第八章
「やったね。初めての依頼人」
嬉々として皆の湯呑を片づける伸子を眺めて、健太郎は逆にすまなそうに呟いた。
「……ごめんな……早く女学校に戻してやりたいと思いながら結局出来なくて……お前あんなに勉強好きだったのに……」
しょんぼりと肩を落とす健太郎に伸子はしょうがないなあ……と小さなため息をつく。
「またその話ィ? この年で女学校戻ったって逆に恥ずかしいし、今は『ナルミヤ』で充分社会勉強をさせてもらってますから。いい加減しつこいよ、兄ちゃん!」
図体はでかいくせに、今のその顔はまるで捨てられた子犬みたいに情けない。
猛火に包まれ壊滅状態の本所からここ神保町に来たのも、伸子の通っていた竹早の女学校に近いからだ。勉強好きだった伸子の為に本当は何としても学業を全うさせてやりたかった。自分が安定した収入が保証された巡査をしていればそれは確実に叶う望みだった。本来ならこんなところで湯呑みを片づけていないで、どこかの女学校で教鞭を執っているはずなのに。
あれさえなかったらと、今でも思う。
下町本所で平和に平凡に暮らしていた長尾兄妹の幸せと両親を、あの震災が一瞬のうちに奪い去ってしまったのだ。
戒厳令が敷かれ、混乱の帝都。飛びかう流言飛語。凶徒と見なされ、惨殺された無数の朝鮮人や中国人、そして共産主義者達。震災はあらゆる建造物だけでなく、人の精神までをも麻痺させ破壊してしまう。決定的だったのは、所属していた亀戸署で繰り広げられた、共産主義者の惨殺事件。いわゆる亀戸事件──憲兵隊が行ったそれら惨い蛮行に警察組織も秘かに一枚噛んでいたと知って以来、自らの理想とあまりにもかけ離れた現実に、健太郎は絶望し、落胆し、迷いに迷った末、警察組織と決別したのだった。
両親を失い、思うところあって職を辞した兄。女学生だった伸子は否応なく学校を退学
せざるを得なかった。自分の下した判断の結果として、そのツケが必然的に伸子に回ってしまったことの罪悪感がいつでも健太郎の心の奥底に黒く焦げてこびり付いている。
──どんな形でもいい。伸子にいつか幸せが訪れるように。
年の離れた可愛い妹に、いつもいつでも彼はそう願わずにはいられないのだった。
「お家はどちらですか?」
宵闇の中、表通りに出て、訊かれた賢芳はぴたりとその歩みを止めた。
「あなたは本当に翔宇ではないの?」
俯いて切なく揺れる睫毛に縁どられた、伏し目がちの黒耀の瞳。月の光を浴びて青白い翳を落とす横顔。
「違います」
この言葉を口にする毎に、申し訳なく思ってしまうのは何故だろうか。
「そうですよね……何度もしつこくて御免なさい」
華奢な肩をがっくりと落としたその姿が、なんとも哀れで痛々しく、突然理由も告げずに消えた恋人を想う、その姿と心が何ともいじらしい。探偵まで雇うのだから、逢いたい気持ちは余程のものなのだろう。
「俺に出来ることがあれば力になりますよ」
言葉が思わず唇から零れ落ちていた。
「本当ですか?」
若松が深く頷くと、自転車のハンドルを握る無骨な手をふわりと賢芳の両手が包んだ。
「ありがとうございます。巡査さんは優しいのですね」
縋るような瞳で見つめられ、喉の奥に物が詰まったように言葉が出ない。
「独りで帰れます。さようなら」
あどけない笑顔とともに流される妖艶な眼差しを残して、賢芳の身体がまるで軽やかな蝶の羽のように翻った。
自転車を停め、握られた手をじっと見つめて顔を上げると、賢芳の姿は一瞬の間に、闇に紛れて影も形もなくなっていた。
見廻すと雑踏と喧噪の中に若松はたったひとり佇んでいる。
鼻孔には甘い香りと、手には冷たい感触がいつまでも残っていた。