第一章
「街」にまつわる地方文学賞用に考えました。
「神保町」をテーマにした過去の投稿作品です。
設定等不自然な個所が多々あるかと思いますが、大目に見てやってくださると嬉しいです。
男の足取りのおぼつかなさは、かなりの酩酊によるものだった。
街はすっぽりと闇に覆われ、刻、既に深更。
しんと染みわたるような重い静寂。漆黒の空に浮かぶ玲瓏な月輪が冷ややかな光を下界に降り注ぐ。
勝手知ったるいつもの道。
まっすぐに歩いてさえ行けば、すぐに停車場へと辿り着くはずだった。
けれど深い酔いが完全に男の方向感覚を麻痺させていた。
くねる迷路のような路地裏をどれほど彷徨ったろうか。
気が付くとそこは見知らぬ場所。ぽっかりと口を開いた暗い空間からぼんやりと浮かび上がるのは、まるで異国の廃墟の如き巨大な遺構。
男は頭をぶるっと一振りし両目を擦る。とろんとした目を何度も瞬かせて、必死に前方を見据えた。
錯覚ではなかった。それは、確かにそこにいる。
張り巡らされた闇の中で、白い手が微光を放って風に靡く花びらのように妖しく揺れている。目を逸らすことなどできない。ふらつく身体が、誘われるまま遺構の中へと吸い寄せられてゆく。
「こっちにきて……」
吹き抜ける生ぬるい夜風がそそる誘惑の声を乗せて男の耳をくすぐってゆく。その甘美な響きが男の深奥に封じ込められていた欲望の扉を否応なくこじ開ける
いたるところに散らばった無数の瓦礫に足元を取られてしまう。躓きながらよろめきながらやっとのことで辿り着くと、ごろりと転がった巨大な鐘楼の残骸に一人の少女が優雅に腰かけていた。
一輪の純白の花を手にして、ふるいつきたくなるような蠱惑の笑みを浮かべている。男の濁った双眸に映るその姿は、まるでたおやかな月の精かと見紛うばかりに美しい。彼はごくりと唾を飲み込むと、抑制のきかなくなった両腕を伸ばして華奢な身体を思い切りかき抱いた。
「ねえ……私と一緒に来てくれる? ずっと一緒にいてくれる?」
鼻孔にひろがる、むせかえるような甘い香り。男の荒れた唇にそっと触れるひやりとした可憐な感触。抱き取った瞬間の、全身を駆け抜ける激しい衝動に堪らず身を震わせる。貪るように幾度も交わされる口づけの、その合い間から、透き通るようなか細い声が男を絡め取るように耳に纏わりつく。
「寂しいの……独りはいやよ……だから一緒に来て……ね?」
激しい抱擁がぴたりと止まり、沈黙が闇に流れた。
冷たい唇がそっと剥がれたと同時に、男は無言のまま、ずるりと固い地面に沈んだ。
倒れる寸前の、薄れゆく意識の中で視界の片隅に過った白い花。
それがこの世で男が見た最後のものであった。
横たわる亡骸に、まるで死者に手向けるが如く、花がふわりと落ちた。
ミステリテイストなのですが、まったく自信がありません。
軽く読み流していただけたら幸いです。