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リトライ  作者: 相原由紀
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 音も無く真っ暗な闇。上下左右の位置感覚も無く意識だけの世界。五感全てが遮断され時間すら存在するかも不明な、そんな世界を俺は漂っていた。

 たぶん数時間前、いや正確にはこの世界に入る前の時間だが、その期間は記憶にある。 始まりは救急車の中だった。そう、生まれて初めて救急車に乗ったのだった。いや、乗せられたと言うほうが正解なのだろう。

 体全体が激痛に支配され今まで経験したことが無いくらいの苦痛にただ耐えていた。 しかも息くるしい。このままでは確実に窒息しそうな状態も含め、明らかに只事ではないのを認識できる。

 なぜこうなった?事故なのか、突発的な病気かは覚えていない。まだ発車していないことから、救急車へ搬送されて直ぐなのだろう。

 救急隊員が病院と連絡を取っているのが聞こえる。受け入れ先を選択しているのであろう。運が悪いと何箇所か、たらい回しにされると聞くが。

 良く知っている大きな宗教系総合病院の名前がでてきた。そう、そこは普段利用していて今までの病歴等も記録している。俺のカルテだってあるはずだ。(そこにしてくれ・・・)

 しかし、何かの理由で拒否されたようだ。

 苦痛の中、若干の怒りすら感じた(お得意様だぞ、利用してるはずだろう。こんな肝心な時にまたしても・・・)

 思い出した。以前その病院を急患で同じく激痛に見舞われながら外来を訪れた時のことだった。始めどのくらい待ち時間が、かかるかと聞いた時、一時間以内だと言われた。

 しかし三時間たっても診察が始まらなかった。そしてキャンセルし近場の町医者に行ったことがあった。後でその総合病院のホームページから苦情を書き込んだことがあったのだ。

 今、当然名前も告げて依頼したはずだ。その過去のクレームの履歴があって要注意人物とかの指定がされていて拒否されたのかもしれない。 

 とにかく俺はイエス様からは見放されたようだ。次に依頼した病院は聞いたことは無かったが救急車が発車したことから受け入れられたのだろう。

 益々苦しさは強くなるばかりである。『痛い』と『息ができない』と頻繁に訴えた。どうも過呼吸になっていると言うことで、息をゆっくり大きくするように言われる。しかし苦しいから早く息をするのであって、これ以上遅くするとよけいに苦しくなる。もう限界に近かった。

 救急車は右へ左へとカーブを切りながら突き走る・・・て、いるのだろうと思う。しかしこれほど乗りごこちが悪いことを初めて知った。両手でしっかり摑まってないと振り落とされそうだった(搬送される患者としての意見だ)

 病院の救急搬入口に着いたのだろう。停車すると同時に何人もの人が回りを取り囲むのが判る。

 救急隊から引継ぎが行われている。現状の脈拍や血圧等々を伝達している。そして何人かで病院側のストレッチャーに移された。通路の蛍光灯が流れていくのが見える。どうも割と大きな病院のようだ。少し安心した。

 当直医らしき医者が色々質問してくるが、痛いと苦しいだけしか判らない。どのへんて、全部痛いのだから答えようがない。冷静に考えれば頭や顔、両手は痛くはない。しかし首から下、足まで体全体が痛風のような痛みなのだから。

 当直医も判断に困っているのだろう。そうなると外傷関係ではないようだ。それなら当然外から見れば一目瞭然となるはず。

 体に取り付けられた様々な計器からも決定的な病因は特定できないようで、かなりの時間が経過していく。

(早くなんとかしてくれ・・・)

 造影剤を打たれた。どうもMRIで疾患を特定するようだ。装置もスタッフもすぐスタンバイできているらしい。

(これは充分な救急受け入れ態勢ができている病院だ。心強い)

 装置が動きだす。なんとじれったいゆっくりとした速度なのか、赤いLEDのランプや頭の芯から聞こえるような共鳴音が不気味だ。でもそんなことはどうでもいい。この苦痛から救ってくれるのなら悪魔にでもお願いしたい限りだった。

 しばらくして当直医が周りのスタッフと結果を検討している。

『こりゃひどい。上から下までみごとに裂けてる。ここの腎臓も・・・』

(おいおい、患者の前でそんなこと言うか?)

