証言
「彼とわたくしは、もう赤の他人です」
ララは宣言するように、真っ直ぐアンヌを見据えて言った。
「アンヌ嬢が彼をどう扱おうと、わたくしには関係ありません。――たとえ、使い捨てにしようとしていたとしても」
「どうしてそんな酷いことを言うんですの!? わたくしは、関係ありませんのに……!」
ララとアンヌの言葉を聞きながら、男子生徒の心は完全に折れていた。
取り返しのつかない愚かさを、ようやく骨の髄まで思い知ったのだ。
「貴方の証言には信ぴょう性が欠けますわ」
アンヌは涙を浮かべながらも、なお言い募る。
「現に彼は、エリーズ嬢から嫌がらせの指示を受けたと証言したではありませんか。そもそも――」
アンヌの声が鋭さを帯びる。
「男爵令嬢の分際で、わたくしを貶めようだなんて。身の程を知るべきですわ!」
空気が凍りついた。
「貴方たちが破局したのは、貴方たちの問題でしょう? それをわたくしのせいにするなんて……嫉妬も甚だしいですわ!」
ララは、何か言い返そうとして唇を開き――
けれど、言葉にならなかった。
悔しさと悲しさが込み上げ、ただ涙を滲ませて唇を強く結ぶ。
男子生徒が証言を翻さない限り、アンヌの言い分が“通る余地”は、まだ残っていた。
――その時だった。
パンッ
乾いた音が、噴水広場に鋭く響いた。
アンヌの顔が、勢いよく横を向く。
何が起きたのか理解するより先に、頬に走る、じんじんとした痛みと熱。
群衆は息を呑み、完全な静寂が場を支配した。
「エ、エリー!?」
真っ先に声を上げたのは、ステファーヌとフィリシテだった。
ジェルヴェは一瞬目を見開き――
次の瞬間、思わず「プスッ」と小さく吹き出した。
「な……なにを、なさるんですの!?」
アンヌは唇を震わせながら叫び、ようやく“平手打ちされた”のだと理解して、叩かれた頬を押さえる。
そして、怒りと屈辱に満ちた視線でエリーズを睨みつけた――その瞬間。
パンッ
再び、乾いた音。
今度は、押さえていない方の頬だった。
完全に、逃げ場のない位置からの一撃。
「グーで殴られないだけ、マシだと思いなさい!」
エリーズの怒声が、噴水広場に鋭く響き渡った。
これまで、どれほど悪評を流されようと。
どれほど孤立しようと。
決して声を荒らげることのなかったエリーズが――
初めて、誰の目にも分かる形で怒りを顕にしたのだった。
「わたくしの疑いが晴れるかどうかなんて、正直どうでもいいですわ!」
はっきりと、言い切る。
「けれど――貴方の軽率な行動で人生を変えられ、今も泣いているご令嬢がいる。それは紛れもない事実でしょう!」
エリーズは、ララとアンヌのやり取りを、もう黙って見ていられなかった。
婚約者を心から愛していたララ。
その未来を、何の覚悟も責任もなく踏みにじられたこと。
修復など望めないほどに壊された関係。
それは――
あまりにも、自身の境遇と重なって見えた。
だが、それ以上に。
誰かを想い、信じ、未来を描いた気持ちを、嘲るように踏み潰す行為が、どうしても許せなかった。
「ララ嬢に、謝罪なさい!」
エリーズはアンヌを真正面から睨み据える。
「彼女は、貴方の気まぐれで婚約者との人生を奪われたのよ! その痛みが、その喪失が――貴方には分からないの!?」
広場に、ざわめきが走る。
こんなにも感情を露わにするエリーズを、淑やかで冷静な公爵令嬢としてしか知らなかった者たちは、言葉を失っていた。
だが――
彼女をよく知る者たちは、理解していた。
エリーズは、元来気が強い。
正義のためなら無茶も辞さない性格だ。
そうでなければ、幼い頃、ステファーヌを虐めていた者たちを真正面から“追い払う”など出来るはずがない。
今の彼女は、長い時間をかけて抑え込んできた“本質”が、怒りという形で溢れ出ているだけだった。
ステファーヌとフィリシテは、顔を見合わせ、小さく溜息を吐く。
――ああ、これはもう止まらない。
ジェルヴェは俯き、肩を小刻みに震わせながら必死に笑いを堪えていた。
「大体、爵位が何だというの!? 家柄で人を貶めるというのなら――」
エリーズは勢いのまま、言葉を続けようとして。
「貴方だって、人のこと言えないでしょう! 公爵家のわたくしに対して伯爵――」
「はいはい。どうどう、エリー。そこまで」
背後から、すっと腕が伸びた。
ステファーヌがエリーズの口を塞ぎ、片腕を彼女の首元に回して抱き寄せる。
