アンヌの策略2
「十分間、休憩です。この後、一曲通して踊ってもらいますよ」
女性教諭がパンパンと手を叩くと、音楽が止まった。
そのまま教諭は一度ホールを後にする。
平民出身者や、社交界に馴染みのない生徒たちからは、張り詰めていた緊張が一気に解けたように、ため息が零れた。
エリーズは周囲のざわめきを背に、壁際で休憩しているアンヌのもとへ歩み寄った。
「アンヌ嬢。少し、よろしいかしら」
「あ……エリーズ様!」
アンヌは彼女の姿を認めるや否や、勢いよく頭を下げた。
「先ほどは、本当に申し訳ございませんでした! わたくしの滑舌が悪かったせいで、エリーズ様には饗宴実習室と聞こえてしまったようで……」
声は震え、表情は深い後悔に満ちている。
――あくまで、自分の不手際“だったかもしれない”という体裁で。
「……わたくしは、はっきりと饗宴実習室と、貴方の口からお聞きしましたわ」
エリーズは低い声で言った。
「それに先ほど。教員に問われた際、貴方は大礼儀堂と伝えた、と仰いましたわよね」
「それは……」
アンヌは一瞬だけ言葉に詰まり、困ったように視線を伏せる。
「わたくし自身は、大礼儀堂と言ったつもりでしたの。ですが……もしかしたら、言い間違えてしまったのかもしれません……」
その曖昧な言い回しに、エリーズの眉がぴくりと動いた。
「……つもりだった?もしかしたら?言い間違えたかもしれない?」
エリーズの声に、はっきりと怒気が混じる。
「いい加減にしなさいませ!」
張りのある怒声が、ホールに響いた。
周囲の視線が一斉に集まる。
「エリーズ様……アンヌ嬢も、悪気があったわけでは……」
アンヌの友人が、恐る恐る口を挟む。
「わたくしは、彼女と話しておりますの」
エリーズは鋭く言い放った。
「外野が口を挟まないでいただけます?」
凍りつくような視線に、友人は言葉を失い、口を噤む。
――次の瞬間。
「……出た、女王節」
「自分の聞き間違いを、アンヌ嬢に擦り付けるなんて信じられない」
「アンヌ嬢、可哀想……」
ひそひそ、ひそひそと。
小さな囁き声が、波のように広がっていく。
その一つ一つが、エリーズの背中に突き刺さる。
アンヌは俯いたまま、唇をきゅっと噛みしめていた。
――泣きそうな、健気な少女の姿で。
その影で、誰にも気づかれぬほど小さく、ほんの一瞬だけ、口元が歪んだことを。
この場にいた者は、まだ誰も知らなかった。
「エリー、落ち着いて」
張り詰めた空気を察し、フィリシテが慌ててエリーズの腕に手を伸ばした。
マリリーズとシルヴィも、彼女を囲むように駆け寄る。
「フィリシテ様。わたくしは、十分に落ち着いておりますわ」
エリーズは、きっぱりとそう告げた。
「ですが、今回の件は見過ごせません。わたくし一人ならまだしも――フィリシテ様、マリリーズ、シルヴィ。あなた方にまで迷惑が及んだのですから」
静かな声だった。
しかし、その場にいる誰もが、彼女の怒りが感情的なものではないと悟る。
「それに――」
エリーズは、ゆっくりと周囲を見渡した。
「わたくしたちスブリーム魔法学園の生徒は、将来、人の上に立つ立場に就く者ですわ」
空気が、ぴんと張りつめる。
「人は誰しも、間違いを犯します。それ自体は責められることではありません。ですが――」
一拍、置く。
「言ったつもりでした?もしかしたら?言い間違えかも?滑舌が悪かったから?」
淡々と、しかし明確に言葉を並べる。
「そのような曖昧な言い訳で責任を曖昧にする態度こそ、問題だと申しているのです」
ざわ、と空気が揺れた。
賢い者たちは、ようやく理解し始める。
エリーズが怒っているのは、遅刻そのものではない。
責任の所在を誤魔化そうとした姿勢だ。
「将来、人の上に立った時も――そのような態度で、部下や民を導くおつもりですの?」
エリーズの視線が、アンヌを射抜く。
「そんな、いい加減な人間に……いったい、誰がついてくるというのです!」