 そりゃ嘘をつかれるより真実を知りたいが、そんな絶望的なのは死刑宣告みたいではないか。さっきから、うわ言のように『痛い、痛い』ばかりなので意識もうろう状態で、まさか聞こえているとは思っていないようだ。

 緊急手術の用意が進められている。何か判らないが専門用語を使った指示や命令が飛び交う。

(これは相当ひどい常態なんだなーもうダメかもしれない。俺はこれで終わってしまうかもしれない。いや医者がひどいと言うくらいだ。おしまいだな)

 そう思うと諦めと言うか恐怖は無い。できればこの苦痛から逃れられるのなら死もまた選択肢かもしれないとまで腹を括った。

「麻酔しますからね。効いてきたら楽になりますよ」

 声から判るが歳の行った年配の看護師だろう。なんと安心感のある言葉だ。楽になる。それこそ今一番望むものだ。しかし考えると、とても不吉な言葉でもある。『楽になる・・・』

 よく戦争映画で被弾し腹から内臓が飛び出しているのに意識があり、戦友と言葉をかわしているシーンがあるが、正に今の俺が、そんな状態だと思う。

 しかもそれらの場面では戦友を楽にしてやる為、止めを射してやるのだが。今までは、それでも死ぬのはいやだと思っていた。今なら間違いなく殺してくれるのに大賛成だ。それほどの苦痛の嵐なのだから。

 何かを顔にかぶせられた。いよいよ麻酔が始まるのだ。看護師が何か言っているようだが、もうどうでもいい。急速に痛みが取れてくるのがわかる。なんと効果的なのか。まるで雲が流れて晴れ渡るように苦痛が弱まっていく感じだ。それと同時に人間、生物としての意識が薄れていく。睡魔に落ちていくのと同様だ。 

(死ぬって案外簡単で怖いことなんて全然ないんだなー)

 これが最後に感じたことであった。


 そう言うわけで、今は夢の中なのか、死の世界なのか判らない。ただ夢のようなツジツマが咬み合っていない状況ではない。思考だけは至って正常と言うか、精神だけの世界。それが死と言うものかもしれないが・・・

 俺の人生はどうだった?

 死んだら、だれもまずそう振り返るのだろうが、俺の場合。前半は良いとしても後半は最悪だったし、とても良い一生でしたなんて言えないものだったと改めて感じる。

 どこで、どう間違ったのか、どこの選択点で分岐をしくじつたのか、また本当に努力したのか。不十分なことも多くあったのではなかったか、わりとがんばったと思うが、それでも足りなかったのか? 

 まず始めの転換点は学生生活も終わり、初めて就職した時のことだった。会社訪問で製造部門を見せてもらって、ここだと言うくらいの、やりたい仕事そのものが、そこにはあった。

 設計等の技術職での採用希望だったので即応募し、内定となった。初めは研修期間があり、その系列グループ内の各社から新規採用された新人が一同に二週間ほど社会人としてのイロハの基礎を学んだ。そしていざ配属と言う時、渡された辞令には地方の営業所勤務となっていた。当然営業職である。

 会社だって応募した会社と違っていた。同じグループ内で適正にあったところへ配属するのが通例となっている事が後でわかった。もうその時点では取り返しがつかない。今更再就職先を探すのなんで時期も時期で不可能であった。

 止む無く営業の新人としてやるだけのことはやった。ただがむしゃらに学べるものは全て吸収した。一年経過したとき、当時の技術進歩は著しくブランクは後々大きな溝になると考え始めの希望通り工場の製造部門への配置転換依頼を出した。しかしまったく聞きいれてもらえなかったので、その半年後に退職した。

