婚約解消を申し出た私に、婚約者が「断る」と即答しました
「レオン様。どうか、私との婚約を解消してください」
そう告げた瞬間、婚約者のレオン様が紅茶のカップを置いた。
「……理由を聞いてもいいかな?」
いつも穏やかな彼の顔から、笑みが消えている。
私は膝の上で両手を握りしめた。
「我が家が、多額の負債を抱えてしまったのです」
「それは聞いているよ」
「ご存じだったのですか?」
「昨日、君のお父上から相談を受けた」
私は思わず顔を上げた。
父がレオン様に相談していたなんて、知らなかった。
「でしたら、なおさらです。これ以上、レオン様にご迷惑をおかけするわけにはまいりません」
「迷惑?」
「我が家の負債は、金貨八千枚にもなります。返済のために領地の一部を手放すことになるかもしれません。そんな家の娘を妻に迎えれば、レオン様のお立場にも傷がつきます」
私の実家は、地方で織物業を営む子爵家だ。
決して裕福ではないけれど、父も母も、領民たちと力を合わせて堅実に家業を続けてきた。
ところが半年前から、原料の仕入れ代金が急激に膨らみ始めた。
契約しているベルク商会からは、北方の街道が荒れ、原料価格と輸送費が高騰したと説明された。
父は帳簿を何度も確認し、経費を削り、仕入れ先の変更まで検討した。
しかし、ベルク商会とは二十年以上の付き合いがあり、工房の設備も同商会が扱う羊毛に合わせて整えられている。
別の商会へ切り替えるには、時間も費用も必要だった。
何より、原料の供給を止めれば、領民たちの仕事がなくなってしまう。
父は借金を重ねながら、何とか工房を動かし続けていた。
それでも状況は改善せず、とうとう限界を迎えたのだ。
「ですから、どうか婚約を――」
「断る」
即答だった。
「……え?」
「婚約は解消しない」
レオン様は、はっきりと言い切った。
「ですが、これは我が家の問題です」
「そうだね」
「レオン様には関係のないことで……」
「それは違う」
彼は少しだけ身を乗り出した。
「私は君と結婚するつもりだ。君の家族が困っているなら、私にとっても他人事ではないよ」
「でも、八千枚もの金貨を……」
「金額の問題じゃない」
レオン様はそこで一度言葉を切った。
「君は、私が困ったときにはどうする?」
「もちろん、お力になります」
考えるまでもなかった。
彼が困っているなら、私にできることは何でもしたい。
「たとえ君に迷惑がかかるとしても?」
「迷惑だなんて思いません!」
思わず声が大きくなった。
レオン様は、そこでようやく微笑んだ。
「私も同じ気持ちなんだけどな」
「あ……」
言い返せなかった。
「君が私を守ろうとしてくれたことは嬉しい。でも、私にも君を守らせてくれないか」
その言葉に、胸が熱くなる。
けれど、私はまだ頷けなかった。
「お気持ちは嬉しいです。でも、レオン様のお家にまで負担をかけることは……」
「だったら、負担をかけずに解決する方法を探そう」
「そんな方法があるのでしょうか」
「実は、一つ気になっていることがある」
レオン様は机の上に、一冊の帳簿を置いた。
「君の家の原料仕入れについて、少し調べさせてもらったんだ」
◇
「この半年で、仕入れ価格が三倍近くになっている」
レオン様が開いた帳簿には、月ごとの原料価格が記されていた。
私は頷いた。
「北方の街道が荒れて、荷馬車の護衛を増やしたと聞いています」
「それは事実だよ。街道の治安が悪化したのも、輸送費が上がったのも本当だ」
「では……」
「ただ、値上がりの幅がおかしい」
レオン様は別の紙を取り出した。
「同じ街道を使っている別の商会では、輸送費の上昇は三割程度なんだ」
「三割……?」
「君の家が払っている金額とは、ずいぶん違うだろう?」
私は帳簿を見つめた。
原料価格は三倍近く。
輸送費の上昇が三割なら、残りの値上がりはどこから来たのだろう。
「原料そのものの値段が上がったのではありませんか?」
「もちろん、それも考えられる。だから市場価格も調べた」
