にわか令嬢は公式設定を知らない
入学式の最中に、私は世界の真実に気がついた。
壇上に立つ新入生代表の王太子殿下――その顔を見た瞬間、前世でSNSのおすすめ欄に流れ続けた二次創作の山が、脳内でザバッと蘇ったのだ。
愛され総受け王子じゃん……。
いた。いる。3Dにするとやっぱりこの顔してるんだ、神絵師はまじで凄い。
沸き立つ興奮をどうにか沈めようとしたが、無理だった。私は立ったまま目を見開き、じっと壇上を凝視し続けた。
その結果、厳粛なスピーチの途中で王太子殿下と一瞬だけ目が合った。
殿下の視線が「……?」という形で少し止まったのを確かに感じたが、私はそれどころではなかった。
これは、前世で散々見た女性向けスマホゲーム――確か「ノワクロ」とか呼ばれてたやつ――の世界だ。間違いない。多分。おそらく。
……と言っても、私は友達と一緒に流れてくる二次創作を眺めていただけの「にわか」で、原作ゲームの方はチュートリアルでやめてしまったんだけど。
私はそこから式典が終わるまでの三十分、ほぼ別の次元にいた。
***
「ノア! ちょっとこっちにきて! 話があるの!」
式典が終わった瞬間、私は人気のない廊下の隅にノアを引き込んだ。
彼は私の専属執事であり、護衛として学園にも同行している。艶のある黒髪に、知的な銀縁メガネ。クールで整った顔立ちの彼は、今日も学園の制服をシワ一つなくきっちりと着こなしていた。
ノアはその制服の袖を私に引っ張られながら、メガネの奥にある冷徹そうなグレーの瞳を少しだけ細めてついてきた。私が時々こういうことをするのを、もう知っているからだ。
「またいつもの発作ですか」
「発作じゃない! 聞いて! ここ前世で流行ってたゲームの世界かも!」
「……はあ」
ノアは一応は前世の話を知っている。……どこまで信じているかはかなり怪しいが。
「でも私、にわかだから全然覚えてないんだけどさ。あの入学式にいたじゃない! 例の総受け王子が!」
興奮冷めやらぬまま、私は身振りを交えて力説する。
「……総受け、とは?」
「ええと、周りのイケメン全員からチヤホヤされてて、誰とくっついても女の子役になっちゃう男の子のこと! 友達も『あの子は絶対右側だから!』って言ってたし!」
「……なるほど。しかしお嬢様、そのあまりにも独特な世界観の知識はどこで」
「違うの! 私の趣味とかじゃなくて! 友達がそういうのが大好きな生粋のフジョシで、いつも隣で熱く語ってたのを聞かされてただけで! 私自身はただのにわかだから! ……って、今は用語解説はどうでもよくて!」
必死の形相で身の潔白を主張しつつ、聞きかじった知識を早口でまくし立ててから、私は強引に話を戻す。
「あれだよあれ! 確か名前は……テオドール? テオドア? なんかそういう感じの!」
「……王太子殿下は、セオドア様ですね」
私の熱弁など一切聞こえなかったかのように、呆れた様子でノアがため息混じりに答える。
「そう! それ! 知ってたならはやく教えてよ!」
「教えたところで、お嬢様がこのようにお一人で騒がれるだけかと思いまして」
涼しい顔で言い放つ彼にむっとしつつも、私はさらに記憶を探る。
「あとほら、入学式のちょっと手前にウェーブがかった長めの茶髪の先輩もいたじゃない。あれも見覚えあるの。なんか裏ではいろいろしてる感じのあやしい……あやしい系の人」
「……あやしい系、ですか」
ノアの冷ややかな復唱を無視して、私はぽんと手を打った。
「顔がよかったから覚えてるんだよね。なんかお菓子作りが好きで、面倒見が良くて……そうそう、夢女子の友達がガチ恋してた『オカン枠』の先輩、とかそんな感じの人!」
「……カイル先輩ですね。二年生です。軟派で有名ですが、あやしい系ではなく一般的な学生ですよ。お嬢様、情報がいろいろと歪んでいませんか?」
「だって、細かい設定なんて全然覚えてないんだもん!」
ノアがこめかみを押さえるのを、私は気にしないことにした。
「とにかく! 私が言いたいのはそういうことで! 要するにここ、ゲームの世界なの!」