 次に就職したのは始めの経験より即設計部門での業務ができるところを選んだ。俺は水を得た魚のごとく寝食忘れて仕事をこなした。過酷な徹夜や日曜出勤も苦にならなかった。 やがて子会社に出向になり一年ほどで戻ってからは、火消要員として投入されはじめた。

 火消しとは、トラブルの発生している物件に投入され正常化させる為の要員で、ようするに貧乏くじそのものである。

 しかし上手く乗り越えた時の達成感はあり、これも苦にはならなかった。事実多くの物件を成功に導いたと思う。

 だが、五年も過ぎたころに大きな転換期に発展してしまった出来事があった。前任者が挫折し既に辞職してしまった物件へ投入された。一から再構築し何日も泊り込みで建て直しを図ることになった。

 そして一応形になった段階で現場での運転を交えた稼動試験に移った。三ヶ月間現地で過ごし、毎日寝る時間が四時間しかない日々が続く。しかし大手機器メーカーの設計ミスや様々なバグによってシステムとしての性能が発揮できないことが判明したのだった。致命的である。

 稀に大手メーカーでも競合他社との競り合いで新製品を充分な検査やテストを行わず製品として出荷してしまうことがある。産業機器の場合、そのような時、一番被害を被るのは現場や中間セットメーカーのエンジニアだ。

 最終的にそのカバーの為、より多くの機器や労力を更に投入することで、なんとか引渡しに達したのだったが、当然大きな赤字物件ともなった。

 後日その責任問題となった時、直属の上司が、メーカーの接待攻勢に凋落し、全ての責任を俺に押し付けて知らぬ顔だった。それどころか、あからさまな、嫌がらせが頻発した。

 それから耐え難い日々が続くことになる。個人に提供されていた様々なツールをだんだんと取り上げられ、最後には仕事も無くなった。他の設計員は毎日遅くまで残業しているのに、一人だけ定時で帰宅する毎日が何ヶ月も続く。

 当時既に結婚していたが、こうなると給与も基本給だけとなる。かなりの残業が付いてやっと人並みの賃金だったので、それが無いとなると生活にも支障をきたすものとなる。当然妻からのクレームも大きなものとなった。

 半年持ちこたえたが限界だった。そして退職した。

 僅かな資金を元に一人だけのエンジニアリング事業を始めた。休日等はまったく無い。 トラブルがあると深夜でも駆けつけたし、会社での寝泊りが多くなっていった。数日に一度帰宅するのがやっとで毎日夜遅くまで仕事をこなし、生活はどんどん不規則になっていく。

 バブル崩壊時は地下鉄の保線アルバイトを夜間行い食い繋ぐこともあった。元受からの未払い、取引先の倒産、手形詐欺から脅迫まで。ありとあらゆることも経験した。

 次の転換点は突然やってきた。警察からの呼び出しと言うか、任意同行だった。ある老人が暴行され、大きな怪我を負った事件が発生して、その犯人が俺とのことである。全く実に覚えが無い。

 いや、確かにその老人は知っている。時々会社の前を犬を連れて散歩していることがある。稀に挨拶くらいの会話もする。その程度だ。しかし事件の日、その会話を見ていた近所のおばさんが、やったのは俺だと告発したのだった。

 老人は俺の会社から近くの公園まで行き、倒れていた。何者かに暴行されたことが原因だったらしい。しかし、俺が暴行していたと言う事実は無いはずだ。

 警察での拘留が二十日にも達した。最終的に、告発したおばさんは、会話をしていたのを見ただけで、暴力を振るっているのを目撃したわけでは無い。ただ、そうだから、俺がやったに違いないから、俺が犯人だと言うとんでも無いものだった。

 後日真犯人が逮捕されたらしい。だが、それで何の保証も償いもなかった。弁護士も僅かな保証金は出るかもしれないが、起訴送検されたわけでは無いので、争っても得るものはほぼ皆無だと教えられた。警察や、告発したおばさんからの侘びも一切なかった。

