騒動の終幕
「アンヌ嬢」
くずおれたアンヌに声をかけたのは、予想外にもステファーヌだった。
「ステファーヌ様っ……!」
唯一、自分に声をかけてくれた存在。
その事実に、アンヌは縋るような希望を抱いた。
――やっぱり、この人だけは違う。
追い詰められた可哀想な私を、救い上げてくれる。
そんな期待を映した瞳を、ステファーヌは静かに見下ろす。
「君は、俺のことを“理想の王子様”だと言ったね」
問いかけは穏やかだった。
だが、その声に温度はなかった。
「そ、そうですわ……。ステファーヌ様こそ、文武両道で、眉目秀麗で……皆様の憧れの御方。わたくしの、運命の人ですもの」
「俺が――」
ステファーヌは、言葉を区切る。
「エリー以外の人間を、どうでもいいと思っている男だとしてもかい?」
「……え?」
アンヌの思考が、そこで止まった。
冷え切った声。
感情の揺らぎすら感じさせない眼差し。
それが冗談でも、挑発でもないことを、誰の目にも明らかだった。
「正直に言うよ」
ステファーヌは視線を逸らさない。
「エリーを貶め、追い詰めた君を、俺は心底嫌悪している」
アンヌの喉が、ひくりと鳴る。
「出来ることなら、同じだけの――いや、それ以上の苦しみを味わわせてやりたいとすら思っている」
ざわ、と空気が揺れた。
「……けれど」
ステファーヌは一度だけ、エリーズの方を見た。
「彼女は、そんなことを望まない。そして、俺がそんな真似をすれば――彼女は、きっと怒る」
その言葉には、迷いがなかった。
「な……にを……」
アンヌの声は、掠れて震える。
「ステファーヌ様が……そんなことを仰るなんて……らしく、ありませんわ……」
「らしくない?」
小さく、乾いた笑い。
「君は……俺の何を知っている?」
その問いは、鋭く突き刺さった。
「君が見ていた俺は、君が都合よく作り上げた理想像に過ぎない」
「そんなことありません!」
アンヌは必死に否定する。
「クラスの中心にいて、誰にでも優しくて、皆を導いて……時には情熱的で……! わたくしは、ちゃんと理解しています!」
「違う」
即答だった。
「俺が誰にでも優しいように見えたのは、そう振る舞っていたから」
アンヌの顔色が、さらに失われていく。
「俺が情熱を向けるのは、一人だけだ。エリーズ以外に、そんな価値を見出したことはない」
はっきりとした断言。
「君が恋をしたのは、俺じゃない。“王子様という役割”だ」
そして、決定的な一言。
「……俺は、君の物語の登場人物になるつもりはない」
「どうして……」
アンヌから、掠れた声が零れ落ちた。
「どうして、エリーズ嬢ばかりいい思いをするの! わたくしが欲しいものは、全部エリーズ嬢が奪っていく! どうして、奪われたわたくしばかりが、こんなにも惨めな思いをしなければならないのよっ!」
悲鳴にも似た叫び。
アンヌの中では、答えは既に決まっていた。
エリーズは公爵家に生まれた上級貴族。
恵まれ、守られ、欲しいものは最初から与えられてきた存在。
――だから、自分が欲してはならない理由などない。それなのに、許されるのは彼女だけ。
そんな歪んだ理屈が、アンヌの胸に巣食っていた。
「君に……エリーの何が分かる」
ステファーヌが低く言いかけた、その言葉を――
エリーズは一歩前に出て、片手を上げて制した。アンヌを見据える。
「貴方は……自分しか愛していない。そして、自分のことしか見ていないのね」
アンヌの肩が、ぴくりと跳ねた。
「自分しか愛していない人間を、誰が愛しましょうか」
淡々と、事実を述べるように。
「貴方は今まで、誰かを守りたいと思ったことがありますか。誰かのために、何かを失う覚悟をしたことは?」
答えは、最初から分かっている問いだった。
「因果応報――その言葉はご存知でしょう」
エリーズの声は、感情を帯びていない。
だからこそ、重く響いた。
「良い行いにも、悪い行いにも、必ず報いは返ってくる。欲してばかりでは、何も残りませんわ」
一歩も引かず、告げる。
「優しさを与えなさい。思いやりを持ちなさい。他人を慮りなさい」
それは叱責ではなく、結論だった。
「そうして初めて、人は――本当に貴方が困った時、手を差し伸べようと思うのです」
沈黙。
アンヌは、何一つ言い返せなかった。
俯き、両手を強く握り締める。
「……わたくしだって、それなりに考えて人付き合いをしてきましたわ」
震える声で、言い訳のように零す。
「同性から嫌われないようにも気を配りましたし……わたくしと一緒にいることで、彼女たちだって良い思いをしたはずですわ」
けれど、と続けて。
「それなのに……わたくしには、何の見返りもない」
アンヌは顔を歪める。
「異性との縁を繋いであげたことだってありますわ! わたくしに言い寄る人たちばかりが得をして……じゃあ、わたくしはどうしたらよかったのよ……」
声が裏返る。
「どうすれば……よかったっていうの……」
それは打算でも虚偽でもなかった。
アンヌは、初めて“本心”のまま泣いていた。
しゃくり上げるように嗚咽を漏らし、涙が頬を伝う。
「――自分で、考えなさいませ」
静かで、容赦のない言葉。
「打算ではなく。自分のために、そして相手のために――死ぬほど考え抜いた選択であれば」
エリーズは、視線を逸らさない。
「後悔も、誰かを恨むことも、きっとなさらなかったでしょう」
