えます?今に始まったことではないように思うんですよ。もっと相当前からとか。そうでないと入学時から噂がすぐ始まるっておかしすぎますよ。それと、一年の学年で相原とトラブったやつなんかいないと思うんです。こんなに沢山噂が出たら、相手側もわかりますよ」
「と言うことは、犯人は中学時代に接点のある人、そして同学年ではない。二年の可能性が高いってことね」
「相原って中学の時、何部だったんだろ。中学の同じクラブの二年生。そんなに沢山いませんよね」
「だんだん絞れてきたんじゃない。でも確実に犯人が判らないとこっちからは何もできないよね。いい方法ないかしら」
「一つアイデアがある」
市野沢先輩は準備室に戻ってから話はじめた。
「相原さんの言うとおり、今回犯人探しはしない。けどこのまま負けることもしない。目標は最期の噂を潰す。明日は土曜日だし、君たち二人はいつものとおり練習をする。後はこっちがやっておくから。バッチリだから心配しなくていいよ」
詳細はわからないが、あの西本先輩にして、その彼氏の市野沢先輩だからそれなりのアイデアがあるに違いない。なんだか希望がでてくると、楽しみになってきた。
そして次の日の午後がやってきた。相原と二人でコートの準備をしていたら、西本先輩と市野沢先輩が立て看板をもって来た。図書室の前に立ててあった案内用の自立看板である。しかも二人はジャージに着替えてるし、手にはラケットを持っている。
立て看板をエントランスの方向に向け設置した。そこには『一緒にテニスでもしませんか。初心者歓迎お気軽に』と書いてある。
「さぁやるわよ。偶には体動かさないと太っちゃうからね」
「僕もテニスは中学以来久々だから、どうなるかわからない」
なるほど、さすがとしか言いようがない。この看板見たら、コートを独占しようなんてこれっぽっちも無いことが判る。しかも不特定多数を誘っている。完全に噂と反した行為だと言うことになる。そして第一号の参加者を自ら行ってくれている。もう感謝しかない。
それから我々はラリーをやったりペアになって試合みたいな感じでテニスを楽しんだ。
「西本先輩、けっこうヘタなんですね。野球部とソフト部の試合、テニスにしときゃよかった」
「テニスなんか今日が始めてなのよ、もっと優しくしなさいよ。手加減もね」
西本先輩と俺、市野沢先輩と相原のペアになったダブルスをやった。これがまたけっこうラリーも続くときもあるが、珍プレー続出となって笑い転げる始末。コートはキャーキャー言いながら楽しい雰囲気につつまれた。
何人も通りかがりにコートを見ていったし、帰る時にエントランスを通るので看板は必ず見える。
この効果は絶大だった。ある日は先生が何人か参加してくれた。ついにこのコートの設置目的であった先生と生徒の交流も実現したのである。
生徒も経験者、初心者合わせ、友達同士グループこどに度々参加してくれた。どれもこれも練習とは違い、楽しさが格段に違っていた。これがスポーツの本来の魅力である。
こうなると、噂は瞬時に霧散した。同時に相原に関して流れていた過去の噂も信憑性が疑われ、だれも信じなくなっていったのだった。
あの事件以来、相原と俺は、昼休み時々図書準備室へ行くようになった。格別なコーヒーをゆっくり飲める他、だれにも邪魔されない秘密基地。西本先輩と市野沢先輩もいてるし、将来のこととか、とりとめもない話題を楽しんだ。
ある日、雨で練習が中止の時、図書準備室に行ったら、相原と西本先輩が何かを作っているのが見えた。すごく細かい作業のようだった。
「入ってきたらダメだからー」
いきなり二人に追い出されてしまった。
「男性陣はご遠慮願いますってさ。なんか見られるとご利益が薄れるんだそうだ」
市野沢先輩も追い出されたみたいだ。前世の記憶と照合すると、今彼女らが作っているのは、リリアンと言う手芸アクセサリーで、この時期流行ったものだろう。現代でこそ簡単に編める器具があるが当時は手編みで完成度が高い物となると繊細な作業が必要となる。
二つペアで女性が作り男性に一つをプレゼントする。大半は既に付き合っているカップル同士が持ち、ガバン等にアクセサリーとして付ける。このことによって既に彼氏、彼女がいてますよと言うサインになる。また、リリアンは二色のビニール繊維で作るが、この色は作者によって区々で、同じ配色のものを持っていることから、だれとだれがカップルなのかも判明すると言うもので、一種のマーキングの意味も含む。
そして応用編として、付き合いたい男性へプレゼントしてアクセサリーとして付けてくれたらОKの返事となることもある。中にはカバンに二、三本も付けている猛者もいてたりする。それはそれで意味を成してないが。
ご利益的には、リリアンの頭の部分に五円硬貨を入れる。これは当然二人に末永いご縁がありますように、と言う一般的なもので、作っているところを男性に見られるとそのご利益が薄れると言うものである。
