アンヌの策略3
不穏な空気のまま、授業は再開した。
アンヌは、ステファーヌがなおもエリーズを庇おうとする姿勢に、奥歯を噛みしめた。
それだけではない。
先ほどのやり取りで、エリーズの正論によって“恥をかかされた”という事実が、彼女の胸を焼いていた。
――許せない。
その感情は、次第に形を変え、鋭い牙となってエリーズへ向けられていく。
アンヌは、計算高い女だった。
エリーズがこのまま授業を欠席するはずがないことも。
今日の授業が、社交ダンスであることも。
そして――人気者のステファーヌが、最終的にはエリーズを選ぶであろうことも。
すべて、分かっていた。
だが同時に、確信していることがあった。
最近のエリーズには、悪評が纏わりついている。
今や、彼女を進んで誘おうとする者は、ほとんどいない。
「さあ。相手を組んだ者から、ホール中央で待ちなさい」
女性教諭の指示と同時に、男女が次々とペアを組み始める。
アンヌは迷いなく、ステファーヌの元へ歩み寄った。
「ステファーヌ様。わたくしと、ペアを組んでくださいませんか?」
「……いや、俺は――」
断ろうとした、その瞬間。
「まだ……先程のことで、お怒りでしょうか?」
アンヌは一歩踏み込み、勢いよく距離を詰めた。
「怒られても誘うなんて、図太いと思われますよね……ですが、それでも……」
眉尻を下げ、両手で胸元を押さえる。
小さく震える身体。
「わたくしは、ステファーヌ様と踊りたいのです」
その姿に、周囲がざわめいた。
「ステファーヌ、踊ってやれよ」
「アンヌ嬢、さっきあんなことがあったのに勇気出してるんだぞ」
健気さを“正義”にした声が、彼を追い詰める。
「……いや。だから俺は、エリーと――」
そう言いながら、ステファーヌはエリーズの方を見た。
――その瞬間。
既に、一人の男子生徒がエリーズの前に立っていた。
「エリーズ嬢。もしよろしければ……ご一緒に踊っていただけませんか?」
思いがけない光景に、ステファーヌは言葉を失う。
エリーズは、目の前に差し出された手を見つめ、わずかに困惑した表情を浮かべている。
誘ってきたのは、男爵家の生徒だった。
これまで言葉を交わしたこともなければ、特別に関わりがあったわけでもない。
――なぜ、自分を。
エリーズ自身、自分の置かれている立場を誰よりも理解していた。
今の自分に関われば、周囲から好奇の視線を向けられる。
悪意ある噂に巻き込まれる可能性も、決して低くはない。
「……わたくしは構いませんわ」
エリーズは静かに言った。
「ですが、わたくしと関わることで、貴方が困ることになるかもしれません」
その言葉は、拒絶ではなかった。
相手を思いやるがゆえの、正直な警告だった。
「それは……最近の貴方の状況を仰っているのですか?」
穏やかな問いかけに、エリーズは一瞬、言葉を失った。
自分に関われば、彼まで噂の的になるかもしれない。
陰口を叩かれ、奇異の目で見られるかもしれない。
それを、彼は分かった上で、ここに立っているのだろうか。
エリーズは、ほんの僅かに視線を伏せた。
「……ええ。そうですわ」
男爵家の生徒は、その答えを聞いても、手を引っ込めなかった。
「でしたら、なおさらです」
彼は、少し照れたように――けれど、どこか覚悟を秘めた眼差しで微笑んだ。
「……皆が貴方を避けているのなら」
一拍、間を置く。
「それは、貴方が“選ばれない”という意味ではありません。むしろ、“選ぶ側”に立っているということでしょう」
一瞬、空気が張り詰めた。
エリーズは目を見開き、彼を見つめる。
その言葉が、社交辞令でも、勢い任せでもないことを、すぐに悟った。
彼は肩を竦め、わずかに苦笑する。
「正直に申し上げます。今の状況で、貴方に声をかける者は少ない。だからこそ――ここで手を差し出すことに、意味があると思いました」
打算。
名誉欲。
そして、わずかな反骨心。
それらが入り混じった視線を、彼は隠そうともしなかった。