レオン様はさらに一枚の紙を差し出した。
そこには、北方で取引されている羊毛の価格が記されていた。
確かに値上がりはしている。
けれど、こちらも二割ほどだった。
「……おかしいです」
「そうだね」
「これでは、説明がつきません」
「君のお父上も同じことを疑っていたそうだよ」
私は顔を上げた。
「お父様も?」
「何度もベルク商会に説明を求めたそうだ。そのたびに、仕入れ先からの証明書や運送業者の請求書を提示されたらしい」
レオン様は書類を指さした。
「君のお父上が見せてくださったものだ。数字の計算自体は合っている」
私は書類に目を通した。
確かに、原料価格も輸送費も、添付された証明書と一致している。
「でしたら、ベルク商会も本当に高い値段で仕入れているのでは?」
「その可能性もある。だから、まだ不正だと決めつけるつもりはないよ」
レオン様は慎重だった。
「ただ、同じ羊毛を扱う商会同士で、ここまで価格が違う理由は知りたい」
私はもう一度、書類を見た。
ベルク商会。
父の代になってから二十年以上、取引を続けてきた相手だ。
父は商会の主人を信用していた。
私も幼い頃から、何度も顔を合わせている。
「ベルク商会が、私たちを騙しているということでしょうか」
「まだわからない。だが、調べる価値はあると思う」
私は書類を見つめた。
そして、ふと昔のことを思い出した。
「……あれ?」
「どうした?」
「ベルク商会は、他の織物工房にも羊毛を卸していますよね?」
「そうだね」
「その中に、隣の領地の工房があるはずです」
私は少し考えた。
「以前、そこの職人さんが我が家の工房に来たことがありました。技術交流のためです」
「それで?」
「そのとき、羊毛の仕入れ価格について話していたんです」
レオン様が身を乗り出した。
「何と言っていた?」
「確か……北方の街道が荒れているのに、ベルク商会は価格をほとんど変えていない、と」
私は記憶をたどった。
「あのときは、長年の取引だから特別に安くしてもらっているのだろうと思っていました。でも……」
「同じ商会から、同じ羊毛を仕入れているのに?」
「はい」
私たちの家には三倍近い価格を請求し、別の工房には従来とほとんど変わらない価格で販売している。
もちろん、取引条件によって価格が違うことはある。
けれど、ここまで大きな差があるのは不自然だった。
「エリシア。その工房の名前は覚えている?」
「はい。隣領のハイン工房です」
「よし。確認してみよう」
レオン様は立ち上がった。
「私も一緒に行っていいかな?」
「もちろんです!」
私は大きく頷いた。
今まで、家の負債はどうにもならないものだと思っていた。
けれど、もし私たちが知らない事情があるのなら。
まだ、できることがある。
◇
ハイン工房で話を聞くと、疑惑はさらに深まった。
「ええ。うちはベルク商会から、以前とほとんど変わらない値段で羊毛を仕入れていますよ」
工房の主人は、そう答えた。
「多少は値上がりしましたが、街道の護衛費が増えた程度です」
私は思わずレオン様を見た。
彼も真剣な表情になっている。
「同じ種類の羊毛でしょうか?」
「もちろんです。こちらが仕入れの記録になります」
見せてもらった帳簿には、羊毛の種類、数量、価格が記されていた。
我が家の帳簿と比べると、価格の差は歴然だった。
「……こんなに違うなんて」
私は呟いた。
レオン様は工房の主人に礼を言い、記録の写しを取らせてもらった。
その日の夕方、私たちは実家に戻った。
父に記録を見せると、顔色が変わった。
「馬鹿な……。ベルクは、仕入れ価格が高騰していると……」
「お父様。ハイン工房では、ほとんど値上がりしていないそうです」
「同じ羊毛なのか?」
「はい。種類も品質も確認しました」
父は書類を手に取り、何度も見比べた。
「……おかしい」
「ベルク商会に確認しましょう」
レオン様の提案に、父は頷いた。
「そうするしかあるまい」
翌日、ベルク商会の主人が屋敷に呼ばれた。
私は父の隣に座り、レオン様も同席した。
