エリーズ逃走
期末試験の結果は、テスト期間最終日から二日間の休日を挟み、次の登校日に各学年棟の掲示板へと張り出される。
ステファーヌは、持てる力のすべてを出し切った。
そしてエリーズもまた、一切の手加減なく、全力で挑んでいた。
「今日は期末試験の結果発表ですわね」
「うう……マリリーズ、嫌なこと思い出させないでくださいませ……」
マリリーズの言葉に、シルヴィが呻くような声を上げる。
「あらあら、シルヴィったら。身体を動かす授業は得意でも、座学は苦手ですものね」
「それを言わないでください……」
くすりと笑うマリリーズにつられ、エリーズも小さく微笑んだ。
――ほんの一瞬だけ、胸の奥が軽くなった。
しかし、学年棟へ足を踏み入れた瞬間、その空気は一変した。
廊下はすでに騒然としており、掲示板の前には人だかりが出来ている。
「きゃあっ、さすがステファーヌ様!」
「本当に文武両道、眉目秀麗で素敵ですわ!」
歓声。
弾んだ声。
熱を帯びた視線。
これまで次席として注目を集めていた彼だが――今日は、明らかに違っていた。
エリーズの足が、ぴたりと止まる。
視線の先。
掲示板を見上げる一人の少年。
ステファーヌだった。
彼は結果表を見つめたまま一瞬言葉を失い、次の瞬間、信じられないものを見るように目を見開いた。
そして――
ぱっと、花が咲いたように顔を輝かせた。
拳を握り、静かに息を吐く。
その姿を見ただけで、エリーズには分かってしまった。
「エリーズ?」
「どうしました? また顔色が……」
足を止めたエリーズを、マリリーズとシルヴィが心配そうに覗き込む。
――見なくても、分かる。
彼に向けられる惜しみない賞賛。
隠しきれない喜びの表情。
「本当に凄いですわ! 首席だなんて!」
その一言が、決定打だった。
エリーズの身体が、びくりと震える。
どくん。
どくん。
鼓動が耳の奥で鳴り響き、視界がわずかに暗転する。
血の気が、すうっと引いていく感覚。
その瞬間――
ステファーヌが、こちらを振り向いた。
目が合った。
次の瞬間、彼は嬉しそうに人垣をかき分け、真っ直ぐこちらへ向かってくる。
「エリー! 話があるんだ!」
弾む声で、彼は続けた。
「放課後、三階の西側階段に来てくれるかい!?」
その言葉が――
胸に、突き刺さる。
「……い、や……」
掠れた声が、喉から零れ落ちた。
エリーズは一歩、後ずさる。
逃げたい。
聞きたくない。
知りたくない。
その思考が形になるより早く、身体が動いていた。
踵を返し、走る。
教室へ。
ただ、遠くへ。
「エリーズ!」
背後で、マリリーズとシルヴィの慌てた声が響く。
それでもエリーズは振り返らなかった。
胸が張り裂けそうなほど痛くて、足を止める余裕などなかった。
ステファーヌは、エリーズが逃げ出すとは思っておらず、呆然とその場に立ち尽くしていた。
「エリー!!」
我に返り、慌てて後を追おうと足を踏み出した瞬間――
ドンッ、と鈍い衝撃が身体に走った。
「きゃっ」
「すまない!」
前だけを見ていたせいで、相手に気付くのが遅れた。
下の方から短い悲鳴が聞こえ、反射的に謝罪する。
顔を下げると、そこにいたのはアンヌだった。
それを認識した瞬間、ステファーヌの表情が僅かに歪む。
「大丈夫ですわ。わたくしこそ、前を見ておりませんでしたから」
そう言って、アンヌは上目遣いにステファーヌを見上げてくる。
――この女に関わると、ろくなことにならない。
ステファーヌは、嫌というほどそれを理解していた。
眉間に皺が寄りそうになるのを、ぐっと堪える。
「ステファーヌ様、おはようございます。試験結果、拝見いたしましたわ」
アンヌは、逃げ道を塞ぐように一歩前に出て話し始めた。
「首席だなんて、本当に凄いですわ! ですが……当然ですわよね。ステファーヌ様がどれほど努力されていたか、わたくし、よく存じておりますもの」
――何を、知ったつもりでいる。
アンヌが知っているステファーヌなど、学園で見せている一面に過ぎない。
それを、まるで自分だけが理解者であるかのように語られることに、胸の奥に不快感が溜まっていく。
だが、ステファーヌはそれを表に出さなかった。
「ありがとう」
柔らかな仮面の笑顔を貼り付ける。
「そうだ。君にも話がある。今日の放課後、時間はあるかな」
一瞬、アンヌの表情がきょとんとし、次の瞬間にはぱっと花が咲いたように明るくなった。
「はい! ございますわ!」
弾んだ声で即座に答える。
「では、放課後、三階の西側階段に来てくれ」
「承知しましたわ」
嬉しさを隠そうともしないアンヌの様子を一瞥し、ステファーヌはそれ以上言葉を交わさず背を向けた。
彼の視線は、すでに教室の先――
そして、先ほどエリーズが消えていった方角にあった。
