表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/32

騒動の終幕

「アンヌ嬢」


 くずおれたアンヌに声をかけたのは、予想外にもステファーヌだった。


「ステファーヌ様っ……!」


 唯一、自分に声をかけてくれた存在。

 その事実に、アンヌは縋るような希望を抱いた。


 ――やっぱり、この人だけは違う。

 追い詰められた可哀想な私を、救い上げてくれる。


 そんな期待を映した瞳を、ステファーヌは静かに見下ろす。


「君は、俺のことを“理想の王子様”だと言ったね」


 問いかけは穏やかだった。

 だが、その声に温度はなかった。


「そ、そうですわ……。ステファーヌ様こそ、文武両道で、眉目秀麗で……皆様の憧れの御方。わたくしの、運命の人ですもの」

「俺が――」


 ステファーヌは、言葉を区切る。


「エリー以外の人間を、どうでもいいと思っている男だとしてもかい?」

「……え?」


 アンヌの思考が、そこで止まった。


 冷え切った声。

 感情の揺らぎすら感じさせない眼差し。


 それが冗談でも、挑発でもないことを、誰の目にも明らかだった。


「正直に言うよ」


 ステファーヌは視線を逸らさない。


「エリーを貶め、追い詰めた君を、俺は心底嫌悪している」


 アンヌの喉が、ひくりと鳴る。


「出来ることなら、同じだけの――いや、それ以上の苦しみを味わわせてやりたいとすら思っている」


 ざわ、と空気が揺れた。


「……けれど」


 ステファーヌは一度だけ、エリーズの方を見た。


「彼女は、そんなことを望まない。そして、俺がそんな真似をすれば――彼女は、きっと怒る」


 その言葉には、迷いがなかった。


「な……にを……」


 アンヌの声は、掠れて震える。


「ステファーヌ様が……そんなことを仰るなんて……らしく、ありませんわ……」

「らしくない?」


 小さく、乾いた笑い。


「君は……俺の何を知っている?」


 その問いは、鋭く突き刺さった。


「君が見ていた俺は、君が都合よく作り上げた理想像に過ぎない」

「そんなことありません!」


 アンヌは必死に否定する。


「クラスの中心にいて、誰にでも優しくて、皆を導いて……時には情熱的で……! わたくしは、ちゃんと理解しています!」

「違う」


 即答だった。


「俺が誰にでも優しいように見えたのは、そう振る舞っていたから」


 アンヌの顔色が、さらに失われていく。


「俺が情熱を向けるのは、一人だけだ。エリーズ以外に、そんな価値を見出したことはない」


 はっきりとした断言。


「君が恋をしたのは、俺じゃない。“王子様という役割”だ」


 そして、決定的な一言。


「……俺は、君の物語の登場人物になるつもりはない」

「どうして……」


 アンヌから、掠れた声が零れ落ちた。


「どうして、エリーズ嬢ばかりいい思いをするの! わたくしが欲しいものは、全部エリーズ嬢が奪っていく! どうして、奪われたわたくしばかりが、こんなにも惨めな思いをしなければならないのよっ!」


