不調
ステファーヌの宣戦布告は、瞬く間に学園中へと知れ渡った。
噂とは、いつの時代も人の悪意と好奇心を餌にして膨らむものだ。
今回の噂も例に漏れず、原形を留めないほど歪められていった。
――学園で“本当の愛”を見つけたステファーヌが、
その愛を認めさせるため、婚約者に宣戦布告をした。
――そして、その“愛する者”は、伯爵令嬢アンヌ・ビロンである。
そんな筋書きが、まるで真実であるかのように語られ、
人の口から口へと広がっていく。
結果として貼られた新たなレッテル。
“婚約者に捨てられた、哀れな公爵令嬢”
その呼び名は、以前の「悪役令嬢」よりも、より陰湿で、より残酷だった。
「エリーズ!? 貴方、顔色が悪いですわよ」
「本当に……無理をなさらない方が……」
宣戦布告の翌日。
教室に姿を現したエリーズは、誰の目にも明らかに様子がおかしかった。
血の気を失ったような青白い顔。
目の下には、隠しきれない疲労の影。
マリリーズとシルヴィは、彼女が教室に入ってくるなり駆け寄った。
「マリリーズ、シルヴィ……心配してくれてありがとう。けれど、大丈夫ですわ」
エリーズはそう言って、精一杯に微笑んだ。
けれど、その笑顔はどこか張り付いたようで、痛々しかった。
体調不良の原因は、明白だった。
積み重なる疲労。
止まることのない悪評。
そして、ステファーヌからの宣戦布告。
どれもが、確実に、着実に、エリーズの心を削り続けていた。
――噂なんて、すぐに収まる。
そう信じていた。
いや、そう“思い込もうとしていた”。
だが、人の悪意はそんなに都合よく消えてはくれない。
沈黙しても、距離を取っても、放っておいてくれるほど、優しくはなかった。
自ら婚約者を突き放し、友人とも距離を置き、すべてが沈静化するまで――独りで耐えるつもりだった。
けれど。
独りでいるという選択が、これほどまでに心を削るものだとは、エリーズは知らなかった。
三限目に入る頃には、エリーズの体調は明らかに限界へと近づいていた。
頭の奥がじんじんと痛み、視界の端が僅かに揺れる。
息を吸うたび、胸の奥に重い鉛が沈んでいるような感覚があった。
それでも――
彼女はそれを一切表に出さなかった。
背筋を伸ばし、表情を整え、いつもの完璧な公爵令嬢という仮面を、より強く被り直す。
三限目の授業は、乗馬。
屋外の障害飛越競技場に、生徒たちが集められていた。
「本日は期末試験と同じ、障害飛越競技の練習を行う」
男性教諭が低く通る声で告げる。
「一年生の試験では、タイムや障害の高さは評価対象にはならない。見るのはただ一つ――騎手としての手腕だ」
生徒たちの背筋が、自然と伸びた。
「そうだな……手本としては――」
教諭の視線が、迷いなく一人に向けられる。
「ラブラシュリ嬢。皆に手本を見せてやってくれ」
一瞬、空気が止まった。
ざわ、と小さなざわめきが起こる。
「皆も、彼女の動きと、馬との関係性をよく見ておくように。彼女は、この学年で最も完成度の高い騎手だ」
称賛の言葉。
だが同時に、それは――逃げ場のない指名だった。
エリーズの喉が、ひくりと鳴る。
今の自分の状態を、彼女自身が一番よく分かっている。
足先に力が入りにくい。
頭が、微かに霞んでいる。
それでも。
「……承知しました」
エリーズは静かに一礼した。
誰一人として、その声が、ほんの僅かに掠れていたことに気づいた者はいなかった。
――完璧であることを、求められる者ほど、弱音を吐くことを許されない。
エリーズは、その現実を噛み締めながら、ゆっくりと、馬のもとへと歩き出した。
艶やかな毛並みを持つ馬の首元に手を添え、いつもと同じように優しく撫でる。
「……よろしくね」
囁く声は、誰に聞かせるでもないものだった。
馬は小さく鼻を鳴らし、エリーズの存在を確かめるように身じろぎする。
その温もりに、ほんの一瞬だけ、心が緩みそうになった。
すでに鞍をはめられた馬をスタート地点まで導き、
エリーズは迷いのない所作で騎乗する。
背筋を伸ばし、手綱を整え、視線を前へ向けた。
「それでは、始めてください」
教諭の合図と同時に、エリーズは馬腹に軽く合図を送った。
馬は応えるように駆け出す。
一つ目の障害。
呼吸を合わせ、難なく越える。
二つ目。
脚の合図、手綱の調整、完璧。
三つ目。
着地も美しい。周囲から小さなどよめきが起こる。
――いつも通り。
四つ目の障害へ向かう、その刹那。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
地面が傾く。
距離感が、一瞬で狂う。
――しまっ……!
判断が、半拍遅れた。
合図がずれ、馬の踏み切りが合わない。
次の瞬間――
身体が、宙に投げ出された。
風を切る音。
反転する視界。
受け身を取ろうとした腕が、力を失う。
鈍い衝撃と共に、背中と肩が地面に叩きつけられた。
「――っ!!」
息が、肺から一気に押し出される。
視界が白く弾け、次いで、遅れてやってくる激痛。
周囲が、凍りついた。
――完璧だった公爵令嬢が。
――首席のエリーズ・ラブラシュリが。
盛大に、落馬した。
「エリー!!!!」
誰よりも早く、その名を叫んだのはステファーヌだった。
完璧だと信じられていたエリーズの、初めての失態。
あまりに突然の出来事に、教諭ですら一瞬、状況を理解できずにいた。
その空白を切り裂くように、ステファーヌは全速力で駆け出していた。
「エリー! 大丈夫かい!」
地面に倒れ、痛みで身動きの取れないエリーズのもとへ膝をつく。
震える手で、しかし慎重に、彼女の身体に腕を回し上半身を支えた。
「げほっ……ステファー……」
かすれた声で、自分の名を呼ばれた瞬間。
ステファーヌの胸に、張り詰めていたものが一気に崩れ落ちた。
「……よかった。本当に……」
安堵と恐怖がないまぜになり、思わず彼女を抱きしめていた。
腕が、僅かに震えている。
それでも、エリーズはその腕の中で、確かな温もりを感じていた。
彼の心臓の音。
焦りと恐怖が、直に伝わってくる。
――このまま、ずっと。
そう願ったのも束の間、ステファーヌははっとしたように力を緩め、そっと彼女から身体を離した。
次の瞬間、迷いのない動作でエリーズを抱え上げる。
――お姫様抱っこ。
「エリーズを、医務室へ連れて行きます」
静かだが、拒む余地のない声音だった。
「待ちなさい。揺らしてはいけない。私が――」
遅れて駆け寄ってきた男性教諭が、エリーズを引き取ろうと手を伸ばす。
その瞬間。
「――エリーに、触るな!!」
張り詰めた空気を引き裂く、怒声。
その場にいた全員が、息を呑んだ。
ステファーヌ自身も、己の言葉に一瞬だけ目を見開いた。
だが――正気に戻っても、腕の力を緩めることはなかった。
エリーズを、誰にも渡さないと言わんばかりに、強く抱き寄せる。
「……失礼しました」
低く、しかしはっきりと告げる。
「彼女は――俺が、医務室へ連れて行きます」
それは宣言であり、譲らぬという意思表示だった。