恍惚とした表情でその場に残るアンヌを置き去りにして、ステファーヌは静かに歩き出す。
エリーズはその日一日、ステファーヌから逃げるように彼を避け続けた。
視線を合わせない。距離を取る。気配を感じたら、すぐにその場を離れる。
しかし――
帰りのホームルームが終わった直後、ステファーヌは迷うことなくエリーズの元へやって来た。
「エリー。話したいことがある」
低く、しかしはっきりとした声。
「必ず来てくれ。……来てくれるまで、俺はずっと待ってるから」
それだけを告げると、ステファーヌはそれ以上何も言わず教室を出て行った。
残された教室に、ざわめきが落ちる。
その様子を見ていたマリリーズとシルヴィが、心配そうにエリーズへと近付いた。
「エリーズ……どうされますの?」
「もし、行きたくなかったら、わたくしが断ってきますよ」
エリーズは答えず、鞄の持ち手をぎゅっと握り締めた。
「二人とも……ありがとうございます。少し、考えさせてください」
二人はそれ以上踏み込まず、静かに頷いた。
エリーズは目を閉じる。
――ステファーヌは、何を言おうとしているのか。
――何を、伝えようとしているのか。
あの宣戦布告。
あの賭け。
過去の約束を、信じてもいいのか。
それとも、覚悟を決めるべきなのか。
自分に勝ってでも守りたい存在。
その言葉が、胸の奥で重く沈む。
単純に考えれば、守りたい相手に宣戦布告などしない。
打ち負かす必要もない。
――ならば。
守りたいのは、自分ではない誰かなのだろう。
嫌な考えが、頭の中を支配していく。
本当は行きたくない。
話なんて聞かずに、このまま逃げてしまいたい。
――わたくし、こんなにも弱くて、心の狭い人間だったのね。
ステファーヌとアンヌが並んでいる姿を想像するだけで、胸の内側が黒く塗り潰されていく。
怖い。
彼が何を告げるのか、知るのが怖くて堪らない。
「エリー」
静かな声が、背後から聞こえた。
「部外者が口を挟むことではないけれど……行くべきよ」
振り返ると、そこにはフィリシテが立っていた。
その言葉に、エリーズは思わず目を見開く。
普段であれば、どんな状況でも自分の味方をしてくれる彼女が――
まるでステファーヌの肩を持つような言い方をしたからだ。
「貴方は、ステファーヌ様からの賭けを受けたのでしょう?」
フィリシテの眼差しは、厳しくも真っ直ぐだった。
「宣戦布告を受け入れたのなら、最後まで向き合う責任があるわ」
その言葉は、冷静で、正論だった。
だからこそ、エリーズの胸に深く突き刺さった。
「わたくし……行ってきますわ」
そう口にした瞬間、覚悟は決まった。
恐怖で身体は震えている。
それでも、彼は正面からぶつかってきた。
ならば――
逃げずに向き合うべきだ。
エリーズは立ち上がり、教室を後にした。
彼の待つ場所へと、足を運ばせる。
三階の西側階段。
普段はほとんど使われない、人目につかない場所。
だが今回は違った。
皆の前で約束された“決着の場”。
野次馬根性の生徒たちが、すでに集まっている。
「すみません……通していただけますか」
背後から声をかけると、生徒たちは一瞬驚き、やがてざわめきながら道を開けた。
人垣が割れる。
その先――
エリーズの視界に、光景が飛び込んだ。
ステファーヌが、アンヌの肩を支えていた。
まるで抱き寄せるように、互いに身体を寄せ合っている二人。
――あ。
音が、消えた。
世界が、そこで切り取られた。
人混みが完全に割れ、ステファーヌの視線がエリーズを捉える。
目が合った。
その、次の瞬間。
エリーズは踵を返し、来た道を走り出していた。
「エリー! 待ってくれ!!」
背後から叫び声が響く。
「誤解だ!!」
そんな言葉、届くはずもなかった。
理解しようとするより先に、心が壊れた。
身体が、逃げろと命じた。
走る。
とにかく、走る。
廊下を駆け抜け、教室へ飛び込み、鞄を掴み、また飛び出す。
「エリーズ!?」
「ちょ、どうされましたの!?」
マリリーズとシルヴィの声が聞こえたが、足は止まらない。
――今、止まったら、全部、壊れる。
「エリー!! 待ってくれ!! お願いだから、話を――!」
追ってくる足音。
距離が縮まっているのが分かる。
エリーズは中央階段へ飛び込んだ。
一段、二段――
駆け下りる途中で、背後から伸びた手が視界に入る。
捕まる。
そう思った瞬間。
エリーズは壁を蹴った。
身体をひねり、宙で反転し、ステファーヌの腕をすり抜ける。
――まるで、獣のように。
そのまま階段を飛び降りた。
「……は?」
あまりにも人間離れした動きに、ステファーヌの思考が一瞬止まる。
「エリーズ!?」
呆然とする声だけが、階段に響いた。




