胸襟を開く
広場には、エリーズとステファーヌの二人だけが残された。
「ステファー……わたくしたちも、帰りましょうか」
エリーズがそう声をかけると、ステファーヌは俯いたまま動かなかった。
返事がないことに不安を覚え、そっと顔を覗き込もうとした瞬間――
「エリー、場所を移そう」
低く、切迫した声。
次の瞬間、手首を取られ、半ば強引に噴水広場を後にした。
人目のない建物の陰。
立ち止まったかと思うと、ステファーヌは壁際にエリーズを立たせ、ドン、と片腕を折り曲げたまま彼女の頭上に手をつき、壁との間に閉じ込めた。
――近い。
エリーズは、思わず息を呑んで彼を見上げた。
「ステファー……?」
ここへ来るまで一言も発しなかった彼。
その瞳と正面から合った瞬間、胸が不意に跳ねる。
強い眼差し。
射竦めるような視線。
思わず、エリーズは視線を逸らした。
ステファーヌは、時折こんなふうに「男の顔」をする。
それが、エリーズは少し苦手だった。
心臓が落ち着かなくなり、胸が締め付けられる。
同じ人なのに、知らない誰かのように感じてしまうから。
俯いたまま、言葉を探していると――
覆いかぶさっていた影が、ふっと消えた。
気づけば、ステファーヌの姿は視界の下。
彼は、壁際で蹲踞の姿勢のまま、頭を抱えて蹲っていた。
「ステ……?」
驚いて声をかけ、そっと頭に手を伸ばそうとした、その時。
「あーーーーっ」
顔を埋めたまま、突然の奇声。
エリーズは思わず肩を跳ねさせ、伸ばしかけた手を止めた。
「かっこ悪い……俺……」
くぐもった声。
そう呟くと、ステファーヌはさらに身を縮めた。
先程までの強さは、どこにもなかった。
「俺が学年一位になれば、皆が認めてくれると思ってた……エリーの悪評も消えて、全部元通りになるって」
顔を伏せたまま、言葉が零れ落ちる。
「アンヌ嬢との誤解を、皆の前で解いて……俺が想っているのはエリーだけだって、はっきり示せば、それで全て上手くいくって――」
けれど、それはあまりにも浅はかだった。
自分の想いを公衆の面前で告げるだけでは、事態は、もう収まる段階ではなかったのだ。
「エリーを救ったのはフィリシテ様だ。アンヌ嬢の暴走を止めたのは……被害者であるはずのエリー自身だった」
一つひとつ、噛み締めるように言葉を重ねる。
「俺は……何もしていない。何も、出来なかった……」
その声は、ひどく小さく、悔しさと自己嫌悪に滲んでいた。
「ほんっっとに情けない……」
自分の不甲斐無さに身を縮こめていると、ふと前方に気配を感じて顔を上げた。
そこには――自分と同じように膝を折り、蹲踞の姿勢でじっとこちらを見つめるエリーズの姿があった。
こんなにも近くにいるとは思っていなかった。
ステファーヌは驚きに目を見開く。
「そんなことないわ」
エリーズは真っ直ぐに、迷いのない声音で否定した。
「貴方は、ずっとわたくしを信じてくれていたでしょう?」
噂に揺らぐこともなく。
周囲の声に流されることもなく。
真っ向から、エリーズを信じ続けてくれた。
――自分を信じてくれる人がいる。
その事実が、どれほど心を強くしてくれるのか。
自分を庇うように前に立った背中が、どれほどの安心を与えてくれていたのか。
「今日の貴方の背中、とても頼もしかったわ」
エリーズは静かに言葉を重ねる。
「貴方が、わたくしを信じて隣にいてくれたから。だから、わたくしは――自分の足で立てたのよ」
心細くなかったのは、彼が隣にいたから。
独りではないと、確信出来たから。
その事実が、何よりの支えだった。
ステファーヌはしばらく沈黙したあと、アンヌに叩かれ、まだ赤く残るエリーズの頬へと、そっと手を伸ばした。
眉を歪め、ひどく悲しそうな表情を浮かべる。
「……ごめん。君を守ると誓ったのに……守るどころか、俺の存在がエリーを傷付けた」
自分がいなければ。
エリーズがアンヌに目を付けられることもなく、
悪評に晒され、心身をすり減らし、体調を崩すこともなかったかもしれない。
「そうね」
エリーズの短い一言。
その肯定に、ステファーヌはまるで捨てられた犬のように、しょんぼりと肩を落とした。
「……けれど」
視線を伏せたままのステファーヌの顔を、エリーズは両手で包み込むように掴み、自分のほうへ向けさせた。
強引に顔を上げさせられた彼の視界いっぱいに、穏やかな笑みを浮かべるエリーズが映る。
「わたくしは、ステファーがいてくれたから救われたことの方が多いわ」
柔らかく、しかしはっきりと。
「それに、今回の件は貴方の意思とは関係のないところで起きた騒動よ。ステファーが責任を感じる必要なんて、どこにもないわ」
――どうして、彼女はこんなにも眩しいのだろう。
頼りない自分とは、あまりにも対照的だ。
