35歳、離婚届を出した日に、人生の分岐点が見えるようになった
離婚届を出した帰り道、信号待ちの交差点が光った。
右折すれば家、左折すれば駅。二十年前、ここで右に曲がったから、俺は妻と出会った。
光る交差点に触れた瞬間——左に曲がった世界が、見えた。
三月の風は冷たかった。区役所の自動ドアを出たとき、葉山修一は自分が何も感じていないことに気がついた。悲しくもなく、悔しくもなく、ただ胸の中が空っぽだった。三十五年かけて積み上げてきたものが、A4一枚の紙で終わった。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。元妻の律子からだ。
『届出、ありがとう。結衣が会いたがってるから、来週の日曜、よかったら』
来週の日曜。五歳の娘に会える日が、他人との約束になった。了解、と打って送信した。それだけのことに指が震えた。
帰路についたとき、あの交差点に差しかかった。藤見台三丁目。信号が赤で、修一は立ち止まった。
足元が、光った。
比喩ではない。アスファルトの上に、淡い金色の光が走っている。右と左に枝分かれするように、二本の光の筋が伸びていた。右は自宅マンションへの道。左は駅への道。
疲れているのだと思った。ここ数週間ろくに眠れていない。光は幻覚だ。そう自分に言い聞かせながら、ふと左の光に手を伸ばした。
触れた瞬間、世界が裂けた。
修一は駅のホームに立っていた。十五歳の制服を着て、学生鞄を提げている。隣には同じ制服の友人がいて、「修一、お前マジで理系にすんの?」と聞いてきた。修一は自分の口が動くのを感じた。「いや、やっぱ文転する」。友人が笑った。「だよな、お前文系の方が向いてるって」。
場面が飛んだ。大学の研究室。壁一面に貼られた論文のコピー。修一は——いや、「別の修一」は、白衣を着てモニターに向かっていた。認知科学の准教授。三十五歳。独身。学会で名の知れた研究者。
三分間だった。
気がつくと修一は元の交差点に立っていた。信号は青に変わっていて、後ろからクラクションが鳴った。慌てて歩道に戻る。
心臓が暴れていた。
今のは何だ。夢にしてはあまりに鮮明で、幻覚にしては筋が通りすぎている。左に曲がった世界。文系に進んだ自分。十五歳の分岐点で別の選択をした、もうひとつの人生。
見えた世界の中で、別の修一は笑っていた。
一週間で、修一は四つの分岐を見た。
最初は恐る恐るだった。翌朝、通勤路のT字路が光っているのに気づいた。二十二歳のとき、第一志望の企業に落ちて、中小のSIerに入った分岐点。光に触れると、大手メーカーの開発部門で働く自分が見えた。タワーマンションに住み、週末はゴルフ。肩書きは部長。三十五歳。独身。
次は、二十七歳の転職の分岐。辞めずに残っていれば、先輩の立ち上げたスタートアップに誘われ、今頃はCTOだ。ストックオプションで資産は数億。三十五歳。独身。
そして三十歳、律子にプロポーズした夜の分岐。しなかった世界では、修一はシリコンバレーにいた。現地の企業にスカウトされ、英語で会議をし、休日はビーチを走っていた。三十五歳。独身。
どの世界でも、別の修一は今の修一より遥かに成功していた。そしてどの世界にも、結衣はいなかった。
四つ目の分岐を見終えたあと、異変に気づいた。
歯を磨きながら鏡を見ていたときだ。自分の部屋のはずなのに、洗面台の配置に違和感がある。右に置いてあったコップが——いや、コップは右だったか、左だったか。そもそもこのコップはいつ買った?
記憶が、薄い。
自分の部屋なのに、ところどころモザイクがかかったように曖昧になっている。キッチンの棚の中身が思い出せない。先月食べた夕飯が出てこない。去年の誕生日に何をしたか——。
代わりに、別の世界の記憶が鮮明にある。准教授の修一が食べていた学食のカツカレー。部長の修一が通っていたゴルフ練習場の人工芝の匂い。CTOの修一が飲んでいたクラフトビールの銘柄。
今の人生が、消えかけている。
それでも、修一は分岐を見ることをやめられなかった。
理由は単純だ。別の世界の自分は、例外なく今の自分より幸せそうだった。分岐を見るたびに、今の人生がいかに間違いだらけだったかを突きつけられる。選択を誤り続けた三十五年。その果てが、空っぽのワンルームと、月に一度の面会権。
五つ目の分岐を見た。六つ目。七つ目。
記憶の欠落は加速した。会社の同僚の名前が出てこなくなった。自分が手がけたプロジェクトの内容が曖昧になった。毎朝乗る電車の路線を一瞬忘れかけた。
ある夜、風呂上がりにスマートフォンを見ていて、ロック画面の写真に目が止まった。公園で笑っている女の子。ピンクのワンピースを着て、ブランコに乗っている。
可愛い子だな、と思った。
次の瞬間、全身の血が凍った。
結衣だ。自分の娘の結衣だ。なのに一瞬、他人の子供だと思った。名前は覚えている。顔も見ればわかる。でも、この子を抱き上げたときの重さも、髪を撫でたときの手触りも、「パパ」と呼ばれたときの胸の震えも——思い出せない。