 悲鳴にも似た叫び。


 アンヌの中では、答えは既に決まっていた。

 エリーズは公爵家に生まれた上級貴族。

 恵まれ、守られ、欲しいものは最初から与えられてきた存在。


 ――だから、自分が欲してはならない理由などない。それなのに、許されるのは彼女だけ。


 そんな歪んだ理屈が、アンヌの胸に巣食っていた。


「君に……エリーの何が分かる」


 ステファーヌが低く言いかけた、その言葉を――


 エリーズは一歩前に出て、片手を上げて制した。アンヌを見据える。


「貴方は……自分しか愛していない。そして、自分のことしか見ていないのね」


 アンヌの肩が、ぴくりと跳ねた。


「自分しか愛していない人間を、誰が愛しましょうか」


 淡々と、事実を述べるように。


「貴方は今まで、誰かを守りたいと思ったことがありますか。誰かのために、何かを失う覚悟をしたことは?」


 答えは、最初から分かっている問いだった。


「因果応報――その言葉はご存知でしょう」


 エリーズの声は、感情を帯びていない。

 だからこそ、重く響いた。


「良い行いにも、悪い行いにも、必ず報いは返ってくる。欲してばかりでは、何も残りませんわ」


 一歩も引かず、告げる。


「優しさを与えなさい。思いやりを持ちなさい。他人を慮りなさい」


 それは叱責ではなく、結論だった。


「そうして初めて、人は――本当に貴方が困った時、手を差し伸べようと思うのです」


 沈黙。


 アンヌは、何一つ言い返せなかった。


 俯き、両手を強く握り締める。


「……わたくしだって、それなりに考えて人付き合いをしてきましたわ」


 震える声で、言い訳のように零す。


「同性から嫌われないようにも気を配りましたし……わたくしと一緒にいることで、彼女たちだって良い思いをしたはずですわ」


 けれど、と続けて。


「それなのに……わたくしには、何の見返りもない」


 アンヌは顔を歪める。


「異性との縁を繋いであげたことだってありますわ! わたくしに言い寄る人たちばかりが得をして……じゃあ、わたくしはどうしたらよかったのよ……」


 声が裏返る。


「どうすれば……よかったっていうの……」


 それは打算でも虚偽でもなかった。

 アンヌは、初めて“本心”のまま泣いていた。


 しゃくり上げるように嗚咽を漏らし、涙が頬を伝う。


「――自分で、考えなさいませ」


 静かで、容赦のない言葉。


「打算ではなく。自分のために、そして相手のために――死ぬほど考え抜いた選択であれば」


 エリーズは、視線を逸らさない。


「後悔も、誰かを恨むことも、きっとなさらなかったでしょう」


 アンヌは、涙に濡れた顔でエリーズを見上げた。


 凛とした立ち姿。

 揺るぎない眼差し。


 その瞳は力強く、あまりにも眩しかった。


 甘い言葉を囁けば、人は集まった。

 笑顔ひとつで、涙ひとつで、男たちは動いた。

 縁を取り持てば、同性は感謝し、また蜜を求めて寄ってきた。


 けれど――


「わたくしの流儀を、教えてあげますわ」


 エリーズは、淡々と告げる。


「幸せは、自分の力で掴むもの。自分の足で立ち、自分の信念で歩まなければ」


 一拍置いて。


「人は、岐路に立った時――必ず後悔します」


 その言葉は、説教ではなかった。

 エリーズ自身の生き様、そのものだった。


 誰かに依存せず、寄りかからず。

 常に自分の足で立ち続けてきた者の言葉。


 人を利用することも、感情を武器にすることもない。


 揺るぎない自信と信念に満ちたその姿に、群衆は息を呑み、自然と視線を奪われていた。


 誰かのために怒り、自分を貶めた相手にすら、救いの道を与えようとしたその在り方に――


 人は、惹かれずにはいられなかった。


「変わろうとしなければ、人は変われませんわ」


 そう言って、エリーズはアンヌへと静かに手を差し伸べた。

 服が汚れることも厭わず、地面に片膝をついて。


 アンヌの視界は涙で滲み、差し出されたその手がうまく見えない。

 喉が詰まり、呼吸が乱れる。


「ごめ……っ、ひっく……ごめんなさい……っ」


 言葉は途切れ途切れで、声にならない。


「ごめんなさい……ごめんなざいぃ……」


 取り繕うことも、誇りも、虚勢も。

 体面も噂も、すべて投げ捨てて。


 アンヌは、くしゃくしゃに歪んだ顔のまま、ただ泣きながら謝罪した。


 それは初めて――

 誰かを貶めるためでも、庇ってもらうためでもない。


 本当の意味での「謝罪」だった。


 広場は、静まり返っていた。


 誰も嘲笑わず、誰も口を挟まない。

 ただ、ひとつの物語が終わる瞬間を、見届けていた。


「わたくしはもう、十分ですわ。彼女を断罪したいとも、復讐したいとも思っておりませんもの」


 エリーズはアンヌの手を取り、支えるようにして立ち上がらせた。

 その言葉は、アンヌだけに向けたものではなかった。


 一番の被害者であるエリーズが、アンヌを許した。

 それは同時に、周囲への明確な線引きでもあった。


 ――これ以上、関係のない者が彼女を糾弾することも、悪者として石を投げることも、許さない。


「しかし、ララ嬢。貴方もまた被害者の一人ですわ」


 そう言って、エリーズはララへと視線を向けた。


「アンヌ嬢をどうするか。その判断を下す権利は、貴方にもあります」


 ララは一瞬、驚いたように目を見開いたあと、静かに首を横に振った。


「わたくしも……アンヌ嬢に、何かしてほしいとは思っておりません」


 ララはそう告げ、エリーズをまっすぐに見つめる。


「わたくしの中にあった靄は、エリーズ様が、すでに晴らしてくださいました」


 エリーズもララも、アンヌを許すことで場を収めた。


「……では、ここまでにしましょう」


 静かに、けれどよく通る声でフィリシテが告げた。


 扇を閉じ、その場を見渡す。


「これ以上、誰かを裁く必要はありません。本日の件は、当事者たちの意思をもって、ここで終結といたします」


 それは命令でも宣告でもない。

 区切りだった。


 誰かが口を開こうとしたが、言葉にはならなかった。

 代わりに、ひとり、またひとりと視線が逸らされていく。


 囁き声が消え、噴水の水音だけがいつもの調子を取り戻す。


 誰かが「行こう」と小さく声をかけ、誰かがそれに頷き、群衆は理由を探すこともなく、自然と散っていった。


 まるで、最初からそこに“騒ぎ”などなかったかのように。


 広場に残ったのは、当事者たちと、静かな空気だけ。


「エリー。アンヌ嬢の身柄はこちらで預かり、寮へ戻します。それでよろしいわね」

「はい。問題ございませんわ。――フィリシテ様、ありがとうございました」


 エリーズはそう言って、深く頭を下げた。

 その言葉には、短い一言では表しきれないほどの想いが、静かに滲んでいた


 フィリシテはその言葉を受け、柔らかな微笑みを浮かべる。


「礼には及ばないわ。友人として、当然のことをしたまでよ」


 そう告げると、フィリシテは踵を返した。


 ジェルヴェが、未だ嗚咽を漏らすアンヌの身を静かに支え、登場した際に連れてきた男女の生徒たちと共に、フィリシテたちは校舎の方へと歩み去っていく。


 その背中が人影に紛れ、完全に見えなくなった頃――


「エリーズ様」


 今度は、ララが一歩前に出た。


「わたくしも、これで失礼いたします。本日は……庇ってくださり、本当にありがとうございました」


 深く、深く頭を下げる。


「ララ嬢。わたくしは、いつでも貴方の力になりますわ。この度は、関係のない貴方まで巻き込んでしまって――」


 言葉を続けようとしたエリーズの前で、ララは静かに首を横に振った。


「いいえ。わたくしには、エリーズ様がついていてくださいました。それだけで……過分すぎるほどですわ」


 瞳に微かな涙を浮かべながらも、ララは確かに笑っていた。


 もう一度、丁寧に一礼すると、彼女もまた、その場を後にする。


 広場には、エリーズとステファーヌだけが残された。


 噂も、誤解も、悪意も――

 すべてが、静かに過去へと退いていく。


 こうして、エリーズを“悪役”に仕立て上げた騒動は、完全に幕を下ろした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