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宣戦布告

 人とは、どうしてこうも現金で、愚かで、無分別なのだろうか。


「エリーズ嬢、ごきげんよう」

「エリーズ様に置かれましては、本日も麗しく――」


 つい昨日まで、あれほど侮蔑の眼差しを向けていた相手にまるで何事もなかったかのように、平然と挨拶を投げかけてくる。


 もちろん、今なおエリーズに嫌悪を抱く者も存在する。

 だが――昨日の出来事は、あまりにも衝撃的だった。


 王太子が自ら一年棟へ足を運び、エリーズとステファーヌがARCの候補生であることを明言した。


 それだけではない。

 エリーズが王太子のみならず、その側近たちとも親しい関係にあることを、あの場に居合わせた者たちは否応なく思い知らされたのだ。


 エリーズの人脈は、誰もが羨むものだった。


 賢い者であれば――誰に付くべきか。

 誰の傍にいれば、甘い汁にありつけるのか。


 一目で理解出来る。


 公爵家の令嬢。

 頭脳明晰、成績優秀。

 そして、王族との繋がりも浅くない。


 その事実を前にして、

 彼女を貶め続けるよりも。

 傍観を決め込むよりも。


 ――少しでも近づき、取り入り、おこぼれに預かろうとする方が、よほど“賢明”だという判断に至っただけだ。


 エリーズは、そんな彼らの変わり身の早さを、ただ冷ややかに見下ろしていた。


 教室へと足を踏み入れた瞬間、耳に飛び込んできたのは騒がしい声だった。


「ステファーヌ!ARCの候補生に選ばれるなんて流石だな!」

「俺たちも期待してるぞ!」

「ステファーヌ様、素敵ですわ!」


 ARC候補生に選ばれたという事実は、瞬く間にクラス中を熱狂させていた。

 生徒たちは我先にとステファーヌの周囲を囲み、称賛の言葉を浴びせている。


「ほらっ、アンヌ嬢。勇気を出してくださいませ」

「え、で、でも……」

「アンヌ嬢なら問題ありませんわ」


 数人の女生徒に背中を押され、アンヌはステファーヌの前へと進み出た。

 頬を赤らめ、どこか健気さを演出するように俯きながら、彼の前に立つ。


「あ、あの……ステファーヌ様。その……わたくし、応援していますわ」


 ステファーヌは、無表情のままアンヌを見つめた。


 おずおずと顔を上げたアンヌと、ふと目が合う。

 だが、そこに熱はなかった。


「どうも」


 それだけ言うと、頬杖をつき、興味なさそうに視線を逸らす。


 あまりにも素っ気ない対応に、周囲の方が先に反応した。


「おまっ……どうもってそれだけかよ!」

「あの!アンヌ嬢が応援してくれてるんだぞ!」

「くそ~!羨ましいやつめ!憎らしいのに憎めない!」

「ふは、何だよそれ」


 僻みと冗談が入り混じった声に、ステファーヌは思わず噴き出した。


「少しは俺たちの気持ちも察しろよ~」

「こうしてやる!ほら、かっこ悪いところも見せろ!」

「やめろって!」


 男子生徒たちに囲まれ、揉みくちゃにされるステファーヌ。

 綺麗に整えられていた髪は、あっという間にくしゃくしゃになっていた。


 ステファーヌはエリーズと同じ公爵家の人間だが、その在り方は正反対だった。

 近寄り難く、孤高を纏うエリーズとは対照的に、彼は常に人の輪の中心にいて、家柄に関係なく多くの者と笑い合う。


 その光景を――

 エリーズは、教室の片隅から静かに見つめていた。


 騒がしく、眩しく、あまりにも遠い世界。


 彼の一番近くにいるのは、自分だと思っていた。

 けれど、こうして目の当たりにすると、否応なく思い知らされる。


 ――そこに、自分の居場所はないのだと。


 胸の奥に、じくりと痛みが走る。


 エリーズが何事もなかったかのように席へ向かおうとした、その時だった。


「エリー!」


 呼び止められた、ただそれだけで――

 心臓が、強く跳ねた。


 以前なら、何とも思わなかったはずの呼び方。

 だが、悪評が流れ始めてから、エリーズ自身が彼を遠ざけた。

 突き放し、冷たくあしらい、距離を置いた。


 それでもなお、変わらず愛称で呼ばれることが、胸の奥を乱暴に揺さぶる。


 だが、エリーズはその動揺を一切表に出さなかった。嬉しさも、痛みも、迷いも――すべてを胸の底に沈め、いつもと変わらぬ表情で振り返る。


 ステファーヌは、人垣を押しのけ、一直線に彼女の前へ立った。


 教室が、静まり返る。


「エリーズ・ラブラシュリ」


 あえて、愛称ではなくフルネームで呼ぶ。


「君に宣戦布告をする」


 ざわ、と空気が揺れた。


「次のテスト――学期末試験で、俺と首席の座をかけて勝負しろ」


