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曇花  作者:
2/22

第二章

「ありがとうございましたァ」

 最後の客を見送って、伸子は食器を片づけ、店内総ての卓を濡れた布巾で拭き始める。

「ママ、今日も忙しかったですね!」

 お下げ髪に、何とも愛嬌のある垂れ目に下膨れの頬。こざっぱりした銘仙の上から白いエプロンを掛けた長尾伸子は、ここ、ミルクホール「ナルミヤ」の看板娘。今年二十歳になるのだが、とても年相応には見えない童顔が目下の悩み。

「ああ、やっと終わったよ」

 仕事の後の一服とばかりに、銜え煙草で調理場を掃除しているのが、この店の女将、鳴海節子。少し時代遅れの束髪には白いものが幾筋か混じっている。割烹着姿でてきぱきと動く彼女に「ママ」という西洋風の呼称はまるで似合わない。

「ノンもそっち、適当に終わらせていいから、早く家に帰りな。夕飯の支度もあるだろうし。それにしても今日は珍しく健坊の迎えは無いみたいじゃないか」

 半分潰れかけた声を伸子に投げる。

「いいのいいの。兄ちゃんの迎えなんて鬱陶しいし。来なくてちょうどいいや。じゃ、ママ、お言葉に甘えてお先に失礼させていただきまーす」

 手早くエプロンを脱ぎ布巾をカウンターに置いて、人なつこい笑顔で節子に挨拶すると、伸子は素早く店を出た。


 夏のジメジメした暑さが瞬く間に身体に絡みつく。伸子はすうっと生暖かい外気を吸い込んだ。朝の九時から午後五時まで、ずっと店の中に籠っていたから、たとえ生暖かくても外の新鮮な空気を吸うと、何だか身体の隅々までが浄化されたように清々しい。

「ナルミヤ」は目抜き通りの一本奥、裏神保町の通り沿いにある。その通りをいつもの家路とは違う方角に伸子は足早に歩き始めた。ガタゴトと通り過ぎる市電のベルの音がせわしなく鳴り響く。夕暮れの、帰宅を急いで行き交う人々。その雑踏を上手くかわしながら伸子はひたすら歩いてゆく。


 三年前の関東大震災で、ここ神田区の中でも神保町は甚大な被害を蒙ったが、ゆっくりと傷が癒えてゆくように次第に復興しつつある。伸子が健太郎と共に初めてこの町に足を踏み入れた頃は、焼け野原の中に、無数のバラックが点在する無残な姿を晒していた。「ナルミヤ」もご多分にもれず、細々とそのバラックで営業していたのを思い出す。それから二年と半年経った今、その焼け野原もようやく「街」らしくなってきた。伸子の大好きな書店街も震災前と殆ど変らないほどに復興しているという。実に喜ばしいことだ。「ナルミヤ」も洒落たミルクホールとはいかないまでも、何とか店舗を構えることができた。けれど哀しいかな、見た目はまるで蕎麦屋のようで、とてもミルクホールには見えないが……。

 だけどそれでもいい。伸子と節子を慕って毎日通ってくれる常連さんもいる。伸子の笑顔に癒されると言ってくれる人もいる。何にもまして、仕事を持って健太郎と兄妹二人、平凡に暮らしていることが一番の幸せだった。毎日が充実していた。満ち足りていた。

 伸子は小走りに大型書店東京堂に入り、やっと一時間後、一冊の本を抱え、思い切り眦を下げて嬉々として出てきた。

「ノンちゃん、今帰りかい?」

 目抜き通りに出た途端、伸子はふいに呼びとめられた。

「若松さん!」

 振り返ると、自転車を引く制服制帽姿の巡査がそこにいた。


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