妄執の顛末
エリーズは凛と背筋を伸ばし、アンヌの前に立った。
群衆は、彼女が下す判断を固唾を呑んで見守っている。
「わたくしは――貴方がしたことを、決して許しません」
静かに紡がれた言葉に、誰もが頷いた。
風説の流布、濡れ衣、悪役令嬢という汚名。
エリーズは数ヶ月もの間、耐え忍び、心身をすり減らし、ついには体調を崩すまでに追い込まれていたのだ。
当然の断罪が下される。
誰もが、そう思った。
だが――エリーズは続けた。
「ですが、わたくしに対して行ったことは不問とします」
ざわ、と空気が揺れる。
「もし、わたくしの友人たちにまで被害が及んでいたなら――わたくしの持てる力のすべてを用いて、貴方一人を徹底的に追い詰めていたでしょう」
淡々とした声音。
感情を一切滲ませないからこそ、その言葉は冷酷だった。
それが脅しではなく、事実の宣告であることを、誰もが悟る。
「ですが、幸いにも友人たちは直接的な被害を受けずに済みました。だからこそ、わたくしは自分一人への悪評については、噂が収まるのを待つという選択をしたのです」
一拍置き、エリーズはわずかに視線を伏せた。
「……けれど、それは愚かな判断でした」
その声に、悔恨が滲む。
「無関係であるはずのララ嬢を巻き込み、彼女の人生を大きく揺るがしてしまったのですから」
表情が、ほんの一瞬だけ悲しげに揺れた。
そして、再びアンヌを真っ直ぐに見据える。
「アンヌ嬢。ララ嬢に、心からの謝罪をなさい」
命令ではない。
だが、拒否を許さない言葉だった。
「それで、この件は終わりにいたしましょう」
群衆が息を呑む。
「ララ嬢が被った不利益、そして精神的苦痛については――わたくしが、一生をかけて償います」
その覚悟は、揺るぎない。
「これは、貴方を庇うためではありません。わたくし自身の選択が招いた結果への、責任です」
「エリーズ様! そんな……貴方様が責任を感じることではありません――っ」
ララが慌てて声を上げる。
だが、その言葉をかき消すように――
甲高く、ヒステリックな声が割り込んだ。
「どうしてわたくしが謝らなければならないの!?」
アンヌだった。
「謝るべきなのはエリーズ嬢でしょう!? そこの男爵令嬢なんかより、わたくしの方がよほど傷ついたのよ!?」
あまりにも自己中心的な言葉。
その場の空気が、凍りつく。
だが、アンヌは止まらない。
「わたくしは誰からも愛されるお姫様なの! 周りの人間は、わたくしを守って、助けて、選ぶべき存在なのよ!」
瞳は濁り、声は高揚し、理性の歯止めは完全に外れていた。
「ステファーヌ様は、わたくしがやっと見つけた理想の王子様なの! 王子様とお姫様は、必ず結ばれるものでしょう!?」
――その瞬間。
その場にいた誰もが、言葉を失った。
それは恋ではない。
愛でもない。
物語にしがみつく妄執だった。
「意地悪な人にいじめられても、わたくしは健気に、可哀想なお姫様として頑張ってきたのよ!」
涙を流しながら、しかしその声は怨嗟に満ちていた。
「それなのに……それなのに、どうして!」
アンヌはエリーズを指差す。
「どうして、ヴィランである貴方が選ばれるの!?」
吐き捨てるような言葉。
その瞬間――
完全に、終わった。
同情も、庇いも、弁明の余地も。
彼女自身の口が、すべてを否定した。
――王子と姫の物語を信じていたのではない。
世界が、自分を中心に回ると信じていただけだったのだ。
ざわめきの質が、完全に変わった。
それはもはや噂ではない。
確信と嫌悪だった。
「何よ! 何でも出来て、首席で、人望もあって、王家との繋がりもある! それに――文句無しの婚約者までいるなんて、狡いわよ!」
