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医務室での出来事

 ――彼女が、こんなにも弱っているなんて。


 思ってもいなかった。


 いや、違う。

 見ようとしていなかったのだ。


 自分のことばかりだった。


 エリーズの隣に“立てる”男になりたい。

 俺が選び、エリーズが選び、互いに並び立つのだと――周囲に認めさせたい。


 その想いばかりが先走り、気づけば、彼女を追い詰めていた。


 腕の中のエリーズは、呼吸が荒く、ぐったりとしている。


 ――こんなになるまで、気づいてやれなかったなんて……


 奥歯を、ぎり、と噛み締める。


 分かっていたはずだった。

 誰よりも近くで、彼女を見てきたはずだった。


 エリーズは、苦しい時ほど気丈に振る舞う。

 悲しみも、弱さも、まるで存在しないかのように隠してしまう。


 母親を失ったあの時も、そうだった。


 あの時、誓ったのに。


 弱音も、弱気も、胸の奥に押し込めて、本当は――この華奢な身体の内側で、独り泣いているただの少女なのだと。


 知っていたはずなのに。


 悔しくて、歯痒くて、情けなくて。

 喉の奥に、何かが詰まったように痛くなる。


 ――エリーズを、守れる人間になる。


 泣きじゃくる彼女を抱きしめながら、あの日、確かにそう誓った。


 だからこそ、たゆまぬ努力を重ね、今の自分がある。


 それなのに――


 自分の不甲斐なさで、噂を止めることも出来ず。

 挙げ句の果てに、彼女から友人も、人望も、奪ってしまった。


「……ステファー……?」


 薄く開いた瞳。

 かすれた声で、名前を呼ばれる。


「情けない……顔……なんて、表情(かお)……してるのよ……」


 熱が上がっているのだろう。

 頬は赤く、うっすらと汗が滲んでいた。


 苦しいはずなのに、それでも彼女は、ステファーヌの歪んだ表情を気にかける。


 弱々しく、いつもの口調で。


 ――叱責の形をした、優しさで。


 その手が、彼の頬に触れた。


 ステファーヌは泣きそうになるのをぐっと堪えエリーズから顔を逸らした。


 医務室に辿り着き、ドアを開けて中へ入ると、養護教諭の姿はなかった。


 ステファーヌは奥に並ぶベッドへと向かい、空いている一つにエリーズをそっと寝かせる。


「……ううっ……」


 苦しげな声が、微かに漏れた。

 先ほどよりも明らかに顔色は悪く、呼吸も浅く乱れている。


 頭痛がするのだろうか。

 今まで見たことがないほど、彼女の眉間には深く皺が刻まれていた。


「エリー、苦しいのかい? すぐ先生を呼んでくるから、ここで待ってて」


 そう言って踵を返した、その時だった。


 ――くん。


 制服の裾が、後ろから引かれる。


「……エリー?」


 振り返ると、エリーズが弱々しく、しかし必死に裾を掴んでいた。


「……どこ……行くの……?」


 朦朧とした瞳のまま、上半身を起こそうとする。


「だめだよ」


 ステファーヌは慌てて戻り、彼女の肩に手を添えて、そっとベッドに寝かせた。


「先生を呼んでくるだけだ。すぐ戻る」


 そう聞かせても、エリーズの指は離れなかった。


「また……わたくしの前から……いなく、なるの……?」


 眉尻が下がり、熱を帯びた瞳が、潤んで揺れる。


「もう……だれも……いなく、ならないで……」


 裾を掴む手も、紡がれる言葉も、震えていた。


 その瞬間――

 ステファーヌの胸が、ぎゅっと締め付けられた。


 こんなにも弱るまで。

 こんな言葉が零れるほどまで。


 彼女は、独りで耐えてきたのだ。


 初めて聞いた、エリーズの不安。

 初めて晒された、恐怖。


 ステファーヌは、そっとその手を包み込んだ。


「……いなくならない」


 力を込めすぎないように、優しく、確かに。


 もう一方の手で、彼女の額にかかった前髪を払う。


 潤んだ瞳が、まっすぐに彼を映す。


「俺の気持ちは――あの時の約束から、一ミリも変わってない」