一瞬の沈黙。
だが次の瞬間。
「……エリーズ様、言い過ぎでは?」
「アンヌ嬢、顔色が真っ青ですわ……」
「正論でも、あんな言い方は……」
小さな囁きが、再び膨らみ始める。
正しさは、常に味方をするとは限らない。
むしろ――多くの場合、正しさは疎まれる。
アンヌは俯き、肩を震わせた。
「……わたくし……そんなつもりでは……」
涙を浮かべるその姿に、同情の視線が集まる。
守ってやりたい。
かばってやりたい。
――そんな感情が、教室の空気を満たしていく。
「というか……エリーズ嬢の聞き間違いって可能性もあるんじゃないか?」
誰かの一言をきっかけに、再びざわめきが広がった。
「アンヌ嬢はちゃんと謝ったのに、あそこまで責めるなんて……」
「自分の非は、まったく認めないんだな」
「そもそも間違えたのって、エリーズ様だけですもの」
「エリーズ様から伝えられた三人以外は、全員大礼儀堂に集まっていましたし……」
そして。
「……最近の噂もありますし」
「腹いせに、わざと間違えたんじゃないの?」
言葉は、悪意を帯びていく。
事実よりも、印象が。
真実よりも、感情が。
人々の判断を、容易く塗り替えていった。
エリーズは、わずかに眉根を寄せた。
――これ以上、何を言っても無駄だ。
今、彼女が言葉を重ねれば重ねるほど、“傲慢な悪役令嬢”という像が、より強固になるだけだと分かっていた。
悔しさに、拳をぎゅっと握る。
そして、踵を返そうとした――その時。
「……お前ら、いい加減にしろよ」
低く、怒気を孕んだ声が、空気を切り裂いた。
「エリーが、聞き間違えるわけがない。ましてや、わざと間違えるなんて……そんなこと、あるはずないだろ」
声の主は、ステファーヌだった。
いつもなら、誰に対しても爽やかな笑みを浮かべている彼が、今は怒りを隠そうともせず、エリーズの前に立ちはだかる。
まるで、彼女を守る盾のように。
鋭い視線が、周囲を射抜く。
初めて見るステファーヌの剥き出しの怒りに、
クラスメイトたちは言葉を失い、後ずさった。
――その瞬間。
「……わたくしが、悪いんです……!」
しゃくり上げるような声が、静まり返った教室に響いた。
アンヌだった。
大粒の涙を零しながら、胸元を押さえ、必死に言葉を紡ぐ。
「わたくしが……きちんと伝えられなかったから……エリーズ様を……怒らせてしまって……」
その姿は、あまりにも健気で、あまりにも“守られるべき少女”に見えた。
「ステファーヌ様……」
アンヌは縋るように彼の名を呼ぶ。
「皆様は、わたくしを庇おうとしてくださっただけなのです。ですから……どうか、怒らないでくださいませ……」
大きな瞳に涙を溜め、ステファーヌの服を握り、そっと身を寄せる。
もし相手が別の男性であったなら――
可憐さと健気さに、心を動かされていたかもしれない。
だが。
アンヌを見下ろすステファーヌの瞳に、熱は宿らなかった。
彼は静かにアンヌから身を引き、背後に立つエリーズへと振り返る。
「……エリー」
眉尻を下げ、悔いるように。
「五分前になっても君の姿が見えなかった時点で、俺が疑問を持つべきだった……すまない」
まるで、主に叱られた忠犬が、自分の過失を悔いて項垂れるような姿。
それを見て、エリーズは呆れと諦観が混じった笑みを、ほんの一瞬だけ零した。
「……どうして、貴方が謝りますの」
穏やかだが、芯のある声。
「わたくしも、移動前に再確認していれば防げたことですわ」
「でも……俺が、もっと早く気づいて探しに行っていれば……」
情けない声色。
その瞬間。
「――情けない顔をするのは、やめなさいと言ったでしょう」
エリーズの言葉は、鋭く、しかし感情的ではなかった。
叱責というより、叱咤。
その声音に、周囲が息を呑む。
――と、同時に。
ホールの扉が、音を立てて開いた。
休憩を終えた女性教諭が、再び中へと戻ってきたのだった。