自分の意思と選択で人生を歩き、常に後悔しない道を探し、誰かのせいにすることなく前を向く。
エリーズは、いつだって――
自分が欲しかった言葉を、迷いなく差し出してくれる。
では。
自分は――彼女に、何をしてあげられるのだろう。
「俺はっ――俺は、君に何をしてやれる……! 俺はエリーにしてもらってばかりで……ただ、君の隣にいることしか出来ない」
どうして自分は、こんなにも弱いのか。
頼れる人間になりたい。守れる男になりたい。
「隣にいてくれること、常に傍にいてくれる存在が、どれほど心強いか……貴方は分かっている?」
エリーズは、静かに問いかけた。
「お母様が亡くなられた時。貴方の言葉が、どれほどわたくしを救ってくれたか」
視線を伏せ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「貴方がいなければ……わたくしは、とっくの昔に心を病んでいたわ」
母が病に倒れた時。
寂しさと不安に押し潰されそうになった日々。
どれほど冷たく突き放しても、どれほど拒んでも――
ステファーヌは、必死にエリーズの後を追い続けた。
母が亡くなり、現実を受け止めきれずにいた心。
それを溶かしたのは、彼の存在だった。
悲しみに気付いてくれたから。
痛みに寄り添ってくれたから。
――だから、思い切り泣くことが出来た。
一人で溜め込んでしまう感情を、ステファーヌは、何も言わずに半分引き受けてくれた。
誰よりも早く、エリーズの変化に気付き、不器用ながらも「一緒に背負おう」としてくれる。
それだけで、人は救われる。
「ステファー。貴方は、もう十分にわたくしを救ってくれているわ」
その言葉に、ステファーヌの目に涙が浮かんだ。
こんな自分でも彼女の役に立てていたのか。
彼女を救っていたのか。
その事実と、彼女の言葉が胸いっぱいに広がる。
「ふふ。泣き虫だけは昔から変わらないわね」
そう言って笑うエリーズの頭に、ステファーヌはそっと手を伸ばし、そのまま自分の方へと抱き寄せた。
エリーズは前方に傾き、バランスを崩して彼の肩口に顔を埋める。
「俺は……まだエリーに釣り合うような男じゃない」
絞り出すような声で、ステファーヌは続けた。
「けれど、君を手離したくない」
切実な想いが、言葉となって溢れ出す。
「幾億人といるこの世界で、エリーと出会えた奇跡――全てを投げ打ってでも、共に生きていきたいと思える存在に出会える確率が、どれほどのものか……」
そして、静かに続ける。
「君が許してくれるなら、俺はこの先もずっと君の隣に在りたい」
エリーズの頭に回された手に、僅かに力が籠められた。
「そして、誰からも認められる存在になった時――俺を……エリーの正式な婚約者にしてくれるかい」
その言葉に、エリーズははっと目を見開いた。
彼が、本当は正式な婚約者ではないことを知っていたこと。
そして何より、自分の正式な婚約者になりたいと願ってくれたこと。
「……知って、いたのね」
声は小さく、胸に落ちる。
「ああ。レオナール殿下から教えていただいた。君が、殿下の婚約者候補であったことも」
そこまで知っていたのか、とエリーズは思う。
「それでも俺は……殿下であろうと、誰であろうと、君に他の男を選んでほしくない。君の隣は、俺だけの場所であってほしい」
自分勝手な願いだと分かっていても。
見栄も体裁もかなぐり捨てて、ステファーヌは本心を紡いだ。
エリーズの腕が、そっとステファーヌの頭部に回された。
思いがけない仕草に、ステファーヌはわずかに目を見張る。
「何を今更。昔も今も、わたくしの隣はいつだってステファーだけよ」
その声は、静かで、けれど確かな温度を帯びていた。
「……けれど」
エリーズは小さく息を吸う。
「わたくしは我儘で、傲慢で……貴方に冷たく当たったこともあったわ。皆が言うように、従者のように扱ったことだって――」
一瞬、言葉が詰まる。
「そんなわたくしで、本当にいいの?」
エリーズは知っていた。
ステファーヌが、自分を正式な婚約者だと信じていたことを。
そして、周囲もまた同じように思っていたことを。
彼女は――それを、利用していた。
「わたくしは……貴方の思うような人間じゃないわ」
自嘲するように、けれど逃げずに言葉を続ける。
「アンヌ嬢に説教を垂れる資格なんて、本当はなかった。わたくしだって、打算的で、利己的な感情で、貴方を縛っていたのだもの」
それは告白だった。
ステファーヌは自分のものだと、周囲に知らしめるため。
彼の傍に、他の女が割り込まないように。
誰にも渡したくなくて――
エリーズは、ステファーヌが自分しか見ないように、無意識に、けれど確かに誘導していた。
それが、たとえ歪んだ行動だったとしても。
彼を、手放さないために。
ステファーヌを、繋ぎ止めるためにしてきたことだった。




