拭えぬ痼
日が沈み、また白明を迎え、また沈む。その循環を何度見送っただろう。部屋は依然として暗闇に包まれていた。電気を付ける気も起きず、俺はベッドの上で上半身を起こしたまま、一体何日間、無意味な時間を送ったのだろうか。後悔からか、疲弊からか、虐しさからか。何を感じているのか自分でも分からない。心の辺りには、おぼろげに『思い出しそうで思い出せない』ものが湧き、それを探るように意識の中をもがきつづけているが、相反して、それを見つけたくない自分がいる。
「……そろそろ、何か食べないとな」
自分に言い聞かせるようにつぶやくと、不本意のまま身体を動かし、コンビニへ向かうことにした。体から意思が抜け落ちているような鈍重な動作で、ベッドを降りる。数日間同じ姿勢でいたため、筋肉が固まっているせいで、部屋を出るまでに一苦労かかりそうだ。
外は静寂に包まれており、夜の帳が静かに街を包み込む。アスファルトを照らす街灯の光だけが、闇夜に僅かな温もりを灯していた。重く沈んだ胸の内を引きずるように、ただ胃袋の空虚さが、半覚醒状態の体を突き動かしていた。冬の夜風が肌を刺激するが、意識を覚醒させるにはうってつけの刺激かもしれない。
(……もう23時か)
スマホの液晶に浮かんだ数字と、溜まった通知の数に目を丸くする。その大半は、あっちゃんからの通知だった。大一番の試験をすっぽかし、数日大学に出ていない俺を心配してのことだろう。今はまだ、何と返信していいかもわからなかったが、それでも心の奥に、微かに灯る人の温かさがあった。帰ってゆっくり返信しよう。
アパートからコンビニまでの道程は、人通りが少ない狭隘な道が多く、車もほとんど通らないため、特にこの時間は薄気味悪い通りとなっている。いるとしたら、この周辺に住んでいる社畜達が、終電で疲れはてた体を引きずりながら帰ってくるくらいだ。
そんなことを考えていると、前方を歩くOL風の女性の姿に気づいた。真っ直ぐ前を見据え、小さな肩をきゅっと縮こまらせながら歩くその姿が、どこか不安定で、痛々しかった。
(こんな時間に女性一人か。危ないな)
俺は、変な誤解を招かぬように距離を保ちながら目的地を目指す。
その時だった。背後から近づくヘッドライトの白い輝きが、闇を切り裂くように視界に入り込んだ。黒のハイエース。全ての窓に濃いスモークフィルムが貼られており、中の様子は一切伺えない。不穏な空気が、皮膚を這うようにざらつかせていく。
(……怪しさ満点だな)
俺の目の前をゆっくりと通り過ぎたその車は、OLの少し先で、唐突に止まった。スライドドアがガラリと勢いよく開き、中から現れたのは黒ずくめの男三人。まるで用意されていたかのような無駄のない動きで、彼らはOLに飛びかかり、その細い身体を羽交い締めにした。
「きゃっ、やめっ──!」
絶叫がタオルに遮られる。女性は抗うも、細腕では成す術もない。男達は彼女を無理やりハイエースへと引きずり込もうとしていた。
尋常じゃない事態を目の当たりにし、俺はすぐさま駆け出そうとした。だが、脚が動かない。血が凍るような衝撃がはしる。
(は?おいっ!なんで動かないんだよっ!)