 小さな会社において、一月程度の業務停止はどれだけ損害にあたるか。しかも拘留中は業務関連等何の連絡も許されず、進行していた物件や納期期日のあった仕事は、ことごとく解除や中止となっていた。もちろん取引先には信用を完全に無くすことになる。

 そして、それを取り戻すべく、また何とか間に合う納期の物件を死守する為に以前より増して仕事に従事することになる。こうなると体にも異変が出て当然だった。

 過労の末肺炎で緊急入院となった。二週間ほど入院したが退院と同時に次の疾患が発生した。事件と過労のストレスかは定かではないが頭の病気だった。恐怖と不安、別に何が怖いとか対象があるわけでも無いのだが強烈な恐怖が襲うのである。そして鬱症状の併発。

 ただ怯え、意味もなく逃げた。病院の夜間救急外来へ、そこが唯一少しだけ安らげる場所だったから。

そうなると仕事どころではなくなる。会社としても信頼は低下し業務困難な様となった。

 収入も当然途切れてしまうことになり、それが最後のトドメとなり離婚。

 その後は生活保護すら受けなかったが極貧の生活を送ることになる。パンの耳が主食となる。スーパーでサントイッチ等の加工で余った食パンの耳が大きな一袋で二十円とかで出る。これを競合争奪するのである。相手はいつも裕福そうなオバサンである。彼女は何に使うのか聞いたことがあった。犬の餌とのことだ。

 何軒か精神科や心療内科を点々として、やっと効果のある向精神薬を処方してくれる医者とめぐりあえた。そして徐々に回復に向かうことになるが、発作が突如起こるのでまともな職はありえなかった。

 短期のアルバイト等を行い日々を耐えていった。夏場は節約する為屋上の水浴びで風呂の変わりにした。特に七月や八月の熱い日は風呂よりかえって快適だった。夜、夜景を眺めながら涼むのが唯一の贅沢となった。

 頭の病気が安定するまで十年が経過したが、その後も軽い発作は時々おとづれ、完全には開放されなかった。

 アルバイトが長期間続けられるようになった時、正社員として採用され、これで生活の改善ができると思っていた矢先、その会社が倒産してしまい、既に遅配が発生していて二ヶ月以上の給与が未払いのまま処理されなかった。

 またアルバイト生活に戻ったが、このころになると年齢制限等で選択肢が少なくなってきたので軽作業の派遣や日雇い、住み込みのものまで手をだしてなんとか最低ラインの生活を維持した。しかし今までの酷使が祟ったのか、ヘルニアを発病してしまい、一月は何もできなかった。その次は安物のカツオの缶詰ばかり食べていたのが原因で痛風を発症してしまった。両方とも一度なると再発しやすく何度となく繰り返すはめとなる。

 以上のような、さんたんたる人生だった。別に悪事を働いたわけでもない。不真面目だったとも思わない。いったい何が悪かったのか、ただ思うのは神様の振るサイコロが若干、いや、わりと悪いものばっかりだったのではないかと、こじつけるしかない。

 神の存在等は今まで考えたことは無かった。しかし世の中の出来事や歴史を支配しているの者がいてるのなら、言ってやりたい。

『バカヤロー』

 心の意識の中で叫び、訴えていた。

 いつから?学生時代までは普通だったから、やはり社会に出てからと言うことになる。できれば、あの青春と言われる時代に戻って、やりなおしたい。

 なんて考えること自体今となっては無意味だ。俺は既に人生を終わり、三途の川の手前まで到着しているのだから。このまま天国か地獄かは知らないが、あの世と言う世界に入っていくことになるのだろうと、意識だけの中で思考しつづけたのだった。


 時間という観念が存在してないので、どれだけ時間が経過したのか定かでないが、なぜかまた、急激に痛さを伴う苦痛が支配しはじめた。

(まさか、何か失敗したのか? それとも現世に戻ってしまうのか?)