今、流行しているのは、カバンにリリアンを付けているのが一種のステータスとなっているのもある。この為、多くのカップルがお揃いのものを付けている。
数日後、相原から完成したリリアンを受け取った。
「これ、深い意味はないの。日ごろのお礼も兼ねて」
そのリリアンは水色と、青の配色だった。通常は対色にしたり、不良やヤンキー系は金や銀、赤、黒等の組み合わせに人気があった。相原らしい色使いだった。
俺は応用編に従ってカバンに付けた。もちろん相原も付けていた。相原の言う通り、別に告白するとか付き合うとかは無い状態であったが、公式にはこれが公認のお墨付きと理解されていくことになった。
ある日の土曜日、テニスの練習に熱中しすぎて六時のスクールバスの時間が迫っていたときだった。
「相原、バスもう来てるから片付けなくていい。着替えに行って」
「でも、最後までやらないと」
相原は結局最後までやってダッシュで着替えにいった。その後、俺も着替えてエントランスに向かったら、一人相原が思案に暮れているところだった。
「バス出ちゃった」
スクールバスは一般の交通会社が運営しており、朝一便、放課後すぐの三時三十分、土曜日のみ十三時、と部活終了の十八時の計三便が三方面別に運行されていた。定期券は通常のものと同じで同路線のバスも利用できる。よって乗り遅れたりした場合は一般路線を使うこととなる。但し志賀高下の路線は元々極端に少ない。相原の家への方面でバスの多い基幹路線が通る所まではかなりの距離がある。
俺はそこまで自転車で送るべく、まず少々遅れることを家へ告げさせた。二人のカバンを前籠に入れ相原を荷台に載せる。
「相原、その乗り方じゃ危ないから、またがって、しっかり手も回して。もう人も少ないし、もうすぐ暗くなるから」
まず志賀高下まで急な坂が長く続く。
「キャーゆっくり行ってーこわいー・・・」
相原は荷台で俺にしがみ付いた。坂が終わってからは平坦な道が続く。しばらく無言の時間が続く。
「なぁ。けっこう長く、くっついてる?」
「うん。南条君の暖かさ感じてる。ほろだるくって、目とじてると、気持ちいいの」
九月の終わりごろは、夕方以降けっこう涼しいし、練習疲れもあいまって相原は、体をあづけてくる。おかげで背中はホッペタの温もりが伝わってくる。
「ねぇ、今まで相原って呼ぶけど、名前で呼んでもいいよ。由紀って」
「いいのか?ちゃん、とか付けなくって」
「うん。家でもそうだし、特に親しい人はそうだから」
(そりゃ家で相原は、おかしいだろ)
「じゃぁ、俺も同じく名前で」
「智史で、いいの?なんか、はずかしいね」
「そのうち慣れるよ。すぐ」
「智史って、好きな人とか、付き合いたい人っていないの?」
「どうなんだろ。自分でもよく判らないのかもしれない。告白とかして、付き合うって、単に型にはめるだけだろ。大切にしたいとか、その人の為に何かしたいってのはある。でも自分が独占したいとか、俺の為だけにとか、そんなのは無い。お互い思いやる気持ちさえあれば型にはめる必要なんて、いらないんじゃないかな」
「でも、そうしてるうちに、相手がだれかに取られるとか、そんな不安はない?」
「それこそ、取られたら、自分の愛情が少なかったんだってことだよ。相手にも選ぶ自由はあるべきだと思うし、もし自分より確実にいいやつが現れて、幸せにできると思うなら、和えて引いてもいい。それも愛情の一つだし」
「へぇーそうなんだ。でもなんとなく判る気もする」
「何も言わなくっても、お互い信頼が大きく持てるようになったら、そんな心配もいらないはずだし」
「うん、そうだね」
「相・・・由紀はどうなん?好きな人とかは?」
「あはは、あたしは、ダメよ変な噂出てるから、だれも相手にしてくれないし。でも気になる人はいてるよ」
「へーどんなヤツ?」
「けっこう変な人。その人といると落ち着くの。安心できるって言うか・・・」
「そうか、変人なのか・・・それと来年俺、バイクの免許取るよ。そしたら由紀を送れるし。迎えにだっていける」
「それ、いいね。でもだいじょうぶかしら」
「あぁ、学校が認めてないってことだろ。でもみんな取りにいってるし。そもそもおかし過ぎるだろ。国や法律で認めてるのに」
「そうだよね。大きな矛盾って感じ」
そんな色々な話をしながら自転車で由紀を送っていくのもいいものだと思った。無風だが、自転車を漕ぐと、ささやかな田舎独特の匂いを含む風が体全体を流れる。
前世の後半では考えられないゆっくりとした安らぎ。今はこの感覚を満喫したい。
(あれ、なんか変だ。前世、俺はだれと結婚していたんだっけ)
少し前より徐々に感じていたが、由紀と色々な関係を持つにつれ、将来重複し、影響を及ぼすような前世の記憶が薄れていくように思う。これも一つの修正力と言うやつかもしれないと思った。