「だとして、お嬢様に何か影響があるのですか? お父様とは、決して学園で危険なことには関わらないとお約束されたはずですが」
ノアの冷ややかな言葉に、私は胸を張った。
「そこのところは大丈夫! 私、前世でこのゲームの二次創作いっぱい読んだけど、私やノアみたいなキャラは一回も出てこなかったもの! 多分私たちは原作にすらいない、ただの『名もなきモブ』ってやつなんだと思う!」
「名もなきモブ?」
「背景に溶け込んでる影が薄いやつのことだよ! 主人公でも悪役でもない! 何か起きても当事者にならない安全な立場!」
「……影が薄い。私とお嬢様が、ですか?」
明らかに心外だというようにノアの片眉がぴくりと動いたが、私は構わず続ける。
「そう! それに……いざとなったら、いつもみたいにノアが守ってくれるでしょ?」
私がえへへと笑いかけると、ノアは不満げだった表情をふっと緩め、どこかまんざらでもない様子で小さく息をついた。
「……ええ、もちろんお守りしますが。お嬢様が自らトラブルに突っ込んでいかない保証がありませんので」
「失礼な! 突っ込まないよ!」
私が胸を張って言い返して歩き出すと、ノアは何か言いかけた気がしたが、特に気にしなかった。
***
それからが大変だった。
学園生活が始まると、私は各所でゲームキャラと思しき人物を次々と発見し、その都度ノアに報告した。
赤髪で三白眼の騎士っぽい同級生。
「ノア! いたいた! たしかワンコ騎士の子だと思う! いや忠犬っていうか、えっと、王子に絶対の忠誠を誓う系の!」
「忠誠を誓う騎士なら半数の生徒がそうでは」
「違う違う、この子はもっとこう……狂犬ベースのかわいいやつ! 普段は『触るな殺すぞ』みたいなオーラ出してるのに、王子の前でだけ幻の犬耳と尻尾が見えるって、友達が言ってたから間違いない!」
「現実的にはあの鋭い目つきの生徒さんに大型犬の要素は見当たりませんが。というか、幻の犬耳とは」
「でも神絵師が描いてたし!! 『王子の命とあらば(クソデカ感情)』ってキャプション付きで!」
「……神絵師とは一体」
王太子殿下のことも報告した。
「廊下で殿下とすれ違ったんだけど、やっぱり疲れてそうな顔してて……いや顔は整ってるんだけど目が死んでた」
「それは不敬な情報の届け方では」
「いや事実として。ねえノア、なんか原作では殿下すごく苦労してたって聞いたことあるんだけど」
「少々お待ちを。どんな苦労を?」
「んーでも全然覚えてない、なんか友達がわーわー言ってた。たしか……暗殺? とかそういう? 毎日毒盛られてるとか、腹違いの兄弟に命狙われてるとか……いや、違ったかな。逆に殿下が裏でこっそり誰かを暗殺しまくってるんだっけ……?」
「随分と高低差の激しい情報ですね。……しかし、暗殺、ですか」
「うん、なんか『不憫枠』みたいなタグがよく付いてた気がする! とりあえず胃薬飲ませてあげたい系のやつ!」
「…………なるほど。他には?」
「あれ? 裏で暗躍してるのはお菓子作りの先輩だっけ……? それともメガネの先生? やばい、二次創作のパロディ設定と混ざってるかも! ええと、まあ誰かしらやばいヤツが潜んでるってことだよ!」
「…………」
「ノア?」
「いいえ。なんでもございません」
ノアの方が私の何十倍もゲームの世界事情を把握していることに、この時の私は気づいていなかった。
***
一ヶ月ほど経ったある昼。
ノア手製のサンドイッチを食べながら、私はしみじみと中庭を眺めた。
「しかしほんとに平和だよね。鬱ゲーって聞いてたのに、毎日が学園祭みたい」
「さようですか。私としては、お嬢様の周囲が少々騒がしすぎるように思えますが」
「だって聞いてよ! 今日もワンコ騎士のヴォルフくんが、私が重い資料を抱えてるのを見て『お前は危なっかしいんだよ』ってひょいっと運んでくれたし!」
私は興奮気味に、本日の遭遇イベントを報告する。
「しかも顔を真っ赤にして『別に心配したわけじゃねえ!』とか言いながら走ってっちゃったの。ツンデレ枠ってやつだよね!」