商会の主人は、いつものように愛想よく挨拶した。
「これはこれは、皆様お揃いで。何かございましたかな?」
父は二つの帳簿を机に置いた。
「ベルク。原料の価格について、確認したいことがある」
「はい?」
「我が家への請求額と、ハイン工房への販売価格が大きく違っている」
商会の主人は、一瞬だけ口を閉じた。
しかし、すぐに笑顔を取り戻した。
「それは取引条件の違いでございます」
「どのような違いだ?」
「仕入れ時期や輸送経路など、さまざまな事情がございますので」
「では、その違いを説明してほしい」
「もちろんです。ただ、詳しい資料を確認する必要がございます」
レオン様が静かに言った。
「君の商会が提出した仕入れ証明書には、北方の羊毛市場での購入価格が記されている。ハイン工房向けの羊毛も、同じ市場で仕入れているのかな?」
商会の主人は、初めてレオン様を正面から見た。
「失礼ですが、あなた様は?」
「エリシアの婚約者、レオンです」
「これは侯爵家のご子息でしたか。お噂はかねがね」
「ありがとう。それで、質問の答えは?」
「……仕入れ先は複数ございますので」
「なるほど。では、それぞれの仕入れ先を確認させてもらおう」
商会の主人は、わずかに表情を強張らせた。
「それは商売上の秘密でございます」
「そうか」
レオン様はあっさり頷いた。
「それなら、無理に見せてもらう必要はないね」
商会の主人は、ほっとしたようだった。
けれど、次の言葉で顔色が変わった。
「ただし、契約で定められた原価の確認ができない以上、今後の支払いは保留にすることになる」
父も頷いた。
「納得できる説明があるまで、新たな発注も控えよう」
「お待ちください! それでは当商会の資金繰りに支障が!」
「こちらも、これ以上の損失は出せない」
父の声は厳しかった。
商会の主人は、何か言いかけて口を閉じた。
そして、ようやく笑顔を消した。
「……承知いたしました」
その日は、それ以上の話にはならなかった。
けれど、私は気づいていた。
帰り際の商会の主人が、父ではなくレオン様を何度も気にしていたことに。
◇
それから三日後。
レオン様が、思いがけない知らせを持ってきた。
「エリシア。どうやら、単なる不当請求では済まないようだ」
「どういうことですか?」
「ベルク商会が、君の家の借金に関わっている可能性がある」
私は首を傾げた。
「借金、ですか?」
「君のお父上が融資を受けた貸金業者について調べたんだ」
レオン様は一枚の書類を差し出した。
「その業者の出資者に、ベルク商会の関係者がいる」
「えっ?」
「つまり、ベルク商会は君の家に高額な原料を売りつけながら、その支払いのために借金をする相手まで用意していた可能性がある」
私は背筋が冷たくなった。
「そんな……」
「しかも、借金の担保には工房と領地の一部が指定されている」
それは知っていた。
父は、工房を守るために必死だった。
返済できる見込みがあると判断したからこそ、担保を差し出したのだ。
「まさか……最初から、工房を奪うつもりで?」
「その疑いがある」
レオン様の声は低かった。
「もしそうなら、これは単なる商取引の問題じゃない」
私は書類を握りしめた。
二十年以上の付き合い。
父が信じていた相手。
その信用を利用して、我が家を破産させようとしていたのだとしたら。
「……許せません」
思わず言葉が漏れた。
父は領民たちの仕事を守ろうと、必死に借金をしていた。
母は家計を切り詰め、職人たちは仕事が減っても工房を離れずにいてくれた。
みんなが苦労していたのに。
「エリシア」
レオン様が私の名前を呼んだ。
「ここからは、君の力が必要だ」
「私の、ですか?」
「君は工房の仕事をよく知っている。どの時期にどんな原料が必要だったのか、職人たちから確認できるだろう?」
「はい」
「私は商会側の取引記録を調べる。君には、工房の実際の仕入れ状況をまとめてほしい」
私は大きく頷いた。
「お任せください!」
それから私たちは、役割を分けて調査を進めた。