その間にも、OLの抵抗も虚しくどんどん車内へ押し込まれていく。その刹那、OLの表情が見えた。否、こんな街灯頼りの道路で、50m先のOLの顔が見えるわけがない。しかし、見えた気がした。これから起こることに対する恐怖と絶望に歪んだ顔が。
「お願いっ──助けてっ!」
顔と声が、誰かと合わさった気がした。そう思った時には、全力で疾走していた。俺の中で、何かの箍が外れたのがわかった。
数秒でハイエースに到着し、一番手前の男の後頭部を殴り付ける。
「うがっ!!」
男はその衝撃でハイエースの側面に顔面を強打する。そのまましゃがみ込んだ男の顔面を、空高くサッカーボールを蹴り上げるように、渾身の力で蹴り上げる。蹴り上げたその一撃が、メシャッと頭蓋が歪むような耳障りの悪い音を立てながら顔面に炸裂する。男は蹴り上げられた勢いで道路に仰向けになる。
次に、OLを車内へ押し込んでいたもう一人の男の背後から、股間に向かってアッパーを食い込ませる。
「うぎゃー!!」
急所が潰れた嫌な感触が拳に伝わる。スライドドアの開口部付近で股間を押さえながら崩れ落ちた男に対して、駄目押しの左フックを喰らわせ、2mほど殴り飛ばす。異変に気が付いた3人目の男が、車内でOLを引きずり込むのを中断して、車外へ飛び出してくる。その間に、OLはなんとかハイエースから距離を取れたみたいだ。
「なんだ!?このクソガキッ!!」
怒号が飛び、次の瞬間、俺の左頬に痛烈な一撃が走る。先ほどの男2人は、不意打ちで撃退できたが、やはり真正面から向かうには、俺の体格では分が悪すぎる。しかしそんなことはどうでも良い。ただ単に、この男達に徹底的な痛みを思い知らせなければ気が済まない。殴り飛ばされた勢いを利用し、即座に跳ね返るように体勢を整えると、俺は男の両目に向かって両の親指を深く押し込む。
「ウガーッ!てぇめえーッ!!」
両目を潰された男は、俺の髪を鷲掴みにして位置を確かめると、髪を掴んだまま顔を繰り返し殴り付けてくる。何度も何度も。俺の瞼が腫れ、視界が滲む。しかし、俺はそんなことお構いなしに男に接近し、男の喉元に噛みつき、そのまま喉仏を噛千切った。
「ガフッッ!!」
男はあまりの痛みと息苦しさから、その場に崩れ落ちた。男の喉元からヒュー、ヒューと甲高い音が聞こえる。冷や汗をかいた手で喉を押さえる男は、自分が陥っている状況を信じられないでいるみたいだ。だが、俺の中のドス黒い感情は収まらない。俺は、無意識に苦しんでいる男の左の上腕と前腕を左右の手で掴むと、肘関節を思い切り片足で踏みつけ、腕が曲がらない方向に曲げる。メシャッと、普通なら聞くだけで鳥肌が立ちそうな音を鳴らして男の腕が折れる。
「ギャァァァァァァァ!!!!」
次は右腕。
メシャッ
「ウギャァァァァァァ!!!!」
左脚。
メシャッ
「ギャァァァァ!!はぁはぁ…もう…やめ…て……くれ」
右脚。
メシャッ
「ア"ァァァァァ!!……もう…やめ……て…下さい…やめて…下さ…い」
俺は、まるで復讐にかられた悪鬼のように、男をいたぶる。なぜここまで酷いことをしたのか分からない。ただ、怒りを止められなかった。
何度目かの悲鳴と懇願のあと、ようやく、男の全身から力が抜けた。その顔は、痛みと恐怖と後悔とで歪んでいた。だがその時、ようやく我に返る。
(とりあえず、警察を呼ばないと…)
懐から携帯を取り出しながら、自分を落ち着ける。距離を空けて事態を見守っていたOLが、こちらに駆け寄ってくるのが見える。よく逃げずにいたものだと、驚きつつ、110番に電話を掛け始めたその時、左の脇腹に焼けるような鋭い痛みが走る。金属が無理矢理体内に入ってくる感覚。
「……えっ?」
左の脇腹に、サバイバルナイフが深く深く突き刺さっていた。ナイフを握っているのは、黒ずくめの男。
(くっ…運転席にもう一人いたのか……)
男がとっさにナイフを抜いた瞬間、熱い血がどくどくと溢れ出した。
(やばい……止まら…ない)
男は慌ててハイエースに乗り込み、残りの3人を残したまま、車を走らせ逃走した。意識を失った仲間3人を車に乗せるのは不可能、と判断してのことだろう。
そんなことを考えながら、俺は地面に倒れ込む。倒れた地面には、脇腹から溢れだした出血により、血の水溜まりができている。太い動脈まで達しているのだろうか、止まる気配もなく、意識が遠退いていく感覚がある。
死を確信して、恐怖と絶望で取り乱しそうなのに、心は酷く静かだった。目の前の、絶望を顔に滲ませた人を、俺は救うことができたのだから。ただ、心に痼は残ったままだ。
OLが119番通報をしながら、俺に叫んでいるのが聞こえる。
「分かり…ますか!?……だいじょ……ぶですか……!?すぐに、きゅう……きゅ……しゃ……が……」
OLの声は次第に遠退いていき、俺の意識はプツッと途切れた。




