婚約の真実
「用件は以上だ。ステファーヌ、私と一緒に来てくれるかい」
「承知いたしました」
レオナールの誘いに、ステファーヌは一歩前へ出て深く頭を下げた。
「アドリアンは私と一緒に来てくれ。人払いを頼む」
「御意」
近衛騎士であるアドリアンは、即座に応じて一礼した。
レオナールはそこで視線をジェルヴェとイレールへと移す。
「ジェルヴェとイレールは……そうだな。このまま解散するのは惜しい。確か、マリリーズ嬢はイレールの婚約者だったね」
イレールが一瞬驚いたように目を瞬かせる。
「はい。左様でございます」
「ならば、マリリーズ嬢とシルヴィ嬢も誘って、お茶でもしていてくれ」
「いつもの喫茶店でよろしいですか?」
レオナールの右腕ジェルヴェが即座に提案する。レオナールは頷いた。
「ああ、構わない」
「承知いたしました」
「では、先に席を取っておきます」
ジェルヴェとイレールは軽く頭を下げ、場を離れる準備を整えた。
「まあ、それは素敵ですわね!」
その提案に、いち早く声を弾ませたのはフィリシテだった。
「マリリーズ、シルヴィ、聞いていたでしょう? お二人もこちらにいらっしゃい」
教室前での出来事ということもあり、マリリーズとシルヴィは、先程から心配そうにエリーズの様子を窺っていた。
フィリシテに呼ばれると、二人は安堵したように表情を緩め、すぐに出入口へと駆け寄る。
「レオナール殿下、ごきげんよう存じます」
「本日はお声がけいただき、光栄ですわ」
二人は丁寧に挨拶をした。
レオナールはそれに軽く頷き、穏やかな声で応じた。
「堅苦しいのは抜きだ。今日はただの茶会だと思ってくれていい」
その一言で、場の緊張がふっと和らいだ。
「それでは、私たちは少し遅れて合流するよ」
そう告げて、レオナールはステファーヌとアドリアンを伴い、歩き出そうとした――その時だった。
「フィリシテ様! お話は終わられましたか?」
見計らったように、明るい声が割り込む。
振り返ると、そこにはアンヌと数人の女生徒が立っていた。
「よろしければ、一緒にお帰りになりませんか?」
にこやかな笑顔。
だが、その場の空気を読む者なら、踏み込んではならない瞬間だと分かるはずだった。
「お誘いありがとう。でも、この後は用事があるの」
フィリシテは柔らかく、しかしはっきりと断った。
そのやり取りに、レオナールは足を止め、静かに成り行きを見守った。
「あの……不躾で申し訳ございません」
アンヌが一歩前に出る。
「先程のお話が、偶然耳に入ってしまいまして……この後、お茶をなさるのですよね?」
その瞬間、フィリシテの笑顔のままの眉が、わずかに動いた。
ここにいる者たちは理解した。
王族と上級貴族の会話に割り込み、さらに“次の行動”に口を出すことが、どれほど無礼かを。
「もしよろしければ……わたくし共もご一緒できませんでしょうか。先程は、きちんとご挨拶もできませんでしたし……」
そこまで言い切るより早く、声が落ちた。
「悪いけど、遠慮してもらえるかな」
穏やかな声。
だが、逃げ道のない断絶。
「ここにいる面々は、幼少期からの付き合いだ。水入らずの場に――部外者は不要だよ」
その言葉に、場が凍りつく。
レオナールは微笑んだまま、付け足す。
「控えてくれるかい」
変わらぬ柔和な表情。
だが、その実、寸分の情も含まれていなかった。
側近たちは小さく息を吐き、フィリシテは俯いて、肩を震わせるのを必死に堪えた。
――誰がどう聞いても、完全な拒絶。
周囲の生徒たちの間から、思わず漏れた小さな笑いが広がる。
アンヌの頬に、熱が一気に集まった。
「……申し訳、ございません」
それ以上、言葉は続かなかった。
ここで食い下がれば、ただの道化になる。
それくらいの判断力は、アンヌにも残っていた。
アンヌと友人たちは、視線を伏せたまま、足早にその場を離れていった。
───────
レオナールとステファーヌは、人目のない場所へと移動していた。
少し離れた位置では、アドリアンが周囲に気を配り、誰も近づかぬよう静かに目を光らせている。
「こんなところまで呼び出して、すまないな」
「いえ。レオナール殿下のお呼び出しとあらば、どこへでも」
そう言って、ステファーヌは自然と片膝をつき、頭を垂れた。
「ふふ……ありがとう」
