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転生

 ふわりと漂う、澄み切った空気の匂いと、どこか懐かしい、夏の終わりを思わせる匂いが鼻腔をくすぐる。体は、懐かしい記憶が滲むような、柔らかな温度で包み込まれているような感覚があった。

 もう、先ほどまで耳元で響いていたOLの切迫した声も聞こえない。脇腹を貫いた鋭い痛みもない。まるで、心を刃物で抉られたような違和感さえ、綺麗さっぱり消え去っている。それどころか、一生このままでいいとさえ思えるほど、心地が良い。

(あぁ…ここが天国なのかな? 本当にあったんだ)

 あまりに居心地の良い空間に、意識が絡め捕られそうになるも、ふと小さな疑問が浮かび我に返る。

 (……待てよ、匂いがする?暖かさも感じる?死んでも五感って残ってるものなのか?)

 俺はそっと目を開けてみることにした。光に目が慣れるまで少し時間がかかったが、光を受け入れた俺の目に飛び込んできたのは、夕焼け色に染まった、どこまでも広がる大空だった。言葉を失った。美しいという言葉では足りない。何百回、何千回と見てきたはずの夕焼けが、まるで別物に思える。たしかに、夕焼けは幻想的で美しく、一瞬目を奪われる景色ではある。しかし、ここまで目も魂も吸われるほど美しい夕焼けは見たことがない。温もりを宿した橙のグラデーションが、空を焦がすように燃え広がり、すべての景色を静かに包み込んでいた。

(こんな景色があるなんて……)

 その美しさに、時間の感覚が失われていく。どれほどの間、この景色を見つめていただろうか。

 ふと、自分がどこかに寝そべっていることに気がついた。しかも動かせる。

(天国って、魂だけで行くもんだと思ってたけど……体まで残っているものなのか?)

 試しに手を地面に添えて、上体を起こす。指先が触れた地面は、水面のようにひんやりとしていて、なぜか確かな感触があるのに、沈むことはなかった。俺は足元を見て、思わず目を見張った。そこはまるで、空を映す巨大な鏡の上に立っているかのようだった。見渡す限り一面、さざ波ひとつ立たない湖のような水面が広がり、その全てが夕焼けの空を映し込んでいる。俺はその水面の上に立った。そして、静かに360度、視線を巡らせたとき、そこに一人の女性が立っていた。

 彼女は、年齢で言えば二十代前半。俺とほぼ同じ背丈だろう。だが、ひと目で分かった。彼女は“人”ではない。この世の理から外れた、美しさ。まるで神話から抜け出してきた女神のような気配を纏い、その佇まいは風景の一部でありながら、確かに中心だった。目の前の女性が神だと認識した時には、すでにひざを折って頭を垂れていた。

 しかしその美貌に似合わず、彼女の瞳には深い悲しみが宿っていた。透き通るようなその顔が、静かに痛みを湛えていた。さぞ辛いことがあったのだろう、そう思いながらもこの空間の中心たる存在に見惚れていると、やがて彼女が口を開く。まるで鈴を鳴らすような、清らかで、どこまでも澄んだ声だった。

「あなたが、あなた自身の力で変えるのです。……また、必ずお会いしましょう」

 その言葉を最後に視界は音もなく、すうっと黒く塗りつぶされた。

静寂とともに、意識が途切れていく。



「ほら……いま…わらっ…ぞ!」

(……誰かの声が聞こえる。男の人?)

 誰かの声が響いた。まるで水底から水上の音を聴くみたいに、音の輪郭が曖昧ではっきりと聞こえない。なのに、その声には温かな響きを感じた。春の朝に差し込む日差しのように、優しく心を撫でる声が。

「小さい…ね…本当に可愛…!」

 次の瞬間、もう一つの声が混じる。今度は女性だ。その声はどこか鼻にかかっていて、涙をこらえているような震えを含んでいた。喜び、安堵、いくつもの感情が入り混じり、ひとつの短い言葉に込められていた。

(徐々に聞こえてくる……ここはどこだ?)

 まどろみの中、俺の意識は水底からゆっくりと浮上していくように、覚醒していく。水面に差し込む現実の光が、少しずつ輝きを増していくような感覚。覚醒した脳が、少しずつ現実を認識し始める。

(……あの空間じゃない。女神のいる場所じゃ…ない)

 そう、あの澄みきった空気の匂いは無い。代わりに、全身が心地よい温もりにくるまれていて、そこから微かに香る、甘く落ち着いた匂い。母乳と木綿布の混ざったような、記憶のどこかをくすぐる香りがする。どこか懐かしい感覚で、全てが現実の質感を伴っていた。

(……これは、誰かの腕の中……?)