 麻酔の量を間違えて手術の最中蘇生してしまうなんて御免被りたい。いや、もういいから死なせてほしい。せっかく手前まできていたのだから・・・

 しかし苦痛は更に激しくなっていった。息苦しさも復活した。窒息しそうだ、痛い。

 しばらく我慢していると、今度は徐々にその苦痛がゆっくりではあるが、和らいでいくのがわかった。だんだん呼吸も楽になる。いったいどういうことなのだろう。だが、ありがたかった。もうすぐ落ち着く。

 そしてある事に気がついた。顔に風があたっている。かすかにではあるが、強弱と言うか自然の風だ。なんと心地よい感覚なんだろうと神経を集中した。

 さらに痛みや息苦しさがかなり治まった時、様々な感覚が蘇ってきたことを感じた。匂い、そう臭覚だ。これは昔懐かしい田舎の田畑の匂い。草や花々のツンと透き通るような独特の匂いがする。

 聴覚もわずかだが聞こえる。風が草木を揺らす音だった。これなら目も見えるのではないか?恐る恐るゆつくりと目を開いていった。 

 なんと星が見える。夜なのか?満天の星空だった。天の川と言われる星が密集した大きな帯域も確認できる。

 そうか、ついに来たのか。よくあの世に行って戻ってきた人々がどんな所だったと聞いた時、お花畑とか、草原とか言うのを聞いたことがある。あの世も昼もあれば夜もあって当然だ。特に俺には、こっちのほうが似合いかもしれない。

 痛みはまだ少し残っているものの更に無視できるレベルに落ち着いた。そうなると更に色々な雰囲気も判明してくる。そう俺は草原に大の字になって寝ているのだった。なんとも正に死後の世界に相応しい。

 もうこれでいい。そう思うと、なんだか清々しい気分になった。たぶんいつになるか分からないが、夜が明ければあたり一面の花畑も見えるのだろう。そんな希望すら抱いて長く星空をそのまま見ていた。

 変なものを発見した。点滅する星がゆっくり移動している。流れ星等ではない。明らかに周期的に点滅している。しかも光っている時と消えている時の間隔が異なる。そうあれはどちらかと言うとフラッシュしているのだ。飛行機の翼端灯のように。

 なんと、あの世と言うのはリアルなのか。花が花として形あるものだから現世に似せて飛行機のような点滅もありうるかもしれない。極論、物質世界でなく、本人の記憶だけの世界なのだから昔田舎で何度も見た夜空の飛行機もその記憶の一部と考えれば当然なのかもしれない。

 ずっとそのまま寝ているのも・・・と思い体を起こしてみた。そこでまたもや異常と言うか、変すぎるものがあった。かなり遠い距離だが車がライトを点灯して走っている。そしてその流れは何度も繰り替えされる。

 周辺の視界をさらに観察すると民家の明かりも見える。ただ、都会のような場所ではない真っ暗な面積は非常に多く、ぽつりぽつりと街燈らしきもの、家から漏れる明かり。遠くの道路らしきところを時々通過する車。

 いくら記憶の世界と言えこれはリアルすぎる。そして近場に視線を向けてみた。月も出てない夜だからとても暗い。だが、星明かりでなんとか見える。前は幅三メートルほどの道路だ、アスファルトの。更に俺の横には自転車が倒れている。学生カバンらしきものまであるし、その中に入っていたと思われるノートや教科書がその周辺に散乱している。   

(えっこれって、昔あったあの時に似ている)

 と、言うことは、と右のほうを注視すると暗闇の中に農機具小屋とそこから道路へ若干飛び出したかたちに停車した農民車がある。

 農民車と言うのは俺の田舎にある独特の農作業用車両である。四輪で重量物を主に運搬する小型トラックみたいなもの。ただ速度は超低速だが馬力は相当ある。車体は当然鉄製である。

(そうだ、紛れもなく、あの時なのだ)

 忘れもしない。高校入学直後の時期だった。学校で中学から同じだった者たちでクラブ活動の選択を思案していて遅くなり急いで帰っていた時のことだった。そこは緩やかな長い下り坂になっていて自転車は最速まで加速していた。何の予告もなく急に大きな音とともに飛んだ、空中を漂うと言う感覚があった。その後は激痛と息ができなかった。よほど強く胸部を殴打した時と同じだ。

