真相
「どうして……ですの……ステファーヌ様は慧眼の持ち主だと思っていましたのに……」
アンヌは両手で顔を覆い、ぽろぽろと涙を零した。
「わたくしは……エリーズ嬢に、数々の嫌がらせを受けてきましたのよ……。そんな悪女を選ぶなんて……」
嗚咽混じりの声が噴水広場に響く。
だが――
その泣き声に、以前のような同情はもう集まらなかった。
「先程も言ったが」
低く、静かな声。
「エリーは、嫌がらせをするような女性じゃない」
ステファーヌは、はっきりとエリーズを庇うように一歩前に出た。
その背中は、守ると決めた男のそれだった。
「ステファーヌ様は、彼女の本性を知らないだけです!」
アンヌは縋るように声を上げる。
「わたくしは礼儀知らずと罵られ、嘘つき扱いされ……社交ダンスの最中には怪我までさせられましたのよ!? ステファーヌ様だって、ご覧になっていたではございませんか!」
必死な訴え。
しかし、ステファーヌの瞳は、どこまでも冷えきっていた。
感情のない、凍りついたような視線。
その目を真正面から受けた瞬間、アンヌの背筋を悪寒が走る。
――怖い。
初めて、そう思った。
彼は、アンヌを「見て」いない。
そこにあるのは、愛情でも、迷いでも、哀れみでもなく――
エリーズに害をなす存在を、切り分けるための目。
「アンヌ嬢」
名を呼ばれただけで、アンヌの肩がびくりと跳ねる。
「君は、“された”と言うが……」
静かに、一つずつ言葉を選ぶ。
「いつ、どこで、誰が見ている前で、エリーが君に何をした?」
周囲が、ざわりとした。
「礼儀知らずと罵られた? ――その場にいた証人は」
「嘘つき扱いされた? ――具体的に、どんな言葉を言われた」
「怪我をさせられた? ――それは事故か、故意か」
一つ、また一つ。
逃げ道を塞ぐ問い。
「俺はその場にいた。だが、見たのは――」
視線が、わずかに鋭くなる。
「エリーが一方的に責められ、反論もせず黙っていた姿だけだ」
エリーズは、いつも耐えていた。
悪評に晒されても。
教師から失望したと告げられても。
「エリーが、なぜ教師の前で君に問い詰めなかったのか――」
ステファーヌの声が、静かに落ちる。
「君には、エリーの優しさが分からなかったのか」
アンヌの唇が、かすかに震えた。
泣けば守られる。
被害者でいれば信じてもらえる。
――その“常識”が、音を立てて崩れていく。
それでも、アンヌは矜恃を捨てることが出来なかった。
「ですが……!」
必死に声を張り上げる。
「エリーズ嬢は、ご自身の聞き間違いを、わたくしのせいにして責められましたわ! それに……!」
アンヌは縋るように言葉を重ねる。
「社交ダンスの際、エリーズ嬢のパートナーの方が、エリーズ嬢が“態と”わたくしにぶつかったと証言したと……そう、お聞きしましたの!」
――“聞きました”。
その言葉に、数人の生徒がはっと息を呑んだ。
自分の目で見たわけではない。
自分が直接聞いたわけでもない。
伝聞。
噴水の水音の中、沈黙が落ちる。
「……お黙りなさい」
澄んだ、しかし鋭い声が、その沈黙を切り裂いた。
空気が、一変する。
噴水広場の外側――
人混みの奥から、凛とした足取りで歩み出る一団。
「ここから先は、私が引き受けましょう」
誰もが息を呑んだ。
王女フィリシテ。
その隣には、王太子レオナールの右腕と名高いジェルヴェ・フラヴィニー。
そして、その後ろには――
顔を強張らせた男子生徒と、青ざめた女子生徒が一人ずつ。
ざわり、と広場が揺れる。
「今、アンヌ・ビロン嬢が口にした“証言”。その当事者を連れて参りました」
フィリシテの視線が、まっすぐアンヌを射抜く。
「――“聞いた”ではなく、“話した”本人から、直接聞くべきでしょう?」
逃げ場は、もうなかった。
「そうですわね。――では、何から解き明かしましょうか」
フィリシテは扇を軽く畳み、どこか楽しげに言葉を紡いだ。
「順を追って、エリーの疑いを晴らしていきましょう」
「フィリシテ様……?」
突然の登場に、エリーズは目を瞬いた。
ここ最近、フィリシテはアンヌたちと行動を共にしていた。
だからこそ、心のどこかで――自分から距離を置かれたのだと、そう思っていた。
悪評にまみれた自分のそばにいれば、彼女にまで火の粉が飛ぶ。