 挑戦状のような言葉。

 だが、その瞳に宿るのは敵意ではない。


 ――覚悟だ。


 誰よりも真剣で、誰よりも不器用な、ただ一人の男の、真っ直ぐな覚悟。


 エリーズは、彼を見つめ返した。


 その胸の奥で、何かが静かに、しかし確かに音を立てて崩れていくのを感じながら。


「それは……わたくしへの挑戦状と受け取っていいのかしら」

「ああ。構わない」


 迷いのない即答だった。

 その瞳には、逃げも誤魔化しもない覚悟が滲んでいる。


 真正面からその視線を受け止め、エリーズの瞳がわずかに揺れた。


「理由も聞いても?」

「俺は君に勝って、大切な人を守れる男だと証明する」

「わたくしには、関係のないことですわ」


 きっぱりとした拒絶。

 感情を挟まぬ、あくまで理性的な言葉。


「君の“下”にいる限り、俺は駄目なんだ」

「……」

「君に勝って、実力で追い越して、ようやく俺は一人の人間として周囲に認められる」


 一方的な物言いに、エリーズは眉を寄せた。


「随分と身勝手な理屈ですわね」


 静かな声音。だが、鋭さを含んでいる。


「挑戦を受けたところで、わたくしにメリットはありませんわ」


 事実だった。


 エリーズは完全無欠の才媛。

 その実力も評価も、すでに揺るぎない。


 彼の挑戦を受けても、得られるものなど何一つない。


 ――敗北する可能性すら、ほとんどない。


 だからこそ。


「では、条件を出します」


 その一言で、空気が変わった。

 ステファーヌが息を呑む。


「もし、あなたが首席を取れなかった場合」

「……」

「あなたとわたくしは、今後一切、個人的な接触を断ちます」


 教室がざわめいた。


「登下校、食事、私的な会話。すべてです」

「エリー……」

「噂がどうなろうと、わたくしは一切、弁明もしませんし、あなたも関わらない」

「……それは」


 冷酷な条件。

 だが、エリーズの表情は変わらない。


「それでも挑む覚悟がおありなら――受けて立ちますわ」


 ほんの一瞬。

 その瞳の奥に、微かに炎が灯る。


「勝てば、あなたの“証明”を認めましょう」

「……」

「負ければ、あなたはわたくしから完全に身を引く。それが、わたくしにとっての唯一のメリットです」


 ――それは、嘘だった。


 エリーズが、ステファーヌが自分から離れることを「メリット」だなどと、思うはずがない。

 それは一ミリたりとも真実ではなく、むしろ彼女にとっては、耐え難いほどのデメリットだった。


 それでも、この条件を口にしたのは――

 他ならぬ、ステファーヌのためだった。


 先程の教室での光景が、脳裏をよぎる。


 彼の周囲には自然と人が集まり、笑顔が溢れていた。

 誰からも好かれ、受け入れられ、中心に立つ存在。


 一方で自分はどうだろうか。

 悪評がまとわりつき、視線は冷たく、囁きは刃となる。


 彼がエリーズに固執すればするほど、その火の粉は、必ず彼自身にも降りかかる。


 ――ステファーヌは、わたくしと一緒にいてはいけない。


 そう、悟ってしまったのだ。


 それに何より――

 彼が、自分に挑んでくる日が来るなど、夢にも思っていなかった。


 「大切な人を守れる男だと証明する」


 その言葉が、胸を締めつける。


 彼に、そこまでの覚悟をさせた存在。

 自然と浮かんだ名前は、一人しかなかった。


 ――アンヌ。


 エリーズとステファーヌの実力差は、年々縮まっている。

 それでも、まだ自分の方が上だと、エリーズは自負していた。


 だからこそ分かる。


 勝ち目が薄いと知りながら挑んでくるほど、彼には「守りたい人」が出来たのだ。


 その成長を、誇らしく思う自分がいる。

 同時に、胸が張り裂けそうなほど、苦しくて、悲しい。


 今まで――

 彼の一番は自分だと、疑いなく信じていた。


 それが傲慢だったのか、甘えだったのかは分からない。

 ただ一つ確かなのは。


 ――その彼が、今、自分に牙を剥いているという事実。


 彼の覚悟を、拒むことは出来なかった。


 エリーズはすべての本心を胸の奥へ押し込み、何事もなかったかのように、彼を見定める目で見つめた。


「後悔なさいませんように」

「後悔するくらいなら、最初から挑まない」


 その言葉に、エリーズの胸がわずかに痛んだ。


 ――この人は、本当に変わってしまったのだと。


 そして同時に。


 ――変えてしまったのは、自分なのだと。

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