私は工房の倉庫番や職人たちから話を聞き、納品記録を整理した。
レオン様は商人たちに確認を取り、仕入れ価格と輸送費の資料を集めた。
父も契約書と過去の支払い記録を確認した。
調べれば調べるほど、請求額の不自然さが明らかになっていった。
そして、決定的な証拠が見つかった。
ベルク商会が我が家に提出していた仕入れ証明書と、実際の羊毛市場の取引記録が一致していなかったのだ。
「……偽造されていたのですね」
私は書類を見つめた。
「そういうことになる」
レオン様は頷いた。
「しかも、運送業者の請求書にも同じような不自然さがある。複数の業者が関わっている可能性が高い」
「では、どうすれば……」
「王国に調査を求めよう」
私は顔を上げた。
「王国に?」
「一介の商会が、計画的に貴族家を破産させ、その財産を奪おうとしている。事実なら、国が見過ごす問題ではないよ」
レオン様は静かに続けた。
「君のお父上も、正式な告発の準備を進めている」
私は深く息を吸った。
怖くないと言えば、嘘になる。
けれど、もう一人で抱え込む必要はない。
「私も、できることをします」
レオン様は微笑んだ。
「ありがとう。二人で最後までやり遂げよう」
◇
王国の騎士団がベルク商会の本店に踏み込んだのは、それから七日後のことだった。
騎士団は商会の帳簿や契約書を押収し、関係者の取り調べを始めた。
その結果、驚くべき事実が次々と明らかになった。
ベルク商会は、我が家を破産させるために、半年以上前から計画を進めていたのだ。
北方の街道が荒れたことを利用し、原料価格と輸送費を大幅に水増しした。
仕入れ証明書は偽造され、運送業者の一部も不正に加担していた。
さらに、ベルク商会の関係者が出資する貸金業者を通じて、我が家に多額の借金を負わせていた。
最終的な目的は、借金の返済ができなくなった我が家から、工房と領地の一部を奪うことだった。
父が何度も価格の確認を求めても、正規の書類に見える証明書が提出されていた。
帳簿の数字も、計算も、すべて合っていた。
ただし、その計算の元になる数字そのものが、偽物だったのだ。
「……お父様が気づけなかったのも、無理はありません」
私は報告書を読みながら呟いた。
レオン様が頷いた。
「君のお父上は、できる限りの確認をしていた。だからこそ、ベルク商会も大掛かりな偽装をする必要があったんだろう」
騎士団の調査は、さらに広がった。
ベルク商会の主人だけでなく、妻や成人した息子も、偽造書類の作成や資金移動に関与していたことが判明した。
貸金業者の責任者や、協力していた運送業者の一部も逮捕された。
そして、王国による裁きが下された。
ベルク商会は解散を命じられ、全財産を没収された。
没収された財産は、被害を受けた我が家への補填に優先して充てられた。
詐欺に加担していたベルクの妻と息子は、鉱山での強制労働を命じられた。
首謀者のベルク本人は、厳しい取り調べが続く中、獄中で命を落としたという。
二十年以上かけて築いた信用を悪用し、他人の家を奪おうとした男は、最後には自分の家も商会も、何もかも失ったのだった。
◇
一か月後。
実家の借金はすべて清算され、工房にも以前の活気が戻っていた。
「本当にありがとうございました、レオン様」
「二人で解決したことだろう?」
彼は笑って、私の手を取った。
「それで、婚約解消の話はどうなったのかな?」
「……撤回させてください」
私は彼の手を握り返した。
「私、レオン様と結婚したいです」
「それは嬉しいな。私たちはもともと結婚する予定だったけれど」
「もう! 真面目に言っているんです!」
彼が笑い、私もつられて笑ってしまった。
「では、私からも改めて。エリシア、私と結婚してください」
「はい。喜んで!」
一か月前、私は彼を守るために、その手を離そうとした。
でも、もう離さない。
これからは、困ったことも喜びも、二人で分け合っていこう。
私たちは手を繋いだまま、幸せな結婚式の相談を始めた。




