悪役令嬢の虚像
エリーズにまつわる噂は、廃れるどころか、日を追うごとに勢いを増していった。
事実に、尾ひれがつき。
憶測に、感情が乗り。
やがて、あることないことが、もっともらしく囁かれるようになる。
噂は同学年に留まらず、他学年へと瞬く間に広がっていった。
いつの間にか、エリーズ・ラブラシュリは――“完全な悪役令嬢”として語られる存在になっていた。
発端となったのは、あの社交礼法の授業での一件だ。
生徒たちの間では、こう語られている。
――移動教室を間違えたのは、エリーズの聞き間違い。
――それを認めず、アンヌに責任転嫁しようとした。
――社交ダンスの最中、幼馴染を取られた腹いせに、わざとぶつかり、怪我をさせた。
真偽など、もはや誰も気にしていない。
足を挫いたアンヌは“可哀想な被害者”となり、彼女を抱き上げ、医務室まで運んだステファーヌは“献身的な王子様”となった。
お姫様抱っこ。その一場面だけが切り取られ、二人は「愛し合っている」と断定された。
そして、物語は完成する。
政略によって結ばれた婚約のせいで、ステファーヌは“真実の愛”を選ぶことが出来ない。
それにもかかわらず、婚約者という立場を盾に、彼を自分の所有物のように扱い、愛する少女を陥れようとする悪逆非道な令嬢――エリーズ。
彼女は、純愛を引き裂く悪役。
王子と聖女の幸せを邪魔する存在。
まるで、よく出来たおとぎ話のように。
――誰かが悲劇を望んだかのように、その物語は、学園中へと広まっていった。
アンヌは、あまりにも自分の思い描いた通りに事が進んでいく現状に、笑いを堪えきれなかった。
「ふふ……。わたくしに恥をかかせた報いですわね」
ほんの少し怯えた顔を見せるだけでいい。
ほんの一言、涙を滲ませるだけでいい。
噂は勝手に膨らみ、形を変え、事実よりも“都合の良い物語”へと成長していく。
「――悪役令嬢エリーズ、敗れたり、ですわ」
アンヌは小さく呟いた。
「ステファーヌ様は、まだエリーズの味方をしていらっしゃるけれど……外側は、もう固めましたわ」
わざわざ自分が動く必要すらなかった。
ステファーヌの友人たちが、周囲が、勝手に動いてくれる。
――彼とエリーズを、引き離すために。
「時が来れば……きっと、彼も“正しい選択”に気づくはずですもの」
事実、大礼儀堂での一件以降、ステファーヌとの距離は確実に縮まっていた。
周囲がエリーズを悪く言うと、未だ彼は怒る。
だが、それでも――。
一緒にいる時間は減り、登下校もなくなった。
以前なら断られていた昼食や放課後の勉強の誘いも、二人きりではないとはいえ、受け入れてもらえるようになっている。
「ほら……少しずつ、ですわ」
エリーズの周囲から、人が消えていくのも見て取れた。
かつて彼女を囲んでいた友人たちの姿は、最近ほとんど見かけない。
それどころか――。
王女であるフィリシテと会話を重ねるうち、アンヌ自身が“中心”に据えられるようになり、完全に風向きは自分へと傾いていた。
アンヌは、廊下の窓辺に立ち、眼下を見下ろす。
校舎裏のベンチ。
一人きりでサンドイッチを齧る、エリーズの姿。
「……ざまぁないですわね」
吐息混じりに、そう呟く。
「可哀想なエリーズ。最初から、わたくしのものを奪おうとしなければ……こんなことにはならなかったでしょうに」
アンヌにとって、エリーズは最初から“加害者”だった。
本来、自分と結ばれるはずだったステファーヌを縛りつけ、奪った悪女。
だから――。
自分がしていることは、復讐でも策略でもない。
正義の是正なのだと、アンヌは心の底から信じて疑わなかった。
───────
そんな折。
一年生棟に、思いがけない来訪者が現れた。
王太子、レオナール・レアンドル。
そして彼の側近たち――
宰相を父に持ち、すでに「王太子の右腕」と噂されるジェルヴェ・フラヴィニー。
近衛騎士として常に側に控えるアドリアン・アルノー。
治癒系魔法を得意とし、レオナールの体調管理も任されているイレール・オダン。