「……お嬢様に安易に近づき、あまつさえ大声を上げて去っていくなど、配慮に欠けた不届き者です」
「そういう物騒なこと言わないでよ!」
私が慌てて咎めるのも聞かず、ノアはわかりやすく不機嫌そうな顔をした。
「さらに総受け王子のセオドア殿下だって、廊下で会うたびにわざわざ立ち止まって優しく声をかけてくれるんだよ! こないだなんて『君と話していると、どうしてこんなにも心が安らぐのだろう。ずっとこうしていたい』って、あの憂いのある儚げな笑顔で見つめられちゃった! さすが総受け、母性本能くすぐるのがうますぎる!」
「……王太子殿下とはいえ、お嬢様にそのような言葉を軽々しく吐くのはいかがなものかと」
「それだけじゃないよ! 昨日なんて、お菓子作りのカイル先輩に『君の瞳と同じ色だ。今の君より甘いかはわからないけどね』って手作りのマカロンを手渡されて! ついでに頭ポンポンまでしてくれて、もう完全にイベントスチルだったよ! 乙女ゲーじゃないのに!」
鼻息荒く語る私に、ノアはますます声を低くした。
「…………そのマカロンは、まさかお召し上がりになったのですか?」
「うん! ノアの次くらいに美味しかったよ!」
「……そうですか。得体の知れない者の手作りなど、何が混入しているかわからないというのに。今後は私がいくらでも美味しいものをお作りしますから」
「もう、ノアってば心配性すぎ! みんな名もなきモブの私にもすっごく優しいんだから」
私は呆れたように笑ってサンドイッチを頬張った。
「友達は血みどろの展開があるとか言ってたけど、全然そんな気配しないよね。最近じゃ別のクラスの男の子たちまでやたらと声かけてくれるし!」
「……お嬢様。彼らは決して『名もなきモブに優しい』わけではありません。良からぬ下心を持った不審者と呼ぶべきです。もう少しご自身の立場の危うさを警戒していただきたいのですが――」
「だからね、私、ここ最近の平和な出来事からひとつの結論を導き出したの」
私はノアの小言を堂々と遮り、持っていたサンドイッチを空高く掲げた。
「やっぱりこれ、二次創作の平和な『学園パロディ』の世界線なんだよ! 原作の殺伐とした世界じゃなくて、オタクたちが推しキャラに幸せになってほしいって積み重ねた愛が、この平和な世界を生み出したんだよ、絶対に!」
「全く話を聞いていらっしゃいませんね……。まあよくわかりませんが、平和ならそれで結構なのでは。有象無象はともかく、私がお嬢様の『平和』をお守りしますので」
「ラスボスも見かけないしね。学パロだと出てこないのかも」
「……ラスボス」
ノアが短く呟いた。
普段は『学園パロディ』などという私の突拍子もない言葉に興味を示さない彼だが、その声のトーンがほんの少し変わった気がした。気のせいかもしれないけれど。
「ラスボスとは、どのような人物なのですか」
「えっ、ノアがそういうのに興味持つの珍しいね! 気になる?」
ウキウキと尋ねると、ノアはいつもの涼しい顔で「いえ、今後の危機管理の参考程度に」と答えた。
「んーとね……なんかこう、世界の闇を一人で背負ってる感じのやばキャラなんだよね。国中の人間を操ったり、笑いながら大虐殺とかしでかすヤバい奴らしいよ」
私はサンドイッチを飲み込んで、記憶の底を掘り起こす。
「国家規模の洗脳に、大虐殺……。なるほど、それは確かに極めて危険な存在ですね。ちなみに、それほどの凶人の外見的特徴は?」
「めちゃくちゃセクシーな見た目の人で、胸元がばっくり開いてるの!」
「……は? 胸元が?」
「そう! なんか露出度高めのヤバい服着てて!」
「……なぜそのような奇抜で悪趣味な格好を? 全く理解できませんが、私が個人的に最も嫌忌する類のタイプですね」
ノアは心底嫌そうに眉根を寄せた。
「ええと、他にはたしか……黒髪で、目は赤くて」
「……黒髪に、赤い目」
「そうそう。普段は隠してるらしいんだけどね。魔眼? とかいう特殊な能力を持ってるって話で」
「……ほう。魔眼」
気のせいだろうか。ノアの相槌が、なんだか探るような、ひどく真剣なものに変わった気がする。
