回復魔法しか使えないなら武術を極めればいいじゃない!
「誰なのそんなこと言ったの!」
異世界に聖女として召喚された――あるよね。私も好き。それでなんやかんやあってイケメンといい感じになるような、ね? 最初はちょっと不憫な目に合うけどなんやかんやハッピーになるやつ。好き。主人公も健気な良い子ってことが多くて、そんな子がかわいそうな目にあうから応援したくなっちゃって、それで救ってくれるヒーローがまたすんごくかっこよくて……あと自分の能力が認められたりするのも良いよね。聖女としての能力もそうだけど元からのが活かされても嬉しい。役立ってチヤホヤされるのってめっちゃ気持ちいいからね。満たされる感じある。そういうの読み漁ってる時期あった。なんならちょっと前までそうだった。
聖女として召喚されるまでは。
「調子に乗りそうになったけど、あんまり調子に乗ったら『ざまぁ』される展開もあるよね、って思って自重しながらも頑張ろうって思ってたよ。思ってた、けど……まさか『頑張る』が地雷選択肢だとか思わないじゃん!」
主人公っぽくなりたかった。応援してもらえるような主人公になろうって思ってた。まあ不純。不純だよ? でも……不純でもいいじゃんかよぉ! だってチヤホヤされたいもん! みんなから一目置かれたいもん! 『俺だけがこの子の良さを知ってる』ってみんなから思われたいんだもん! 当たり前のようにめっちゃ善人っぽいことして呆れられながらも好感度上げるやつ、私もやりたかったんだもん! めちゃくちゃ頑張り屋さんだと思われて労れたりしたかったの!
この願望はすべて人類が共通して抱くものであり、決して誰かに貶められたり馬鹿にされたりするようなものではないはずだ。間違っているだなんて言わせない。いや、まあね? 私はちょっと自分に正直なところはあるかもしれない。でもこれは長所だから。自分の願望を正しく把握している……一周回って主人公適性ないくらい長所だ。だいたい主人公ってストーリーの中で『自分がいちばん欲しいもの』を見つけていくものだからね。それを最初から見つけちゃってる私はそういう意味では主人公適性ないのかもしれない。
でもそんなの心の中を読まれない限りはわからないからね。外から見てわからないならないのといっしょよ。中身にどれだけ汚濁を詰め込んだ肉袋だったとしても外から見て綺麗だったらそれはもう綺麗なんですよ。ね? ということで私は綺麗な主人公を装えている。
清廉潔白、健気な努力家ヒロインですよ! それが私と考えてもらって問題ない。
だと言うのに。
「なんで私、強豪校の運動部みたいな毎日を過ごさせられてるの!?」
ここで私の最近の一日を振り返ってみよう。
日の出とともに起床。ランニング。型の復習。組手。一度水浴びで汗を流した後に朝食。朝の報告会に出席してから回復魔法の実践訓練。昼食の後は騎士さんたちに混ざって訓練。それが終わればアイザックさま――司祭さまからの直々の『ご指導』を受ける。
アイザックさまは神殿の偉い人であり『聖女係』みたいな人だ。神殿の偉い人なのにおじさんじゃない。二十代。めっちゃ若い。しかもイケメン。キリッとしてちょっとこわい顔で厳格そうな見た目でもあるけど、すごい美形。
回復魔法のエキスパートで、見るからに『できる』って感じの人。彼から教えてもらうことは多い。でも、回復魔法に関しては『聖女パワー』でなんとかなる。学ぶところもあるけれど、そこに関しては私も異世界転移ヒロインだからね。ちょっと練習しただけで世界一の回復魔法の使い手ですよ。普通はできないくらいのこともできるからね。
ただ聖女パワーが強すぎて調整が難しいところはある。ちょっと蛇口をひねっただけでジョボボボボボ! って出ちゃうから。でも大っきな鍋しか持ってないのに針みたいな試験管に半分だけ水を入れる――みたいな調整、普通できないと思うんだよね。頑張ってはいるんだけど……未だに試行錯誤中だ。
閑話休題。それでアイザックさまの話の続きなんだけど、私は彼に色んなことを教えてもらっている。回復魔法ではないのならいったい何を教わっているのかと言うと……まず、聖女のお仕事。雑務とか書類仕事とか。聖女という職務に必要なことを教わっている。
そして、最も時間をかけて教わっているのは。
「なんで私、聖女なのに武術の鍛錬なんて受けてるんだろう」
そう。
私、聖女なのに武術を仕込まれちゃってます。
……なんでぇ!?