エリーズは一瞬、瞠目し――次の瞬間、くすりと小さく吹き出した。
「……正直ですのね」
肩の力が、ふっと抜ける。
彼の言葉は、綺麗事ではない。
だが、今の自分に必要なのは、同情でも、遠慮でもなかった。
――誰もが避ける中で、あえて手を差し出す“理由”があること。
それだけで、十分だった。
ステファーヌは、少し離れた場所から、そのやり取りを見ていた。
胸の奥に、名状しがたい感情がじわりと広がっていく。
――なぜだ。
自分が声をかけるよりも先に、誰かが、あんなふうに彼女の前に立つ光景を見ることになるなんて。
エリーズは、しばらく沈黙した後、ゆっくりと彼の差し出した手に、自分の指先を重ねた。
「……覚悟は、よろしいのですね?」
自分と踊ることで、噂に巻き込まれ、好奇の目に晒される可能性を含めて。
「はい」
短く、しかし迷いのない返答。
エリーズは小さく息を吐き、口角を上げた。
「でしたら、お願いいたしますわ」
その光景を、アンヌは少し離れた場所から見つめていた。
胸の奥で、何かが確かに満たされる。
――ふふ。
誰にも気づかれないほど小さく、アンヌはほくそ笑んだ。
「ステファーヌ様……」
名を呼ばれ、茫然としていたステファーヌが、はっと我に返る。
「わたくしと、踊っていただけますか?」
再び差し出された手。
「あ、ああ……」
エリーズを誘いそびれたまま、断る理由も見つからず、ステファーヌは頷いた。
「ありがとうございます! 本当に……とっても嬉しいですわ」
アンヌは両手を合わせ、大袈裟なほどに喜びを表した。
やがて曲が流れ始め、生徒たちは一斉に踊り出す。
しかし――。
ステファーヌの視線は、踊りながらも、なおエリーズを追っていた。
「授業とはいえ……ステファーヌ様と踊れるなんて、夢のようですわ」
頬を染め、恥じらうように囁くアンヌ。
だが、その声は、まるで彼の耳に届いていない。
「……エリーズ様が、そんなに気になりますの?」
「え?」
その名に反応し、ようやくステファーヌがアンヌを見る。
アンヌは、にこやかに微笑んだ。
「あの二人、とても楽しそうですわね。エリーズ様も、気兼ねしていないように見えますわ」
少し間を置き、さらに言葉を重ねる。
「御二人がこれをきっかけに仲良くなられたら……エリーズ様の、ステファーヌ様への“執着”も、なくなるかもしれませんわね」
――柔らかな声。
しかし、その中身は、鋭い棘を孕んでいた。
「エリーズ様の態度、正直……酷いと思っていましたの。酷い言葉を浴びせたり、まるで従者のように扱ったり……」
同情するように、そっと彼に寄り添う。
「わたくし、見ていられませんでしたわ。あんなにお優しいステファーヌ様が……可哀想で」
その瞬間。
アンヌの息が、止まった。
見下ろすステファーヌの瞳は――氷のように冷え切り、鋭く光っていた。
獣に睨まれたかのような、逃げ場のない圧。
ステファーヌは、普段は誰に対しても優しく爽やかだ。
誰にでも分け隔てなく接し、柔らかな笑みを浮かべる――それが彼の顔だった。
だが、エリーズといる時だけは違う。
完璧に整えられた仮面が、まるで当然のように剥がれ落ちる。
彼は、わんこのように忠実で、彼女の一挙一動に一喜一憂し、「ここにいられるだけで幸せだ」と言わんばかりの熱を帯びた眼差しを向けていた。
それを、エリーズが知っているのかどうか。
アンヌには分からない。
だが、アンヌの目には、エリーズは我儘で、放漫。
常に上から目線でステファーヌを扱っているように映っていた。
――あんなふうに、大切にされているのに。
ステファーヌが、可哀想だと思った。
そう思った瞬間、胸の奥に別の感情が芽生えた。
もし、あの熱い眼差しが――
エリーズではなく、自分に向けられたら。
想像するだけで、心臓が高鳴る。
学年一の人気者。
誰もが憧れる、完璧な男性。
そんな彼を、“当然のように隣にいる公爵令嬢”から奪い取ったなら。
どれほどの優越感に満たされるだろうか。