 握った手を離さぬまま、ステファーヌはそっと身を屈め、彼女の額に口付けた。


 それは誓いであり、守るという意思そのものだった。


 エリーズは一瞬、驚いたように目を見開き――

 次の瞬間、ほっとしたように微笑んだ。


 熱のせいもあるのだろう。

 その笑顔はどこか艶を帯びていて、ステファーヌの胸が、どくりと跳ねる。


「……もう、起きていちゃだめだよ。体に障る」


 優しく言い聞かせるように、頭を撫でる。


「――おやすみ、エリー」


 その声に安心したのか、彼女は糸が切れたように目を閉じ、すぐに小さな寝息を立て始めた。


 深く、静かな眠り。


 その寝顔を確認した瞬間――

 ステファーヌの視界が、滲んだ。


 ぽろり、ぽろりと。

 堪えていた涙が、止めどなく零れ落ちる。


 守ると誓ったのに。

 護れる男になると、あれほど誓ったのに。


 結局、また――

 エリーズが悪役を引き受けることで、俺は守られていた。


 あの頃と、何も変わっていない。

 ヘタレで、無力で、情けないままだ。


 そう思った瞬間、胸の奥に溜め込んでいたものが、一気に溢れ出した。


 彼女が、どれほど追い詰められていたのかも知らず。

 「守るため」「認めさせるため」などと、都合のいい言葉を並べて、彼女を独りにした。


 ――辛い時に、好きな女一人守れない。


 その事実が、刃のように胸を抉る。


「……やっぱり……俺なんかが、君のそばにいる資格なんて……」


 そこまで口にして、ステファーヌははっと我に返った。


 ぶんぶんと、首を振る。


 ――違う。

 それは、逃げだ。


 エリーズの婚約者として釣り合っていないことも、役不足だということも、痛いほど分かっている。


 それでも。


 それでも、彼女の隣に立ちたい。

 彼女の隣は、自分で在りたい。


 誰かに奪われるからではない。

 独占したいからでもない。


 ――彼女が笑える場所を、守りたい。


 ステファーヌは、眠るエリーズの手を、そっと握った。


「……もう二度と、君を独りにはしない」


 小さく、しかし確かな声で。


 それは、弱音ではなく。

 逃げでもなく。


 次こそ、本当に守るための誓いだった。


 今度こそ養護教諭を呼びに行こうと、間仕切りのカーテンから出た瞬間、医務室のドアが勢いよく開いた。


 肩を上下させ、軽く息を切らしたフィリシテ、マリリーズ、シルヴィの三人だった。


「ステファーヌ様、エリーの様子は!?」

「エリーズは大丈夫ですの!?」

「怪我は……してませんでしたか?」


 矢継ぎ早に詰め寄られ、ステファーヌは一瞬たじろいだが、すぐに人差し指を唇に当てた。


「エリーは今、眠っている。だから……声のボリュームを抑えてくれるかい」


 その一言で、三人ははっと我に返り、息を潜める。

 張り詰めていた表情が、わずかに緩んだ。


 ちょうどその時、養護教諭が医務室へ戻ってきた。


「……うん。落馬による脳への深刻なダメージはなさそうね。打ち身や擦過傷は、魔法で治しておくわ」


 眠るエリーズに視診の魔法をかけながら、淡々と告げる。


 その言葉に、四人は揃ってほっと息を吐いた。


「けれど――」


 次の瞬間、養護教諭の声が鋭くなる。


「目に見える傷は治せても、目に見えない傷は治せないわ」


 空気が、ぴしりと張りつめた。


「この子、相当無理をしていたようね。顔色、呼吸、魔力の巡り……どれを見ても限界寸前よ。ここ最近、まともに眠れていなかったでしょう」


 誰も、否定できなかった。


 エリーズがどれほど追い詰められていたか。

 どれほど“平気なふり”をしていたか。


「しばらく医務室で様子を見たあと、寮に戻して療養させるわ。――ほら、あなたたちは授業に戻りなさい」


 有無を言わせぬ口調でそう告げられ、四人は静かに医務室を後にした。


 廊下に出た途端、重たい沈黙が落ちる。


「……ひっ……く……」


 最初に声を漏らしたのは、シルヴィだった。


「私……どうして……エリーズのそばに、いてあげなかったんだろう……」