忠誠とも受け取れるその所作に、レオナールは双眸を細め、柔らかく礼を返す。
「今日は“王太子”としてではなく、友人として話をしに来た。堅苦しい形式は抜きでいい」
「……承知いたしました」
ステファーヌは静かに立ち上がった。
次の瞬間、空気が変わる。
「まどろっこしいのは性に合わなくてね。単刀直入に聞こう」
レオナールの声は穏やかだったが、逃げ場はない。
「君は今、エリーズ嬢が置かれている立場を――正しく把握しているのかい?」
真正面からの問い。
ステファーヌは一瞬、言葉を失った。
把握している。
誰よりも。
そして、その原因の一端に自分がいることも。
「……存じております」
「なら話は早い」
レオナールは即座に続けた。
「彼女に向けられている悪評は、すでに私の耳にも届いている」
「殿下、それは――!」
思わず声を上げたステファーヌを、レオナールは静かな手振りで制した。
「言わずとも分かっているよ。噂の大半が事実無根であることも――そして、意図的に誰かが彼女を貶めようとしていることもね」
そこには、先程までの柔らかな笑みはなかった。
王族として、そして次代の王として真実を見据える、冷静で厳格な眼差し。
「まあ、単純に考えれば答えは一つだ」
レオナールは淡々と告げる。
「君とエリーズ嬢、そして“もう一人”噂の中心にいる人物。この三角の中で、誰が利益を得ているかを考えればね」
アンヌの名を出す必要すらなかった。
そして――。
「それで」
声が、わずかに低くなる。
「君は、何をしている?」
その一言は、問いであり、彼を追い詰める一言だった。
ステファーヌの胸が大きく跳ねる。
真正面から向けられた視線に、誤魔化しは許されないと悟る。
守るべき婚約者が傷つけられている。
それを理解していながら、決定的な一歩を踏み出せていない。
その不甲斐なさを――
誰よりも、ステファーヌ自身が痛感していた。
エリーズの悪評を止めようと動けば動くほど、それは逆に、彼女を追い詰める結果になる。
ステファーヌが声を上げれば、
――「エリーズに頭が上がらない婚約者が、噂を揉み消そうとしている」
そう受け取られる。
噂など気にせず彼女の傍にいれば、
――「ステファーヌを盾にして、彼を独占しようとしている」
そう解釈される。
守ろうとする行為そのものが、彼女を“悪役”に仕立て上げる材料になる。
だから、ステファーヌは動けなかった。
エリーズを守るためには、自分が距離を取り、噂が沈静化するのを待つしかない。
そう思い込んでいた。
唇を噛みしめ、拳を握る。
「……なにも」
絞り出すような声だった。
「何も、していません」
それが、ステファーヌの現状だった。
しばしの沈黙。
その沈黙を、レオナールが破る。
「君は、エリーズ嬢と婚約関係にあると思っているよね」
唐突な問いに、ステファーヌは目を瞬いた。
「……はい。幼少の頃から、彼女は俺の婚約者です」
「そうか」
レオナールは短く応じてから、続けた。
「では聞こう。君とエリーズ嬢が、正式な婚約者ではないと知っていたかい?」
言葉の意味を理解するのに、数拍を要した。
「……な、にを……」
思わず息を呑む。
「両親だって、エリーズのことを俺の婚約者として――」
「それは、両家の親同士が交わした“口約束”だろう?」
淡々とした指摘。
二人がまだ物心つく前、両家の親が冗談半分に交わした将来の話。
だがその言葉は、エリーズとステファーヌにとって“真実”として与えられてきた。
「……」
レオナールは続ける。
「君たちの間に、正式な婚約契約は存在しない」
「そんな……ですが、エリーズも俺のことを婚約者だと……」
「彼女は知っているよ」
きっぱりとした断言。
「君と正式な婚約者ではないことを」
ステファーヌの胸が、大きく波打つ。
――またしても、自分だけが知らなかった事実。
「つまり、こういうことだ」
レオナールの声が、少し低くなる。
「君たちは“婚約者同士”ではない。そしてエリーズ嬢は――」
一拍、置いて。
「私の祖母と同じく、“稀代の才媛”と評されるだけの能力を持っている」
その言葉の意味は、重かった。
レオナールは、逃げ場を与えない。
「この意味が分かるよね、ステファーヌ」
それは質問ではなく、理解を求める宣告だった。