アンヌの声は、もはや悲鳴に近かった。
「一つくらい譲ってくれたっていいじゃない! 全部、全部持ってるくせに!」
妄執が、言葉となって噴き出す。
「人望も、称賛も、賛美も……全部、元々はわたくしのものだったのよ! 欲しいものは何だって手に入った! それなのに……貴方が! 貴方が全部奪ったのよ!!」
あまりにも身勝手で、歪んだ論理。
だが、アンヌはそれを疑いもしない。
エリーズは、静かに息を吐いた。
そして――
ゆっくりと、手を振り上げた。
アンヌは反射的にビクリと肩を跳ね上げ、ぎゅっと目を閉じる。
だが。
その手は、振り下ろされなかった。
力なく途中で止まり、やがて、静かに下ろされる。
「……貴方は、欲しがってばかりなのね」
低く、静かな声。
「与えてもらうことばかりで、誰かに何かを与えようとしたことが、一度でもある?」
エリーズの柳眉が、わずかに歪む。
そこにあったのは怒りではない。
憐れみだった。
「哀れな人」
その一言が、アンヌの理性を完全に叩き壊した。
「――っ!!」
血が一気に頭に上る。
次の瞬間。
パァンッ!!
乾いた音が、噴水広場に響き渡った。
アンヌの手が、エリーズの頬を打ったのだ。
白い肌に、くっきりと赤い痕が浮かぶ。
――だが。
エリーズは、微動だにしなかった。
避けることも出来た。
受け流すことも出来た。
それでも、敢えて受けた。
顔を打たれたまま、ゆっくりと正面を向き直す。
その姿に、周囲が息を呑む。
「……わたくしは、貴方とは違うの!」
アンヌは叫ぶ。
「貴方がモテないからって僻むのはやめて頂戴! わたくしが望めば、男たちは自分から差し出すのよ!」
歪んだ笑み。
「欲しいものは何だってくれる! 彼らは言うわ、わたくしが喜ぶならそれで幸せだって!」
胸を張り、勝ち誇るように。
「わたくしは、彼らに幸せを与えているのよ!」
――その瞬間。
完全な沈黙が落ちた。
「……そう」
エリーズは、静かに息を整えたあと、淡々と言った。
「だから、貴方は薄っぺらいのね」
「な……」
アンヌは、言葉の意味を理解できなかった。
「貴方の言う“何でも欲しいものを与えてくれる人たち”は、貴方が今こうして追い詰められていても、誰一人として助けてはくれない」
エリーズの声は低く、冷静だった。
一瞬の沈黙。
アンヌは何か言い返そうと口を開きかけたが、図星を突かれた衝撃に、言葉が喉に詰まった。
「……貴方が現実を見られていないのは、貴方だけのせいではないわ」
「何を、知ったようなことを――っ!」
「周りが、環境が、貴方を甘やかし続けたの」
エリーズは視線を逸らさない。
「貴方を“物語の主人公”として扱い、間違った方向へ、ずっと助長させてしまった」
アンヌの指先が、わずかに震えた。
「貴方は、人に喜んでもらう喜びを知らない」
その一言が、深く突き刺さる。
「だから、与えられることしか求めない。見返りもなく、無条件で何かを与え続けてもらえるのは――」
一拍。
「赤ちゃんだけよ」
周囲が、息を呑む。
「貴方を取り囲んでいた男性たちだって、本当は見返りを求めていたはず」
エリーズは静かに、しかし容赦なく続ける。
「そして今、その見返りが期待できないと分かった瞬間――誰一人、貴方を助けようとはしない」
その言葉どおりだった。
つい先刻までアンヌを持て囃し、笑顔を向け、守ると口にしていた男子生徒たちは、誰一人として、この渦中へ踏み込もうとはしていなかった。
アンヌだけが、広場の中心に独り取り残されていた。
対して、エリーズの側にはステファーヌをはじめ、悪評が流れても離れることのなかったフィリシテ、マリリーズ、シルヴィの存在がある。