「黒髪はノアと一緒だね! あとは全然違うけど!」
「……他には、どのような情報が?」
「ええとね、たしか……地下にある秘密の研究所? みたいなところで、ずっと非人道的な実験をされてたとか、なんとか……」
「…………地下の、研究所」
ノアの声が、すっと温度を失った。
「そう! そのヤバさと顔の良さと、生い立ちの悲惨さが全部乗っかって大人気だったの。オタクの友達がずっと尊い尊いって泣いてたから!」
彼の手がぴたりと止まる。いつも完璧に整頓されているノアの感情が、ほんの一瞬だけひび割れたかのように、信じられないものを見る目で私を凝視した。
まるで、絶対に暴かれたくない過去でも掘り起こされたかのような。
「え、ノア? どうしたの?」
「……いえ。生い立ちの悲惨さ、ですか。それは例えば……誰にも知られない路地裏で泥にまみれ、生き倒れていたような?」
「あ、それ! 多分それ! 泥まみれの過去があって心がすさんでるんだって友達が熱弁してた気がする!」
「…………」
私の言葉に、ノアはなぜか絶句して視線を逸らした。
なんのスイッチが入ってしまったのかは分からないが、私は構わず話を続ける。
「すごい強くて厄介な敵らしいんだけど……とにかく見た目がカッコよくて! ビジュだけなら一番好きかも! ねえ、ノアもやっぱりそういうの憧れちゃう? なんかさっきから興味津々じゃん」
「……いいえ、断じて」
絞り出すようなノアの声を、私は「やっぱりノアもちょっと中二病的なカッコよさに惹かれてるんだ!」と前向きに解釈した。
――当然だが、ノアは惹かれているわけではない。
誰にも語り継がれていないはずの、あの日。路地裏で泥にまみれ、世界のすべてを呪いながら死にかけていたあの日。目の前のお嬢様がその小さな手で引き上げてくれなければ、自分が行き着いていたであろう狂気と絶望の姿。
ノアは内心で愕然としていた。彼女は自分が、一体どんな化け物を拾い上げてしまったのか――自分ですら想像したくもない恐ろしくもおぞましい世界線の自らを、なぜそんなにポップに語っているのか。
「なんか今までよりも興味ありそうだし、もっと教えてあげる! えっとね、あの人確か『攻め属性』だった! 友達が絶対右にはいかないって言ってた!」
「…………」
「あと、胸元開けてて露出が多いのが特徴だからか、『露出狂』ってあだ名もついてた気がする!」
「…………」
ノアはこめかみを強く押さえ、深く、深く息を吸った。
「……お嬢様。ひとつ確認させてください。その、露出狂というのは」
「え? だから胸元ばっくり開けてるやつのことでしょ?」
「……なるほど。随分と、独自の解釈が広まっているのですね」
「なんかその辺のネットの評判ごっちゃになってるかもしれないけど、そんな感じの人! SNSではめちゃくちゃ人気あったよ」
ノアはしばらく無言だった。
その沈黙が少し長いな、とは思ったが、私はもうサンドイッチの続きに意識を向けていた。
「……ラスボスは学園にはいないのでしょうか」
「学パロだからいないんじゃない? まあいたとしても、私みたいなモブには関係ないし!」
「…………」
「ノア? どうかした?」
「いえ」
ノアは短く答えると、すっと手を伸ばしてきた。私の口元についたパンくずを、いつの間にか手袋を外した素手の指先が、そっと拭い取っていく。
「お嬢様が望むのなら、この世界は永遠に『平和な学園パロディ』のままでありましょう」
至近距離で囁かれた声は、いつもの冷静な執事のものより、ずっと低くて甘かった。
「え、ノア今なんて?」
「ただの独り言です。さあ、午後の授業が始まりますよ」
すっかり機嫌を直したらしいノアの背中を見つめながら、私はこれから始まる平和な学園生活に胸を躍らせていた。
この先、ここが『学パロ』などでは決してないことも。
公式を愛してやまない、原作厨の『プレイヤー』が現れることも。
そして何より――うちの有能すぎる執事がメガネをそっと押し上げ、一瞬だけその瞳を赤く光らせていたことも。
ただの『名もなきモブ』でにわかの私が気づくはずもなかった。