*
「聖女。君には自身を守る術を身につけてもらわねばならない」
聖女として召喚されて間もない頃、ちょっと落ち着いた頃にアイザックさまからそう言われた。
冬のような人だった。雪降り積もる厳冬が人の形をしているような。
髪はほとんど白に見えるほどのプラチナブロンド。肌も血管が透けて見えてしまいそうなほどに白く、身を包む法衣(と言えばいいのだろうか)もまた白い。深い藍色の瞳以外のすべてが白い人だった。
いつも険しい顔をしている。初めて会ったときからそうだ。召喚されただけとは言え、仮にも聖女である私に対しても彼は優しげに微笑むなどといったことはなかった。他の人と同じように最初に謝罪の言葉はもらったが――異世界召喚という世界規模の拉致監禁が必ずしも善行と言えるものではないという意識をみんな持ってるタイプの異世界転移モノだった――そのときも彼は「などと言ってみせても、君に働いてもらうことには変わりないのだがな」なんて言っていた。それはそれ、これはこれらしい。
まあ「何もしたくない早く帰して」って言ったところでどうしようもないだろうからね。最後の……最期の記憶は階段に頭から突っ込む直前だったし、どっちにしろ死ぬところだったと思うんだけど。
そんな意味合いのことを言うと「それが召喚の条件だからな。死神に魂を拐われようとしている瞬間にだけ世界を越えて干渉し得る。言うなれば我々は死神が手を付けようとした魂を横から掠め取っているだけに過ぎない」とかよくわからないことを言われたけど……端的にまとめると『死ぬ直前の人しか召喚できない』ってことらしい。じゃあ問題なくない? 私は思った。ただこの世界の人は善良な人が多いみたいで『安らかな眠りに就こうとしているところを邪魔している』なんて考えをするらしい。まあそういう考えもあるか。私は違うけど。
「君には護衛の騎士が付く。しかし、四六時中というわけではない。その瞬間を狙う者が居ないとは限らないからな。万が一の事態を防ぐためにも、君には一定の自衛手段を身につけてもらう必要がある」
アイザックさまの言葉だ。自衛手段……と言うと、どんなものだろうか。バリア的な魔法とか……もしくは攻撃魔法とか? 聖女だし光を使うレーザーっぽい魔法とかかなぁ
その頃の私はのんきにそんなことを思っていた。
が、違った。
この世界には魔法がある。魔法には系統があり、人は生まれ持った系統の魔法しか使うことができない。
そして私の系統は『回復魔法』だ。……おわかりいただけただろうか? 私は人の怪我や病気を治すことができる。それが回復魔法の特性ーーだが、同時に『それ以外は何もできない』ということでもある。
もちろん人の怪我や病気を治すなんてめちゃくちゃ便利な魔法だ。戦い以外では役立ちにくい系統の魔法と比べたらこっちのほうがずっと良い。それはそうなのだけれどーー逆に言えば『回復魔法』の使い手は誰かを傷つける手段を持っていないということになる。
それは安心できることでもあった。私も一般日本人。人を傷つけることには慣れていない。殺傷能力のある魔法を使えと言われても間違いなく躊躇が勝ってしまうだろう。
自衛のために魔法を覚えるーーそんな方法ではなかった。が、自衛手段は身につけておく必要がある。
で、あるならば。
「もちろん、魔法を用いない自衛手段を身につけてもらう。幸いにも我々には回復魔法がある。訓練で怪我をしたところで自分で自分を癒すことができるーーその訓練まで同時にできる。開祖……『回復魔法しか使えないなら武術を極めればいいじゃない!』と説いた過去の聖女の言葉を借りるのであれば『一石二鳥』だ。合理的だろう?」
なるほど。アイザックさまのおっしゃる通りだ。過去の聖女って人の言葉にもうなずける。合理的だ。合理的……だけどっ!