王女という立場なら、なおさらだ。
それでも。
今、フィリシテははっきりと「疑いを晴らす」と言った。
フィリシテはエリーズを一瞥し、双眸だけを細めて微笑む。
言葉はない。
けれど、その眼差しは確かに告げていた。
――あとは、任せて。と
「まずは、数週間前の件から参りましょうか」
フィリシテの声が、澄んで広場に響く。
「エリーズが“大礼儀堂”と“饗宴実習室”を聞き間違えた――そう噂された件ですわね」
周囲がざわりと揺れた。
「結論から申し上げますと」
一拍。
「エリーズは、聞き間違えてなどいませんでしたわ」
どよめきが走る。
「アンヌ嬢とエリーズの会話を、偶然耳にしていた人物が一人だけおりまして」
フィリシテは視線を巡らせる。
「随分と探すのに手間取りましたけれど……ようやく見つかりました」
扇で軽く示す。
「前へ」
人混みが割れ、一人の女子生徒が進み出た。
顔色は青白く、指先が震えている。
「彼女は御手洗から教室へ戻ろうとしていた際に、御二人をお見かけしたそうですわ」
フィリシテは感情を挟まず、淡々と告げた。
「彼女の証言によれば――」
促されるように、女子生徒は一度唾を飲み込み、震える声で口を開いた。
「アンヌ嬢は……礼法講義室から饗宴実習室へ変更になったと、エリーズ様にはっきりそう伝えていました」
広場が、さらに静まり返る。
女子生徒は平民だ。
貴族間の問題に口を出すことが、どれほどの勇気を要するかは周囲も理解していた。
それでも彼女は視線を逸らさず、言葉を続けた。
「私は、その後、友人からの言伝で大礼儀堂と知らされましたし、他の方たちにも確認を取ったところ、皆そう聞いているようでした。ですから……アンヌ嬢が言い間違いに気付き、エリーズ様にも訂正なさったのだと思っていました」
ざわり、と小さく空気が揺れる。
――だが、それはあくまで“善意の推測”に過ぎなかった。
「……嘘よ」
アンヌの声が、かすれた。
否定の言葉は短く、しかし必死だった。
フィリシテはその様子を見つめ、微笑みを崩さないまま一歩踏み出す。
「では、伺いますわ」
声音は穏やか。
けれど、逃げ道を許さぬ問いだった。
「なぜ、アンヌ嬢ご自身は“大礼儀堂”へ向かわれたのかしら」
アンヌの瞳が揺れる。
「他の方々には“大礼儀堂”と伝えていたのでしょう? それが言い間違いであったなら――」
フィリシテは、あくまで優雅に首を傾げた。
「後から訂正する機会はいくらでもあったはずですわよね?」
微笑みはそのままに、言葉だけが、容赦なくアンヌを追い詰めていった。
「その女は嘘をついていますわ! わたくしを陥れようとしているんですわ!」
アンヌは声を張り上げ、女子生徒を指さした。
指先が、わずかに震えている。
「そんな……! 私は嘘なんて言っていません!」
名指しされた女子生徒は蒼白になりながらも、必死に言葉を紡ぐ。
「二限目が終わった直後です。御手洗付近の廊下で、お二人が話しているのを確かに聞きました! アンヌ嬢が『饗宴実習室に変更になった』と、エリーズ様に――」
「そんなの、デタラメよ!!」
アンヌは叫ぶように遮った。
その声には、先ほどまでの余裕も計算もなかった。
ただ、追い詰められた者の焦りだけが滲んでいる。
「いいえ」
静かに、しかしはっきりと否定する声が響いた。
「彼女の言っていることは、デタラメではありませんわ」
声の主――エリーズだった。
周囲が一斉に息を呑む。
「わたくしは、アンヌ嬢から“いつ”“どこで”言伝を受けたのか、その詳細を一切口にしておりません」
エリーズは視線を逸らさず、淡々と続ける。
「それにもかかわらず、彼女の証言は場所も時間も一致しています。偶然にしては、あまりにも正確ですわ」
ざわり、と空気が揺れた。
アンヌは一瞬、言葉を失い――
次の瞬間、きっとエリーズを睨みつけた。
「……ご自身の疑いが晴れるからって」
震える声で、噛みつくように言う。
「エリーズ嬢ともあろうお方が、平民の女生徒の嘘を肯定するなんて……! 酷いですわ!」
だが、その言葉は――
もはや誰の胸にも、響かなかった。
それは、周囲の視線がアンヌの言葉を信じるものから、疑い、測り、見定めるものへと変わったことを意味していた。