 周囲の音が鮮明になっていく中で、俺の真上から男女の声が降ってきた。

「本当に、よく頑張ったな!ミサっ!」

「もぉ〜、泣かないでよ〜。それに、頑張ったのはこの子も一緒よ」

 温かく、弾んだ声。涙ぐみながらも、どこか晴れやかな、生命の誕生を祝う声色。

(喜んでいるのか?なにを?そしてこの声は誰だ?)

 この包まれるような抱擁感。肌を包む空気の厚さ。柔らかく弾力のある布に埋もれるようなこの感覚。しかし、それとは別に自分の体に違和感を感じる。体をうまく動かせない。まるで、水中でもがいているようなぎこちなさがある。皮膚は薄く、柔らかく、どこかしっとりとしていている。胸いっぱいに空気を吸い込もうとしても、そのたびに肺の小ささを感じさせられる。目はぼやけており、視界がまるで磨りガラス越しに世界を見ているように、すべてが白く、淡く、ぼやけていた。声は出るが、「あー、うー」のように発するだけで、喋ることができない。ただ音だけが鮮やかに聞こえてくる。

(……まさか、俺……)

 ここまで把握して、ようやく気づく。俺の体は、赤ん坊、まさにそれだった。最初は、誰かの腕の中で、まるごと包み込まれているのがわかり、そのスケールの違いから巨人に捕まったのかと思ったが、逆だった。俺の方が“小さくなった”のだ。

(……赤ん坊になってるのか……?)

 真上から聞こえてくる男女の声が、焦る俺の心を少しだけ落ち着かせてくれる。彼らはどうやら、子供が無事に生まれたことに喜んでいるようだ。その“生まれた子供”こそが

(俺、なのか……?)

 夢だと思っていた。アパートで悪夢に唸って目を覚まし、寝ぼけ眼でコンビニに向かったあの夜。暴漢たちと鉢合わせ、OLを助けた後に刺され、血を流しながら倒れ込んだ。次に目を開けたとき、俺は鏡のように美しい水面の上に立ち尽くし、夕焼けに包まれた空間で、女神と出会った。幻想のような、あり得ないほど神秘的な空間だった。そして今、俺は赤子として、新たな生を受けた。

 まるで現実感のない体験の連続に、これは長く続く悪い夢なのだと思った。いずれ、あの見慣れた天井を見上げて、遅刻ギリギリの大学へ向かうあの日常が戻ってくるのだと。だが、どれだけ時間が過ぎても目は覚めない。眠って起きても、俺はこの小さな体のまま。かすむ視界、小さくか弱い手足、そして喋ることすらできない。赤ん坊がこれほどまでに不自由で、無力な存在なのだと、今になって実感するとは思わなかった。

 思い出す。刺された時の、脇腹を貫かれる鋭い痛み。金属が肉を割り、血が溢れ出す感覚。あの瞬間の恐怖と絶望は、ただの夢で感じるにはあまりにも鮮烈すぎた。今でも思い出せる。身体の奥に焼き付いている。これは夢ではない。すべて現実だ。信じたくない気持ちと裏腹に、状況がすべてを物語っていた。現実離れしていても、俺が生きている証拠はこの小さな体にあり、五感にあり、聞こえてくる家族の声にあった。

 俺は日本で死んだ。そして、前世の記憶を持ったまま、別の世界に転生したのだ。理解した途端、胸の内にずしりとした重みがのしかかる。人生のページが強制的に捲られたような、そんな理不尽さと不可逆性に、軽く目眩すら覚える。

 つまり、俺の夢はあと一歩のところで潰えたということだ。小学校の頃から心に芽生えた夢。がむしゃらに追い求めてきた。家族が、親友が、南先生が背中を押してくれて、もう少しで叶えられるところまで来たのに。夢を叶えられなかったことに対する悲痛や、この理不尽に対する怒り、夢を応援してくれた人たちに対する謝意など、様々な想いが渦巻いている。まぁ、それほど大切してた就職試験を直前でばっくれておいて、何言ってんだという話だが。

(もう…会えないのか)

 しかし一番は、大切な人たちに会えないことに対する寂しさだった。母さんと父さんに、夢を叶えて報告をしたかったし、兄弟の自慢の兄になりたかった。家族ともっと一緒に居たかった。心配をかけてた、あっちゃんに謝りたかったし、これからも仕事の愚痴でも言い合いながら、酒を酌み交わしたかった。

 涙が溢れる。霞んだ視界が、涙で覆われる。そんな悲しみで埋め尽くされた心に、わずかな隙間を作ってくれる存在があった。思い出すのはあの空間で出会った存在。この世のものとは思えない、美しくて、どこか哀しげだった女神。人知の及ばぬ存在でありながら、俺の目をまっすぐに見つめ、語りかけてくれたな。

 もう二度と会えないだろう。……もし、もう一度だけでも会えたなら、哀しげだった理由を聞いてみたい。そんな叶わぬ望みを心の片隅にそっと抱けるまでには、俺の心は余裕を取り戻せた。あの人の姿は忘れがたい記憶となった。

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