そういうんじゃないんだよなぁ~!
指導でこってり絞られた私は思った。ガチだった。めっちゃガチ。なんちゃってじゃない武術の訓練だった。服装だけはさすがに和装って感じのじゃなかったけど(まあ法衣がちょっとそれっぽく見えなくもないかもだけど)……ガチの武術だった。
痛みは残っていない。疲労もだ。そのあたりは回復魔法でなんとかなる。なってしまう。要するに際限がない。代わりに魔力っぽいのが減っている感じはあるけど、そこは聖女ですから。誤差の範囲内だ。ただそれも一長一短。普通は『自分を癒すだけの魔力がなくなったら限界』みたいな認識らしいので、私の魔力がそこまで多くなかったらもっと早く切り上げていた可能性もある。
アイザックさまはめちゃくちゃ強かった。指導の前に『実際に武術を学べばどれだけ効果的か』というデモンストレーションとして騎士の人と手合わせするところを見たんだけど……もうすごいのなんの。漫画に出てくる合気道の達人かな? って感じ。合気道っぽい感じの武術なのは開祖が過去の聖女っぽいから『女性でも扱えるように』ってことなのだろうか。思えば、訓練しているところを見せてもらった他の回復魔法の使い手の人たちも女性が多かった。そういったことも関係しているのかもしれない。
そういうわけで私の過酷な鍛錬生活は始まった。これでも努力家主人公だからね。文句一つ言いませんとも。私の考える聖女ムーブをこれでもかとロールプレイしてやりました。
回復魔法があるから疲れないっていうのも大きい。精神的な疲労はどうしてもあるけど、それくらいしかないし。常に自分に回復魔法かけ続けてるし……回復魔法は他人にかけるよりも自分にかける方が楽らしい。私の場合は(怪我とかしない限りは)魔力の消費量よりも回復量が上回っているので常時回復魔法使用なんてことができるわけだ。
そこで私が思ったことはもちろん『なら睡眠時間も要らなくない?』だった。実際要らなかった。身体も脳も常に全快だからっぽい。正直夜くらい眠りたい気持ちはあったけれど、私は努力家な健気主人公。できると言うのにしないのは沽券に関わる。『楽してるじゃん』って思われる可能性もあるからね。実際日本に居たときよりは楽だし。社畜経験が活きるぜ。私の取り柄なんてそれくらいしかないとも言える。
ってことで日々徹夜して鍛錬やらお仕事やらお勉強やらやってたらアイザックさまに呼び出されて「夜は寝なさい」との言を賜った。逆に迷惑だったっぽい。夜灯の油ももったいないもんね。私は素直に謝った。アイザックさまが苦いものを食べたときのようにいつも険しいお顔をさらに険しくさせた。峻険なるお顔である。私は謝った。アイザックさまがさらに険しくなった。なんでぇ!? 私は戸惑った。しかしこれ以上は藪蛇かと追及はしなかった。わたしえらい!