 両手で口元を押さえ、肩を震わせる。


「一人にしてほしいって言われたからって……そのまま、信じて……」


 声が、次第に掠れていく。


「こんなになるまで、追い詰められていたなんて……」


 その言葉に、マリリーズも目に涙を浮かべた。


「わたくし……エリーズの言葉を、そのまま受け取って……本当は助けてって言えなかっただけなのに……」


 拳を握り締め、震える声で続ける。


「辛い時に支えてあげることも出来なかったなんて……友達失格ですわ……」


 二人の嗚咽が、廊下に静かに滲む。

 ステファーヌは、何も言えずに俯いた。


 ――責める資格など、ない。


 独りにしたのは、彼女たちだけではない。

 一番近くにいるはずだった自分こそが、エリーズを追い詰めた。


 その沈黙を破ったのは、フィリシテだった。


「……違うわ」


 二人の前に立ち、静かに言う。


「エリーは、誰よりも強くて、誰よりも優しいから。私たちを巻き込まないために、独りで背負ったのよ」


 そして、ゆっくりと拳を握る。


「だからこそ――今度は、私たちが離れない」


 涙を拭い、強い視線で二人を見る。


「ええ……」

「今度こそ、私たちが支えますわ」


 フィリシテは一度、深く息を吸った。


「……けれど、私はまだやるべきことがあるの。本当は、私もエリーのそばにいたい。けれど――それでは、彼女を守りきれない」


 マリリーズとシルヴィは迷いなく頷く。


「わかっていますわ、フィリシテ様」

「エリーズの“今”を支えるのは私たちの役目。そして、これ以上彼女が傷つかない未来を作るのは――フィリシテ様にしか出来ません」


 その言葉に、フィリシテは小さく微笑み、静かに礼を述べた。


「ありがとう。……心強いわ」


 そして、視線がゆっくりとステファーヌへ向けられる。


「――あなたは、これからどうなさるおつもり?」


 マリリーズとシルヴィも、彼を真っ直ぐに見据えた。


 ステファーヌは一瞬言葉を詰まらせ、やがて低く答えた。


「……俺は、何もしない。正確には……今は、何も出来ない」


 その言葉に、二人の令嬢は思わず声を荒げた。


「それでもエリーズの婚約者ですの!?」

「元凶が誰か分かっているのでしょう!? ステファーヌ様が毅然と否定なさっていれば、エリーズがここまで追い詰められることは……!」


 だが、フィリシテは静かに手を上げ、二人を制した。


「……いいの。責めても意味はないわ」


 彼女の声は、感情を抑えた王女のそれだった。


「アンヌ・ビロンは、言葉を切り取り、歪め、“自分が被害者である物語”を作ることに長けているわ」


 一瞬、冷たい光がフィリシテの瞳に宿る。


「ステファーヌ様が正面から否定すれば、彼女は“今度は別の被害者”を演じるだけ。大礼儀堂の一件より、もっと残酷な形でね」


 マリリーズとシルヴィが息を呑む。


「嘘をここまで広げ、無関係な者まで味方に引き込める人物よ。同じ土俵で戦えば、またエリーが傷つくだけ」


 フィリシテは静かに言い切った。


「だから、私たちは別のやり方を取るわ。アンヌより“正しい側”を増やす。彼女の言葉が通用しない場所で、逃げ道を塞ぐの」


 そして、フィリシテははっきりと告げる。


「もし、ステファーヌ様が今すぐエリーの傍に戻れば――次は、こう囁かれるでしょうね」


 ――体調不良を理由に同情を引き、心優しい婚約者を縛り付ける公爵令嬢。


「神様から試練を与えられた悲恋として、アンヌ嬢とステファーヌ様の関係は、さらに美化され、応援されるわ」


 マリリーズとシルヴィが悔しげに唇を噛む。


「……なんて、愚かな」

「真実より、物語を信じる人が多すぎますわ」


 フィリシテは静かに、だが冷酷に告げた。


「真実なんて、どうでもいいのよ。人は、自分が気持ちよく酔える物語しか見ない」


 そして、最後に。


「だから――その“物語そのもの”を、私が終わらせるわ」


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