彼女たちは噂に惑わされることなく、エリーズを信じ続け、そのために動くことを躊躇わなかった。
それだけではない。
学園全体に広まりつつあったエリーズの悪評が最も激しかった時期、公の場で王太子レオナールがエリーズへ敬意を示した――
その事実により、「本当に彼女は悪女なのか」と疑問を抱く者が、確実に増えていた。
静まり返る広場で、エリーズはアンヌをまっすぐに見据えた。
「アンヌ嬢。貴方は“一つくらい譲れ”と仰いましたわね」
エリーズはそっと片手を胸元へ添える。
「けれど、わたくしには――誰かに、譲ってあげられるようなものなど、何一つ持っていませんわ」
一瞬の間。
「わたくしが持っているのは、五体満足のこの身体と、エリーズ・ラブラシュリという名だけです」
その声は静かで、しかし揺るぎなかった。
「王家との繋がりも、婚約者も、わたくしが望んだから、欲したから得られたものではありません」
エリーズは続ける。
「相手が選び、手を差し伸べてくださったからこそ結ばれた縁。わたくし一人の意思や欲望だけで、手に入れられるようなものではないのです」
アンヌの唇が、小刻みに震えた。
「……そんなの……」
否定しようとして、言葉が見つからない。
「そんなの……認めない……」
視線が彷徨う。
助けを求めるように、周囲を見渡す。
「誰か……言って……。わたくしが間違ってないって……」
だが、誰一人として口を開かなかった。
先程まで「守る」と言っていた男子生徒たちは視線を逸らし、アンヌの友人だった者たちは、まるで他人を見るような目で距離を取っている。
「……どうして……?」
声が、裏返る。
「どうして、誰も……?」
その瞬間――
アンヌの中で、何かが決定的に壊れた。
「ふざけないで!!」
甲高い叫びが広場に響いた。
「わたくしが! こんなところで! こんな女に!!」
アンヌはエリーズを指差した。
「貴方のせいよ! 貴方がいなければ、わたくしは――!!」
涙と怒声が入り混じり、言葉は支離滅裂になっていく。
「わたくしは選ばれる側なの! 愛される側なの! 見下される存在じゃない!!」
肩で荒く息をし、目は焦点を失い、歪んだ笑みが張り付いた。
「だって……だって……物語ではそうでしょう?」
誰もが、息を呑んだ。
「お姫様は最後に選ばれる。努力しなくても、信じていれば報われる。悪役は断罪されて、消える――」
アンヌは笑っていた。
涙を流しながら、笑っていた。
「なのに……どうして……どうして、わたくしじゃないの……!」
その姿はもはや、“可憐な令嬢”でも“健気な被害者”でもなかった。
現実を受け入れられない、哀れな少女だった。
「……アンヌ嬢」
エリーズが、静かに名を呼んだ。
アンヌはビクリと震え、縋るような目でエリーズを見る。
「……ねえ……冗談だって言って……」
声が、幼子のように弱くなる。
「全部……夢だって……わたくしが……間違ってないって……」
エリーズは、一瞬だけ目を伏せた。
そして――
最後の情けとして、はっきりと告げた。
「いいえ」
短く、明確な否定。
「これは夢ではありませんわ。そして――貴方は、道を間違えた」
アンヌの目から、光が消えた。
「……あ……」
口が開いたまま、言葉にならない声が漏れる。
「……いや……いやぁぁぁぁぁぁぁ!!」
悲鳴とも嗚咽ともつかぬ叫び。
アンヌはその場に崩れ落ち、地面を掻き、髪を乱し、もはや令嬢としての体裁すら保てなくなっていた。
「返して……わたくしの……わたくしの物語を……!!」
その叫びに、同情の声は一つも上がらなかった。
哀れみはあっても、救いはなかった。
こうして――
アンヌは完全に、舞台から転げ落ちた。