アンヌは、涙に濡れた顔でエリーズを見上げた。
凛とした立ち姿。
揺るぎない眼差し。
その瞳は力強く、あまりにも眩しかった。
甘い言葉を囁けば、人は集まった。
笑顔ひとつで、涙ひとつで、男たちは動いた。
縁を取り持てば、同性は感謝し、また蜜を求めて寄ってきた。
けれど――
「わたくしの流儀を、教えてあげますわ」
エリーズは、淡々と告げる。
「幸せは、自分の力で掴むもの。自分の足で立ち、自分の信念で歩まなければ」
一拍置いて。
「人は、岐路に立った時――必ず後悔します」
その言葉は、説教ではなかった。
エリーズ自身の生き様、そのものだった。
誰かに依存せず、寄りかからず。
常に自分の足で立ち続けてきた者の言葉。
人を利用することも、感情を武器にすることもない。
揺るぎない自信と信念に満ちたその姿に、群衆は息を呑み、自然と視線を奪われていた。
誰かのために怒り、自分を貶めた相手にすら、救いの道を与えようとしたその在り方に――
人は、惹かれずにはいられなかった。
「変わろうとしなければ、人は変われませんわ」
そう言って、エリーズはアンヌへと静かに手を差し伸べた。
服が汚れることも厭わず、地面に片膝をついて。
アンヌの視界は涙で滲み、差し出されたその手がうまく見えない。
喉が詰まり、呼吸が乱れる。
「ごめ……っ、ひっく……ごめんなさい……っ」
言葉は途切れ途切れで、声にならない。
「ごめんなさい……ごめんなざいぃ……」
取り繕うことも、誇りも、虚勢も。
体面も噂も、すべて投げ捨てて。
アンヌは、くしゃくしゃに歪んだ顔のまま、ただ泣きながら謝罪した。
それは初めて――
誰かを貶めるためでも、庇ってもらうためでもない。
本当の意味での「謝罪」だった。
広場は、静まり返っていた。
誰も嘲笑わず、誰も口を挟まない。
ただ、ひとつの物語が終わる瞬間を、見届けていた。
「わたくしはもう、十分ですわ。彼女を断罪したいとも、復讐したいとも思っておりませんもの」
エリーズはアンヌの手を取り、支えるようにして立ち上がらせた。
その言葉は、アンヌだけに向けたものではなかった。
一番の被害者であるエリーズが、アンヌを許した。
それは同時に、周囲への明確な線引きでもあった。
――これ以上、関係のない者が彼女を糾弾することも、悪者として石を投げることも、許さない。
「しかし、ララ嬢。貴方もまた被害者の一人ですわ」
そう言って、エリーズはララへと視線を向けた。
「アンヌ嬢をどうするか。その判断を下す権利は、貴方にもあります」
ララは一瞬、驚いたように目を見開いたあと、静かに首を横に振った。
「わたくしも……アンヌ嬢に、何かしてほしいとは思っておりません」
ララはそう告げ、エリーズをまっすぐに見つめる。
「わたくしの中にあった靄は、エリーズ様が、すでに晴らしてくださいました」
エリーズもララも、アンヌを許すことで場を収めた。
「……では、ここまでにしましょう」
静かに、けれどよく通る声でフィリシテが告げた。
扇を閉じ、その場を見渡す。
「これ以上、誰かを裁く必要はありません。本日の件は、当事者たちの意思をもって、ここで終結といたします」
それは命令でも宣告でもない。
区切りだった。
誰かが口を開こうとしたが、言葉にはならなかった。
代わりに、ひとり、またひとりと視線が逸らされていく。
囁き声が消え、噴水の水音だけがいつもの調子を取り戻す。
誰かが「行こう」と小さく声をかけ、誰かがそれに頷き、群衆は理由を探すこともなく、自然と散っていった。
まるで、最初からそこに“騒ぎ”などなかったかのように。
広場に残ったのは、当事者たちと、静かな空気だけ。
「エリー。アンヌ嬢の身柄はこちらで預かり、寮へ戻します。それでよろしいわね」
「はい。問題ございませんわ。――フィリシテ様、ありがとうございました」
エリーズはそう言って、深く頭を下げた。
その言葉には、短い一言では表しきれないほどの想いが、静かに滲んでいた
フィリシテはその言葉を受け、柔らかな微笑みを浮かべる。
「礼には及ばないわ。友人として、当然のことをしたまでよ」
そう告げると、フィリシテは踵を返した。
ジェルヴェが、未だ嗚咽を漏らすアンヌの身を静かに支え、登場した際に連れてきた男女の生徒たちと共に、フィリシテたちは校舎の方へと歩み去っていく。
その背中が人影に紛れ、完全に見えなくなった頃――
「エリーズ様」
今度は、ララが一歩前に出た。
「わたくしも、これで失礼いたします。本日は……庇ってくださり、本当にありがとうございました」
深く、深く頭を下げる。
「ララ嬢。わたくしは、いつでも貴方の力になりますわ。この度は、関係のない貴方まで巻き込んでしまって――」
言葉を続けようとしたエリーズの前で、ララは静かに首を横に振った。
「いいえ。わたくしには、エリーズ様がついていてくださいました。それだけで……過分すぎるほどですわ」
瞳に微かな涙を浮かべながらも、ララは確かに笑っていた。
もう一度、丁寧に一礼すると、彼女もまた、その場を後にする。
広場には、エリーズとステファーヌだけが残された。
噂も、誤解も、悪意も――
すべてが、静かに過去へと退いていく。
こうして、エリーズを“悪役”に仕立て上げた騒動は、完全に幕を下ろした。