 その時もしばらく動くことさえ出来ず、ただ夜空を眺めていたのだった。原因は道端の農機具小屋に農民車が入りきらず後部を道路にはみ出した状態で停車していたのだった。

 そこへ月の無い真っ暗な夜道、ライトはペダルが重くなるので点けていない。衝突するまで何もわからなかったのだった。ただ、そんなに大きな衝撃にもかかわらず自転車は何一つ破損しておらず学生服も破れたりすることなく実害は苦痛だけだった。

(て、ことは・・・)

 何度おどろくのか?俺は学生服を着ている。そして、体もスリムだ、顔はわからない。なにせ光が無いのだから。もう何がどうなのか分からない。説明がまったくつかない。死後の世界は現世に似せることは、わからないでもない。しかしこれは過去の世界そのものだ。

 俺は当時と同じように草むらに散らばった教科書等を集めカバンに入れ、自転車を漕ぎだした。昔と同じ方向、同じ道を。

 この道は田舎を出てから何十年と通ってない。幹線道路の裏道と言うか農道である。田畑と時々集落を通過する交通量も非常に少ない道だった。ふと、自動販売機があったので目を向ける。それ自体は古くはないが旧型と言うかレトロな販売機だ。しかも品数が少ないし飲料の種類にペットボトルはない。見本の缶も古いデザインだった。

 しかしまだ、この今の現実は受け入れられないし理解もできない。もしここが現代なら、この道の次の集落を抜けたところからショッピングセンターが見えるはずだ。無いなら過去のあの時となる。

 何か判らないが微かな期待みたいな、どちらかの時代を望んでいるのではないが、現状を把握しなれればと言う目的意識だけが高鳴り速度を加速させた。

 緩やかなカーブを曲がり最後の民家を抜けた。そこには予測していたことだが近年営業しているはずのショッピングセンターはなかった。ただ田畑が広がっているだけだった。

 こう決定的な事実が積み重なると結論はただの一つしかない。俺は何十年も前の過去の世界にいる。

 よくSFの物語等で過去の世界へタイムスリップする作品があったりするが、それは未来にあった物、人物のスリップだから移動してきただけで、そのものは変化していない。

 つまり五十歳の人間が何十年前にタイムスリップしたとしても、そこには同じく五十歳の本人が新たに存在するだけだ。しかも過去においては若い自分までも同一時間に存在することもある。

 だが、今回はどうも精神と言うか意識だけタイムスリップして過去の自分の体に宿り、肉体は若い時のままなのではないか? 但し、まだ辺りは暗く自分自身を観察することはできないが・・・

 そんな思考錯誤を繰り返し、もっともつじつまの合う合理的な結論を求めながら実家の近くまで到着してしまった。既にこのパターンからいくと未来の世では既に取り壊した家業の瓦工場が存在し、家には二十年前に死んだオヤジがいてるはずだ。オカンだってまだ若いだろう。

 そうなると俺は五十の大台近くになったころだから。同じくらいかもしれない。

 そして、その工場は存在した。しかも窯に火が入っていることから稼動しているのがわかる。懐かしい・・・家の前に自転車を止め、玄関を開け急ぎ足でキッチンへ向かった。

「おかえり、飯はすぐ食べる?」

 いきなりのオカンの声で唖然とする間も無く、

「いや、ちょっと疲れたから少し寝る」

 と、言って自分の部屋のある階段を駆け上がっていた。そして今見た光景を頭のなかで確認した。オヤジは晩酌を飲んだのだろう横になって寝ている。祖父も祖母もテレビを見ている。

 何もかも昔のままだった。

 カバンを投げやり学生服を脱ぐ。そしてベットへころがった。もう何がおこっても結論は確定している。そうだ、最後の確認が必要だった。ベットの頭の棚にある鏡を取り、寝転がったまま顔を見た。そこに映っているのは俺では無い。何十年も前の高校生だった時の俺だった。




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