下賎は止まぬ
エリーズが回復するまでに、三日を要した。
幸い、期末試験には間に合い、全快した状態で臨むことが出来た。
テスト期間は五日間。
午前中は試験、午後は帰寮して自主学習に充てられる。
この期間中はサークル活動もすべて休止となる。
国内最高峰と謳われるこの学園で、少しでも良い成績を残そうと、生徒たちは皆一様に勉学に励んでいた。
そのため、噂話に興じる余裕などなく、エリーズたちを巡る騒動も、生徒たちの間では一時的に鳴りを潜めていた。
そのことに、エリーズは胸を撫で下ろした。
そして、彼女が登校出来るようになってからは、以前と変わらぬ日常が少しずつ戻ってきていた。
マリリーズとシルヴィが、当たり前のように登下校を共にし、ランチにも誘ってくれる。
最初は、二人が周囲から何か言われるのではないかと怖くなり、距離を取ろうとした。
けれど、二人は迷いなく言ってくれたのだ。
――一緒にいたい、と。
たったそれだけの言葉が、エリーズには嬉しくて堪らなかった。
ただ、一つだけ、気に掛かることがあった。
テスト期間の少し前。
授業中に落馬してしまったことまでは、はっきりと覚えている。
だが、その後の記憶が、どうにも曖昧なのだ。
誰かの温もりに包まれていた気がする。
とても強くて、優しい腕だった。
そして、その“誰か”は――
ステファーヌだったような気がした。
――そんなはず、ないわよね。
エリーズは小さく首を振った。
彼とは、登校を再開してから、一言も言葉を交わしていない。
それなのに、朦朧とする意識の中で、彼が昔の約束を覚えていてくれたような気がしてならなかった。
あの約束の想いは、今も変わっていないのだと。
そう、打ち明けられたような――。
そして、額に口付けられた感触まで、はっきりと残っている。
――なんて。
エリーズは胸の内で、小さく自嘲する。
きっと、あれは都合のいい夢。
弱っていた心が見せた、幻に過ぎない。
そうでなければ――
期待してしまう自分が、あまりにも愚かだった。
テスト期間は、気付けばあっという間に過ぎ去り、最終日を迎えていた。
この日を境に、試験期間中は中止されていたすべての活動が再開される。
「ステファーヌ様。この後、喫茶店で今回の座学の振り返りをなさいませんか? クラスの皆様と、そう提案していましたの」
アンヌが柔らかな笑顔でそう声をかけた。
ステファーヌは返事をする前に、ふと視線を教室の一角へと向けた。
そこでは、エリーズがマリリーズ、シルヴィと共に帰り支度を終え、静かに教室を出ていくところだった。
――アンヌの言う“皆”の中に、エリーズたちは含まれていない。
「この後、ポロの練習がある。遠慮しておく」
そう言って、ステファーヌは鞄を手に取った。
活動が再開されるとはいえ、参加は自由だ。
だが、アンヌたちに付き合うくらいなら、練習に出る方がよほど有意義だった。
もしエリーズが参加するのなら、振り返り学習を選んでいたかもしれない。
だが、彼女が行かないのなら、そこにステファーヌが行く理由も、意味もない。
それ以上に――
エリーズたちを除外したまま「クラスの皆」などと口にしたアンヌに、抑えきれない苛立ちが湧いていた。
ステファーヌは素っ気なく踵を返し、教室を出ようとする。
「あのっ……! でしたら、わたくしもポロの練習を見に行ってもよろしいですか?」
アンヌが慌てて声をかけ、引き止めた。
ステファーヌは一瞬だけ立ち止まり、顔だけを振り返る。
「――ダーメ」
短く、はっきりと。
「君たちは、この後テストの振り返りをするんだろう? それに、アンヌ嬢がポロの練習を見に来る理由も、必要もない」
それは、取り繕うことのない拒絶だった。
「ステファーヌ! お前、またそんな言い方を!」
男子生徒の一人が声を上げるが、ステファーヌは聞こえなかったかのように、そのまま教室を後にした。
今も昔も――
常に自分を見ていてほしい相手は、ただ一人だけだ。
ポロだって、元々はエリーズが観戦を好んだから始めたに過ぎない。
彼女に良いところを見せたくて。
彼女の好きなものに触れていたくて。
エリーズが、練習にも試合にも姿を見せなくなって、どれほど経っただろう。
来ないと分かっていても、つい彼女の姿を探してしまう。
喜ぶ顔が見たくて。
叱られることも多かったが、真剣に助言をくれ、自分のことのように反省会をしてくれた。
――それが、何より嬉しかった。
教室に残されたアンヌは、俯き、震える声で呟いた。
「わたくし……ステファーヌ様に、嫌われてしまったのでしょうか……」
「気にすることないですよ、アンヌ嬢! アイツ、元々クールなだけですから」
「そうそう。たぶん、照れ隠しですよ」
「俺だって、アンヌ嬢に見に来られたら張り切るし! かっこ悪いところ、見られたくないですもん!」
無責任な慰めの言葉が、次々とアンヌの耳に流れ込む。
――だが、そのどれもが、真実とはかけ離れていた。
「そうだ! 喫茶店に行く前に、クラス全員でステファーヌの応援に行くのはどうだ?」
「お、いいなそれ! 皆で応援なら、あいつもダメとは言わないだろ」
その一言を皮切りに、教室の空気は一気に傾いた。
いつの間にか、“ステファーヌの応援に行く”という流れが、当然のように出来上がっていく。
「皆様……」
アンヌは、はっとしたように顔を上げた。
「だから、ね。アンヌ嬢、そんな悲しそうな顔しないで」
「アンヌ嬢に悲しい顔は似合わないよ」
「ステファーヌだって、本当は君に応援されたら嬉しいはずですよ」
男たちは競うように声をかけ、アンヌを慰め、持ち上げる。
――まるで、彼女を中心に世界が回っているかのように。
「ありがとうございます……」
アンヌが、飛び切りの笑顔でそう返すと、男たちは一斉に息を呑んだ。
その笑顔一つで、簡単に心を掴まれてしまうことにも気付かずに。
「わたくし……このクラスで過ごせて、とても幸せですわ」
ふっと、アンヌの声が少しだけ曇る。
「……一部の方には、あまり好かれていないようですけれど」
その言葉に、空気が一瞬、凍りついた。
「そんな! アンヌ嬢を嫌う奴がいるなんて!」
誰も名前を出していないのに、誰もが、同じ人物の顔を思い浮かべていた。
「大丈夫ですよ。アンヌ嬢の方が愛想もいいし、何より可愛いですから」
「アンヌ嬢が悲しむ姿なんて、俺たち見たくないですし」
「今度は俺たちが守りますよ。悪女になにかされる前に」
「そうそう、アンヌ嬢は安心しててください」
「……皆様」
アンヌは口元に手を添え、感極まったように瞳を潤ませた。
「本当に……心強いですわ」
その仕草に、男たちはますます昂る。
――けれど。
その仮面の下で、アンヌは確かに、笑っていた。
静かに。
確信に満ちて。
試験期間中、息を潜めていたはずのエリーズへの悪評が、再び――音を立てて、動き出すのを感じながら。




