第三章
「ちょっと本屋に寄って、立ち読みして、新しい本を買ってきたとこ」
「何? どんな本?」
「『漢耀楼』の小玲ちゃん一押しの、中国の小説」
「へえ~。流石は作家志望のノンちゃん。読書の嗜好もいろいろだ」
「まあね」
「投稿は? 筆は進んでる?」
「うん。この間『少女界』に一作送ってみた」
実を言うと、伸子は少女雑誌の常連投稿家なのだった。今まで何度か自作の小説を送って、一等を取ったりしている。
「頑張れよ、何か夢中になれるものがあるっていうのはすごくいいことだよ。仕事ばかりじゃもったいないし。なんたってノンちゃんはまだ若いんだから」
「若松さんったら、そんなこと言っても何も出ないからね」
二人は目を見合せてくすくすと笑う。
「そういえば、珍しく今日は健太郎の迎えはないの?」
自分と健太郎は二人でワンセットだと、皆から思われているようだ。節子と同じ事を言われて思わず苦笑する。
「……もうあたしも二十歳になるんだからさ、兄ちゃんの迎えがなくても大丈夫だって」
「駄目だよ。今この街は物騒だし。ちょうど巡回中だから今日は特別僕が家まで送ってあげるよ」
「ほんと? やった! 若松さんなら是非送ってもらう」
背も高く、太い眉のきりりとした少し二枚目の巡査の申し出を断るわけが無い。伸子は
しまりの無いだらけた笑顔をさらして、ついお言葉に甘えてしまう。そして二人は他愛も無い事を喋りながら、自転車を引いてゆっくりゆっくりと駿河台の坂を上ってゆく。
「物騒といえば……あの事件、新聞記事以外であれから進展あった?」
「ニコライ堂のヤツ?」
若松の頬がぴくんと動く。正教会の大聖堂、お茶の水のシンボルでもあるニコライ堂は、先の震災で上部の鐘楼が完全に倒壊し、今は再建工事中。その立ち入り禁止の敷地内で、三日前、若い男の遺体が発見されたのだ。
「いや特に。何も進展なしってところだね」
若松はいかにも悔しそうに舌打ちする。
「まだまだ犯人逮捕にはほど遠いのが現状かな。何せ死因が全くわからない。殺人だとしたら凶器も発見されていないし、目撃者もなし。まあ、唯一つ手掛かりといったら……」
伸子は思わず声に出した。
「被害者の背中に落ちていた萎んだ花、でしょ? 不思議な事件だし、新聞記事熟読して覚えちゃった。でもそれって手掛りって言えるの? ただ単にどっかから風に吹かれて飛んできただけじゃないの?」
「まあ……ね。だけど何事も疑ってかかるのが捜査の基本だから。仮に自殺の線を考えてみてもその手段がまったく分からない。まるで寝ていてそのまま死んだように、外傷が全く無いんだ。とにかく謎だらけの事件で手を焼いてるよ。だからノンちゃんも用心に越したことはない。夜のひとり歩きは危ないから、やっぱり解決するまで健太郎に迎えに来てもらったほうがいい」
「はぁい」
自分に対して異様な過保護ぶりを発揮する、まるで今の季節のように暑苦しくて鬱陶しい兄、健太郎。その迎えなどまっぴら御免、と思ったけれど、若松の言うことにも一理ある。とりあえず返事だけはしておくことにした。