手が震えた。スマートフォンを握りしめたまま、修一は床に座り込んだ。
何をしているんだ、俺は。
やり直したかったのだ。人生を。選択をひとつひとつ正解に差し替えて、今よりましな場所にたどり着きたかった。でも見れば見るほど今が薄れていく。別の人生を覗くたびに、この人生の記憶と引き換えにしている。
結衣の笑い声が思い出せない。
三歳の誕生日に初めてケーキのロウソクを吹き消したとき、火が怖くて泣いたはずだ。そのあと修一が抱き上げて、一緒にふーっと吹いた。結衣は泣き笑いの顔で、ロウソクの煙を不思議そうに見ていた——はずだ。映像がない。音がない。あの子の体温がもう感じられない。
修一は、声を出して泣いた。空っぽのワンルームで、三十五歳の男がひとりで泣いた。
日曜日が来た。
約束の公園に向かう道すがら、分岐点はいくつも光っていた。歩道の段差、横断歩道の白線、自動販売機の前。二十年分の選択の残像が、街中にちりばめられている。どれに触れても、今より輝かしい人生が三分間だけ味わえる。
修一は一度だけ立ち止まった。公園の手前にある交差点。十年前、律子と初めてデートした日にこの道を歩いた。あのとき映画館ではなくレストランに行っていれば。あるいは、そもそもデートに誘わなければ。光は優しく揺れていて、手を伸ばせばすぐ届く距離にあった。
伸ばしかけた手を、修一は下ろした。
この光に触れれば、結衣のことをもっと忘れる。次に会ったとき、自分の娘を自分の娘だと感じられなくなるかもしれない。それだけは——それだけは嫌だ。
どんなに正解のルートがあったとしても、結衣のいない世界は全部間違いだ。あの子の存在だけが、この人生で唯一、取り返しがつかないほど正しいものだ。
修一は光から目を逸らして、公園の門をくぐった。
砂場の横のベンチに律子が座っていた。結衣はブランコにいた。ピンクではなく水色のジャケットを着ていた。冬の終わりの、やわらかい日差しを浴びて、小さな足で地面を蹴っている。
「結衣」
声が震えた。
結衣がブランコから飛び降りた。コートの裾がふわりと広がって、砂利の上に着地した。一瞬バランスを崩しかけて、両手を広げて持ちこたえた。そしてこちらを見た。
「パパ!」
走ってきた。短い足で、全力で。修一はしゃがんで両腕を開いた。小さな体がぶつかってきた。冷たい頬。シャンプーの匂い。コートの下の、子供特有の柔らかな体温。
全部、戻ってきた。
この重さだ。この体温だ。髪を撫でると指に絡まる細い毛の感触。「パパ」と呼ぶ声の、少し鼻にかかった甲高い響き。三歳の誕生日のロウソク。火が怖くて泣いた顔。一緒に吹き消したあとの、涙で濡れた笑顔。
修一は結衣を抱きしめたまま、目を閉じた。
いくつもの分岐が見えた。ではなく——見えていたものが、消えていった。
街のあちこちで光っていた金色の筋が、ひとつずつ静かに消えていく。交差点の光。歩道の光。自動販売機の前の光。十年分、二十年分の「あり得た人生」が、順番に暗くなっていく。
最後に消えたのは、あの藤見台三丁目の交差点だった。右折すれば家、左折すれば駅。二十年前にそこで右に曲がったから、律子と出会い、結衣が生まれた。光はもう見えない。分岐は閉じた。
後悔は消えていない。離婚は失敗だったかもしれない。もっとうまくやれたかもしれない。十五歳の進路も、二十二歳の就活も、二十七歳の転職も、全部もっといい選択があったかもしれない。
でも。
「パパ、今日ね、ようちえんでね」
結衣が顔を上げた。鼻の頭が赤い。目が笑っている。修一と同じ、少し垂れた目。
「おいもほったの!」
「そうか」
修一は笑った。泣きながら笑った。
「でっかいの採れた?」
「うん! こーんなおっきいの!」
結衣が両手をいっぱいに広げた。小さな手のひらが冬の空気の中で震えていた。修一はその手を取って、自分の手で包んだ。
「すげえな。今度パパにも見せてよ」
「いいよ! でもね、もうたべちゃった」
「食べたのかよ」
結衣がけらけら笑った。その笑い声が冬の公園に響いて、空に溶けていった。
やり直したい過去は、たぶん、やり直さないことで初めて意味を持つのだと思う。選び損ねた道の先にどんな景色があったとしても、この手の中の温もりは、この道でしか出会えなかった。
間違いだらけの三十五年は、結衣へ続く一本道だった。
修一は立ち上がって、結衣と手を繋いだ。小さな手が、修一の指をぎゅっと握った。
ベンチの律子が小さく手を振った。修一は軽く頭を下げた。それだけでよかった。今はまだ、それだけでいい。
公園を出ると、空がよく晴れていた。光る分岐点はもうどこにもなかった。ただ三月の風が吹いていて、結衣の髪が揺れていて、繋いだ手があたたかかった。
帰り道、結衣が言った。
「パパ、しんごう、あおだよ」
藤見台三丁目の交差点。修一は右に曲がった。二十年前と同じように。今度は迷わなかった。