ということで私は睡眠を取り戻した。楽をしてるわけじゃないよ? アイザックさまに言われたからだから……それと迷惑をかけてしまっていたことを含めて護衛に付いてくれている騎士さんに謝罪すると騎士さんはめちゃくちゃ安心したような顔をしていた。やっぱりめちゃくちゃに迷惑をかけてしまっていたらしい。聖女ちゃん反省。
ちなみに護衛の騎士さんは女騎士さんだ。そこんところは気を遣ってくれているらしい。日本人感覚だとずっと私なんかの護衛をさせて申し訳ないなぁと思ってしまうのだけれど、そこのところは甘えている。少しでも楽をさせてあげたり、息抜きさせてあげられたらいいのだが……。そう考えて色々することはあるけれど、そのたびになんかむしろ張り切っちゃうんだよね。息抜きしてほしいのに。逆効果になっちゃって悲しいよ。早く護衛なんて要らないアイザックさまくらい強くならなければ、と思う。がんばるぞ。ちょっと怠けたい気持ちはあるけど、だからこそね。ここで怠けちゃったら『ざまぁ』されちゃうから。そんなことは万に一つでも許してはいけない。
そんなこんなで頑張る日々が続く。その間も色々あった。神殿の外の人たち、一般の方々に顔を見せる――なんて仕事もあった。反応はそこそこ。まあ私って完全に異邦人だし顔も知らないだろうし『誰?』って感じだろうしね。『異世界より召喚された聖女さまだぞ~』って紹介されても実感とかないでしょ。まだなんもしてないし。
ちなみに魔王と戦うーみたいなお役目はありません。魔王は魔王で居るみたいだし魔族も居るみたいだけど人類と魔族で戦争してるーみたいなことはないっぽい。一種の『人種』でしかないってことだね。それだから戦争することもなくはないみたいだけど少なくとも今は違うらしい。じゃあなんで喚ばれたん? とも思うけど、戦えーって言われても困るからね。無理無理。いや、その割には自衛手段って言ってめちゃくちゃ武術仕込まれちゃってるんだけど……。
私が喚ばれた理由、その目当てはもちろん聖女パワーだ。つまるところ回復魔法。普段は既存の癒し手さんたちで十分みたいなんだけど、有事の際にはまったく足りない。そしてその『有事』が不定期に起こるらしいのがこの世界の辛いところだ。戦争って意味ではなく――それもなくはないみたいだけど――魔王は敵じゃなくても魔物は存在するし人類を襲うのがこの世界。決まった周期ではないらしいけれど、ある程度の期間ごとに魔物による大規模な侵攻が発生する。その『災害』で発生する負傷者の数は莫大で、普通には対処できないほどらしい。
言うまでもなく、どうにかその数を減らせないかといった対策はしているみたいなんだけど……それにも限界はある。軍備拡張したからって負傷者が減るかって言ったら……うん。限界あるよね。
そういうわけで有事の際に莫大な数の負傷者が発生してもそれをすべて癒やすことができるだけのリソースを持っている存在が求められたわけだ。それが私ってことだね! うん、責任重大。『もしものとき』になんとかできる手段がある。それが用意されている。日々を少しだけ安心に過ごすことができる象徴。それが聖女だ。
と言っても、そんな私の存在を快く思わない人も居るっぽく、それだから『自衛手段』なんてものを求められているところもある。人って言うか国? 団体? でも地球で言えば病院に攻撃を加えようとするようなものだよね。戦争犯罪も戦争犯罪だよ。国際人道法どうなってんだーってなる。……が、それはもちろんこの世界でも同様で『医療従事者や医療施設を狙った攻撃なんてありえない』という認識ではあるらしい。国際法として明文化されていないだけで。……いや、そういった条約みたいなもの自体はあるのかな? あるのかも。教えられていないだけで。ただあったとしても『聖女』を狙う存在は居る。居てしまう。それだけの話だ。
なんて不穏なことを話したけれど、今のところ『自衛手段』が必要になったことはない。……あ、一回だけあったかな。お忍び(という名目)で外出したときに何も知らない犯罪組織に狙われちゃって……護衛の騎士さんも女の子でお忍びに付き合ってくれていて変装中だったから傍目には『女がふたりだけで歩いている』って感じに見えていたらしい。そこまで治安が悪いわけではないしそれでも狙われるなんてことはないはずだけど……たぶん、私が狙われやすかったんだろうね。あるいは異国のお嬢様っぽく見られたりしちゃっていたのかもしれない。なんやかんやなんとかなったけど、あのときは武術を習得していてよかったと思ったものだ。必要になってほしくはなかったけどね……。まあなかったらなかったですぐ助けられたような気もする。多少の怪我ならなんとかなるし。そう考えるとやっぱりいらないか? でも痛い思いはあんまりしたくないからなー。ここは前向きに『習っておいてよかった!』と思うことにしよう。