一方の手で、肩をとん、とん、と優しく叩いた。
「それ以上言うと、本当に収拾がつかなくなる」
感情が昂り、フーっフーっと肩で呼吸をしていたエリーズだったが、ステファーヌの低く落ち着いた声に諭され、次第に理性を取り戻していった。
「エリーズ様」
不意にかけられた、柔らかな女性の声。
振り返ると、そこには居住まいを正したララの姿があった。
瞳は潤み、今にも涙が溢れそうだというのに――その表情には、どこか安堵と感謝が滲んでいる。
「わたくしのために……怒ってくださって、ありがとうございます」
その一言で、エリーズの中に残っていた熱が、すっと引いていく。
エリーズはステファーヌの腕から離れると、ララのもとへ静かに歩み寄った。
その途中で、ララの指先がかすかに震えていることに気づく。
エリーズは、迷いなくララの両手を包み込んだ。
「ごめんなさい……」
指先に力を込めながら、エリーズは言った。
「わたくしのせいで、関係のない貴方たちまで巻き込んでしまったわ」
直接の当事者ではなくとも、自分を巡る騒動が、彼女の未来を壊してしまった事実は変わらない。
「謝って済むことじゃないわよね……」
エリーズは眉尻を下げ、苦しそうに続けた。
「贖罪なんて言葉、自分で口にするのもおこがましいけれど……貴方の気が済むようにしてくれて構わないわ。わたくしに出来ることなら、何だってする」
「そ、そんな……!」
ララは慌てたように首を大きく横に振った。
「エリーズ様に何かしていただこうなんて、思っていません! 贖罪なんて……必要ありません!」
必死に否定しながらも、声は震えていた。
「わたくしたちが……弱かっただけです」
一瞬、言葉を探すように視線を落とし、ララは静かに続けた。
「エリーズ様やステファーヌ様のような関係を築けなかった。それは……わたくし自身の力が、足りなかっただけ」
自嘲でも、責任転嫁でもない。
現実を受け入れた者の、静かな自己認識だった。
「努力が足りなかった……ただ、それだけですわ」
その言葉は、弱音であると同時に、ララ自身が自分を卑下しきらないための、精一杯の矜持でもあった。
「……ジェルヴェ殿。もう結構です。離していただけますか」
一連のやり取りを沈黙のまま見つめていた男子生徒が、はっきりとした声で言った。
「真実を、証言いたします」
ジェルヴェは一瞬だけフィリシテに視線を送る。
フィリシテが静かに頷くのを確認し、男子生徒の拘束を解いた。
解放された彼は一歩前へ出ると、深く息を吸い込んだ。
「先程……エリーズ嬢からアンヌ嬢にぶつかるよう指示された、と申しましたが」
言葉を切り、拳を強く握りしめる。
「あれは――嘘です」
その瞬間、広場がざわめきに包まれた。
「どういうことだ……?」
「今、嘘って……」
囁き合う声を背に、男子生徒は視線を上げ、はっきりと言葉を続ける。
「僕は……アンヌ嬢に頼まれたのです」
アンヌの肩が、びくりと跳ねた。
「エリーズ嬢に近づき、パートナーに誘えと。彼女の評判を裏付ける“証拠”を作るために」
静まり返る。
「僕は言われるまま、エリーズ嬢に声をかけました。正直に言えば……企みがありました」
視線を伏せ、唇を噛みしめる。
「ですが――」
顔を上げたその表情には、迷いではなく後悔が滲んでいた。
「エリーズ嬢は、僕を拒みませんでした」
周囲が息を呑む。
「ご自身に悪評が立っていることを分かっていながら……『私と関わることで困ることになるかもしれません』と、最初にそう仰ったんです」
その場にいた数人が、思わず声を上げる。
「……確かに」
「わたくしも、その場にいましたわ」
「エリーズ嬢、警告していましたもの」
ざわめきが、質を変え始める。
「それでも、僕がお願いすると――」
男子生徒は一度、エリーズの方を見てから、再び前を向いた。
「『それでも構わないのなら』と、受け入れてくださった」
声が、かすかに震えた。
「自分が傷つく可能性より、相手を思いやることを優先して」
沈黙。
誰もが、エリーズの沈黙の意味を理解し始めていた。
「……社交ダンスの日、僕はアンヌ嬢の指示通りに動きました。ぶつかる位置、タイミング、すべて――」
そこで、男子生徒は深く頭を下げた。
「悪いのは、僕です。エリーズ嬢は……何一つ、悪くありません」
その言葉が落ちた瞬間、広場の空気は、完全にアンヌから離れた。




