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勧誘

 ほどなくして、フィリシテがエリーズを伴って戻ってきた。


「レオナール殿下。お久しゅうございます。お待たせしてしまい、申し訳ございません」


 やや早足で戻ってきたのか、エリーズはわずかに息を乱していた。

 一度深く呼吸を整え、背筋を伸ばすと、優雅にカーテシーをして挨拶をする。


「エリーズ嬢も、久しぶりだね。フィリシテ、呼んできてくれてありがとう」


 レオナールは柔らかな笑みで応え、妹にも軽く礼を述べた。


「こうして言葉を交わすのは……君が入学して以来かな」


 入学式の日。

 レオナールは妹と、その友人たちに祝いの言葉をかけるため、わざわざ顔を見せてくれた。

 それ以降、学年棟が違うこともあり、遠目に姿を見かけることはあっても、こうして対面で話すのは久しぶりだった。


「エリーズ嬢」


 穏やかな声色のまま、レオナールは続ける。


「君の噂は、すでに他学年にまで轟いているよ」


 その一言に、エリーズの身体が強張った。

 血の気が引き、指先がひやりと冷たくなる。


 ――やはり、悪い噂だろうか。


 最近、学園中で囁かれているのは、自分を貶める話ばかりだ。

 しかも、ここは教室前。

 周囲には視線を向ける生徒も多く、ひそひそと交わされる声が、すべて自分を責めているように感じられた。


 だが、レオナールの口から続いた言葉は、エリーズの予想とは違っていた。


「入学早々、“才女が現れた”と学園は持ち切りだった。この最高峰の学園で、女性が首席合格を果たした例は――実に五十年以上も遡る」


 エリーズは、思わず目を瞬かせる。


「ちなみに、その前例の女性は……私とフィリシテの祖母なんだけどね」


 そう言って、レオナールは小さく笑った。


 エリーズは、その名を聞いて胸の奥が熱くなるのを感じた。

 王太子と王女の祖母――すなわち、かつての王妃。


 彼女は、エリーズが最も尊敬する女性の一人だった。


 王妃となった後、彼女は数々の功績を残している。

 発展の乏しい地方でのインフラ整備、名産物の育成。

 それまで男の独壇場だった外交の場に立ち、他国との関係を大きく前進させた。


 政は男のもの――

 そう考えられていた時代にあって、前王は彼女の才を認め、その意見に真摯に耳を傾け続けたという。


 エリーズは、無意識のうちに拳を握りしめていた。


 ――あの方のように、なりたい。


 そう願い、努力してきた日々が、胸裏をよぎる。


「王太后様は、わたくしの憧れの方ですわ。ですが……わたくしなど、まだまだ足元にも及びません」

「そんなことはない」


 即座に、レオナールは否定した。


「君は学業だけでなく、体術、魔法、判断力――すべてにおいて優れている」


 レオナールの視線が真っ直ぐエリーズへと向けられる。


「総合成績で首席に立つということは、それだけ“総合力”が高い証だ。もっと、自分に誇りを持っていい」


 そう言って、レオナールは一歩、エリーズに近づいた。


 彼女の右手を、静かにすくい上げる。

 指先に触れるだけの、あくまで形式に則った所作。


 ――だが、次の瞬間。


 周囲の空気が、凍りついた。


「公爵令嬢エリーズ・ラブラシュリ」


 王太子は、はっきりと名を呼ぶ。


「以前より、あなたの聡明さと矜持には、深い敬意を抱いていました」


 そう告げて――

 彼は、エリーズの手の甲に、口付けた。


 息を呑む音すら聞こえない。


 エリーズは、言葉を失った。

 驚いたのは彼女だけではない。

 その場に居合わせた生徒たち全員が、目を見開いていた。


 王太子の手の甲への口付け。

 それは、恋慕ではない。

 身分と人格への、明確な敬意の表明だ。


 レオナールは、視線だけを隣に立つステファーヌへと向けた。

 反応を確かめるように。


 ステファーヌもまた、驚きを隠せず、ただ立ち尽くしていた。


 ざわめきが、遅れて押し寄せる。


 ――王太子が、エリーズに。

 ――あの“悪役令嬢”と呼ばれている彼女に。


 だが、レオナールは軽率な人物ではない。

 彼の行動が意味するものは、ただ一つ。


 エリーズ・ラブラシュリは、王太子が公に敬意を払う存在である。


 衝撃は、それだけでは終わらなかった。


「さて」


 レオナールは、場を見渡して続ける。


「今日、私たちがここへ来た理由を伝えよう。エリーズ嬢、そしてステファーヌ。君たち二人が《ARC》の候補生に選ばれたことを知らせに来た」


 一瞬の静寂の後、どっと、声が溢れ出した。


「ARCだって!?」

「選ばれた者しか入れない、あの……!」


 Academy Ruling Circle――

 学園の秩序維持、行事の総指揮、非常時の判断権を担う、学園最高位の精鋭組織。


 そこに、“候補生”として名を連ねることの意味は、計り知れない。


「すごい……! 一年生の一学期から勧誘されるなんて……!」


 フィリシテが、抑えきれない興奮を声に滲ませた。


「エリー! 本当に凄いわ!」


 フィリシテは両手を合わせ目を輝かせた。


「一年生は入会不可と言われていた中で、お兄様やジェルヴェ様に続いて――ステファーヌ様と、あなたまで勧誘されるなんて!」


 自分のことのように喜ぶフィリシテの笑顔。

 その笑顔を、エリーズは久しぶりにまともに見た気がした。


 胸の奥が、じんわりと熱くなる。

 目頭が、思わず滲んだ。


 そんな空気の中、レオナールは――

 浮き立つフィリシテに釘を刺すように、しかし穏やかな口調で続けた。


「ただし、まだあくまで“候補生”だ。正式な勧誘となるかどうかは、一週間後に行われる期末テストの結果次第だろう」


 熱を帯びかけた場に、現実を戻す言葉。

 それは期待を削ぐものではなく、王太子としての公平な線引きだった。


 レオナールは、再びエリーズとステファーヌへと視線を向ける。


「もっとも……君たちなら、問題はないと私は思っているがね」

「ありがとうございます」

「ご期待に添えるよう、精一杯励みます」


 二人は揃って頭を下げた。

 その姿は、騒動の中心にいたとは思えぬほど、凛として落ち着いていた。


 ――だが。


 その光景を、面白くなさそうに見つめる視線があった。


 少し離れた場所、柱の影。


「……どうして、エリーズ嬢ばかり……」


 アンヌは、唇を噛みしめながら呟いた。


「まさか、レオナール殿下が……あんな行動をなさるなんて……」


 信じられない、というより――

 認めたくないという感情が、声に滲んでいる。


「きっと、騙されているんだわ」


 アンヌは、ぎゅっと拳を握った。


「あの悪女に……エリーズ嬢に。レオナール殿下まで惑わそうとするなんて……なんて性悪なのかしら」


 そこにあったのは、疑念ではない。

 事実を見ようとしない、断定だった。


 自分が間違っているかもしれない、という発想は、最初から彼女の思考には存在していない。


 アンヌの中で、エリーズはすでに“敵役”として完成していた。

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