第四章
上り坂の途中を右折して一本通りに入ると、明治大学が見えた。神保町は学校が多いため、学生の街として知られている。そのせいか「ナルミヤ」の常連さんも学生が多い。その明治大学から少し足を延ばすと、例の事件現場、ニコライ堂が目と鼻の先にある。長尾兄妹の住まいは、そのニコライ堂のすぐ近くにあった。何でも以前は広大な敷地を有していた元武家の屋敷だったらしいが、思わぬ火災に遭ってしまったという。かろうじて半焼で済んだ一部が震災にも耐え抜き、いわくつきの物件として破格の安値で売り出されていたのを、巡査を辞めた健太郎がその退職金をはたいて買い取ったのであった。
典型的な日本家屋だったというが、焼失を免れた建物は意外にも洒落たこじんまりした洋館の趣。離れとして使っていたのだろうか。小さな庭に点在する敷石の上に、夜の雲間からいつの間に現われたのか、微かな月明かりが射している。玄関には暖かなオレンジ色の門燈がぼうっと点いて、古いながらもあたたかな佇まいを感じさせた。
けれど、その雰囲気を一気にぶち壊すような、玄関ドアの横に無造作に括りつけられた、表札がわりの「長尾探偵事務所」の看板。この家の印象とあまりにもちくはぐなそれは、健太郎がそこらへんに落ちていた板に墨で書いたものだ。
「これ、恥ずかしいからやめて欲しいんだよね」
伸子が呆れたようにため息をつく。
「依頼人って来たことあるの?」
若松が怪訝そうに訊く。
「ここに越して来て二年半。事務所を立ち上げてから半年。依頼人は全くありません。いつもママを通じて飼い犬探しとか、引っ越しの手伝いとか、喧嘩の仲裁とか。何でも屋みたいな、そんな仕事ばっかり」
ばっさりと切り捨てて伸子はドアを開けた。
「ま、仕事があるだけでも感謝しないとね。若松さん、よかったらお茶でも飲んでって」
家の中に入ると、一階は広い洋間と台所があり二階は四畳半の和室が二間。もちろんそれなりに老朽化して、微かに焼け焦げの跡もあるけれど、兄弟二人が住むには申し分ないものだった。その一階の応接室部分を健太郎の仕事場「長尾探偵事務所」として、二階の和室を二人の部屋としてそれぞれ自由に使っていた。
「兄ちゃん、若松さんが送ってくれたァ」
伸子はバタバタと走って仕事場に足を踏み入れる。
室内には弱い明かりが灯り、アーチ型の窓ガラスは濃い藍色の迫る宵闇を映している。
古道具屋から見つけてきたかなり大きめの木製机。今にも壊れそうな、剥げかかったびろうどが張られた椅子。木目の綺麗な床は伸子が念いりに拭いているのだろう、腰壁までがぴかぴかに磨きあげられている。白い漆喰の壁に掛けられた大きな振子時計の針が七時を指していた。
そこで伸子は未だかつて見たことも無い光景に思わず目を剥いた。
今にも壊れそうな、老朽化甚だしい椅子に、健太郎は自らの巨体をどかっと沈め、偉そうに机に両手を組んで肘をついている。机を挟んで、これまた古道具屋から買った、はたけばいくらでも埃が湧いて出そうな長椅子には、一人の少女がきちんと姿勢を正して腰かけていた。
「若松さんッ、ちょっと来て!」
伸子は咄嗟に洋間のドアの陰に隠れて、必死に手まねきする。
「何、どうしたの?」
若松は玄関前に自転車を停めて、何ごとかと慌てて靴を脱いで廊下を走ってくる。
「後姿しか見えないけどさ、あれ見てよ!」
伸子がじれったそうに首を伸ばす。
「もしかして依頼人? 初めての?」
二人は顔を見合せて深く頷くと、ドア越しから、にわか探偵と依頼人のやりとりにじっと耳を澄ませた。