いずれも、エリーズたちの一学年上。
さらに全員が、学園内の精鋭組織| Academy Ruling Circle通称「ARC」のメンバーでもある。
――そんな一行が一年生棟を訪れるなど、異例中の異例だった。
「きゃあ……王太子殿下ですわ……!」
「側近の方々まで……」
「纏っている雰囲気が、まるで違いますわね」
「皆様、ARCのメンバーなのよね……」
「僕も、いつか選ばれたいな……」
男女問わず、ざわめきが広がる。
視線は一斉に、王太子一行へと吸い寄せられていた。
「……お兄様?」
その中心で、フィリシテが驚いたように目を見開いた。
「どうして、一年生棟にいらっしゃるのですか?」
「やあ、フィリシテ」
柔らかく微笑み、レオナールは妹に歩み寄る。
「エリーズ嬢と、ステファーヌはいるかな?」
「ステファーヌ様でしたら、教室に。エリーは……恐らく、図書室かと」
そう答える瞬間、フィリシテの表情が、ほんの一瞬だけ曇った。
苦しそうで、悲しそうで――
それでいて、泣き出すのを必死に堪えているような顔。
その変化に気づいたのは、兄であるレオナールだけだった。
「……以前は、エリーズ嬢とよく一緒にいたよね? 今は、別行動なのかな」
フィリシテは、答えられなかった。
視線を伏せることで、沈黙が返事になる。
その空気を破ったのは――
「フィリシテ様のお兄様でいらっしゃいますの?」
背後から、ひょっこりと顔を覗かせたアンヌだった。
「突然失礼いたしました。わたくしたちも、ご挨拶をしてよろしいでしょうか?」
可憐に微笑み、丁寧に頭を下げる。
だが、その姿を目にした瞬間――
レオナールだけでなく、側近の三人も、わずかに空気が張り詰めるのを感じ取っていた。
――噂は、すでに耳に入っている。
“悪役令嬢”と呼ばれる公爵令嬢。
そして、“守られる悲劇の少女”。
その中心にいる伯爵令嬢が、今、目の前に立っている。
レオナールは、静かにアンヌを見つめた。
その眼差しは、決して好意でも、興味でもなかった。
値踏みするような、王族の目だった。
「悪いが、急ぎの用で来たんだ。また今度、ゆっくり挨拶させてくれるかい」
レオナールは柔らかな微笑みを浮かべ、やんわりと申し出を断った。
「……残念ですけれど、そういうことでしたら」
アンヌは一瞬だけ落胆を滲ませながらも、王太子の微笑みに頬を染め、素直に引き下がった。
「フィリシテ。ステファーヌを呼んでくれ。その後、エリーズ嬢も連れて来てほしい」
「承知しましたわ」
レオナールの指示に、フィリシテは静かに頷く。
彼女はまず、教室で友人たちと話していたステファーヌを呼び出し、続いてエリーズを探すため、図書室へと足を向けた。
「殿下。お久しぶりです」
呼び出されてすぐに現れたステファーヌは、深く頭を下げた。
「うん、久しぶり。最近の調子はどうだい?」
レオナールは、旧友に声をかけるような気軽さで尋ねる。
「最近……ですか……」
ステファーヌは、思わず言葉に詰まった。
相変わらずです、と無難に答えることは出来た。
だが、エリーズの顔が脳裏をよぎり、その一言が喉につかえた。
「君たちの噂は、耳にしているよ」
レオナールは、穏やかな笑みを崩さぬまま続ける。
「君も大変だろう。――もっとも、君のお姫様は、さらに大変だろうけどね」
一見、冗談めいた口調。
だが、その言葉の端々には、はっきりとした棘が含まれていた。
ステファーヌは、無意識のうちに背筋を伸ばす。
「今日は、君とエリーズ嬢、二人に話があって来た。今、フィリシテが彼女を呼びに行っているから、揃い次第、用件を伝えよう」
「……承知しました」
ステファーヌは、短く頷いた。
「それとは別に」
レオナールは、ほんのわずかに声を落とす。
「私個人としても、君に話しておきたいことがある。用件が終わったら、場所を変えて話せるかな? 時間は取らせないつもりだ」
その声音には、王太子としてではなく、一人の知己としての色が混じっていた。
「はい。構いません」
ステファーヌは、真っ直ぐに答えた。