私みたいな存在が『お忍び』で外出することを許されたのは私にもある程度の自由が与えられているからだけれど、その事件があってからはピリッとした。日本ほどじゃないにしても、この世界もそこまで治安が悪いわけじゃないはずだからね。それなのにたまたまお忍びで外出したからって犯罪組織に狙われるの不運にもほどがある。偉い人たちもなんか気まずそうにしてたからね。ある意味私は『お客様』だ。それも世界の外からのお客様。そんな人物に『うわぁ……ここめっちゃ治安悪ぅ……』って思われるのめっちゃ嫌じゃない? 恥ずかしいよね。絶対。めちゃくちゃ謝られちゃったけど私ももうこの世界の一員だし大丈夫ですよーってした。あと不定期に大規模災害が起こるしそれで発生した傷病人をみんな救えるだけの人的リソースも不足しているーなんて状況なんだから、むしろもっと治安が悪くなっても仕方なかったはずだ。そう思えばなんたってないですよ! あと私が来ましたからね。これからは絶対的な聖女パワーでみんな安心して暮らせるような世界にしてやりますとも。不安で心が荒んで犯罪に手を染めるなんてことを選ばなくてもいいような世界に……ね! 私はデカいことを言った。もちろんそんなことは不可能だし平和な世界でも犯罪なんてめちゃくちゃに起こる。でも私は聖女なのでね。健気な努力家聖女さまなわけですよ。それくらいは言わないと。でもそれを聞いた人が感涙してたのはちょっとウケたし引いた。そこまで真正面から受け止められて感動までされちゃうと気まずいじゃん? ねっ、騎士さん。……な、泣いてるぅ~!? えっ……そ、そんなん絶対ムリじゃん? 『何を綺麗事を……ただ、世界を変えられるのは、ひょっとしたらそんな甘ちゃんだけなのかもしれんな』みたいな反応してよぉ! 世界の汚さを知らない純真無垢な聖女に庇護欲爆発する流れでしょ? 本気にされると……ちょっとぉ……重すぎるかなぁ、って……。
思ったよりも周りの人たちがピュアで私は戸惑った。アイザックさまは変わらず険しいお顔をしていたけれど……このお顔が癒やしになるとは思わなかったよ。いやめちゃくちゃ美形だからそういう意味では癒やしなんだけどね。目の保養。険しくさえなければなぁ。笑顔とか見てみたいよね。……うん、めっちゃ見てみたい。
というわけで、聖女のお仕事以外での私の目標を『アイザックさまの笑顔を見る』ということにする。
目標を持つと日々にハリが出るって言うからね。どうすれば笑顔を見られるようになるのかは難しいところだけれど……色々と試してみよう。
もちろん、聖女としてのイメージが崩れない程度に……ねっ!
*
聖女というものは変わり者が多い。そうと話には聞いていたが、それにしても今代の聖女は変わっている。
悪い方向ではないのだろう。アイザックが予想していたものは『開祖』のような――『回復魔法しか使えないなら武術を極めればいいじゃない!』などと公言した聖女、人類と魔族が敵対していた時代に魔王をぶん殴り人類の王もぶん殴り無理やり交渉の席に着かせた偉大なる暴走竜のような方向だったが、それとはまた違った方向に変わっている。
善良な人物ではあるのだろう。それは疑いようのない事実だ。だが、あまりにも『行き過ぎている』。アイザックの目にはそのように映っていた。
聖女は努力家だ。しかしそれは些か言葉が足りないだろう。付け加えるとすれば、聖女は『異常なほどの』努力家だ。
異世界から召喚された。本来であれば死ぬ運命にあったとしても、自らの意思ではなく了承も得ずに異なる世界に呼び出されたことに変わりはない。知人など一人も居ない世界。縁などというものはただの一つとして存在せず、すべてが『未知』の世界だ。不安になってもおかしくない。むしろ当然だ。『開祖』の聖女でさえ、当初は戸惑っていたらしい。あれだけ豪胆な逸話が残されている方であってもそうなのだから、一般的な女性であれば戸惑うのも無理はない――そう、思っていたのだが。
彼女はすんなりと状況を把握し、こちらの要求に応えてみせた。実質的に応えないなどという選択肢は与えられていないようなものではあったが……戸惑う時間があまりにも短すぎる。
何か裏があるのではないか。そもそもこちらが喚び出した側だ。選んだわけでもない。だと言うのに『裏』などあろうはずもないが、そう疑ってしまうほどに彼女はあまりにも都合が良かった。嫌な顔ひとつせずにこちらの要求に応え、努力する。聖女としての能力にも問題はない。あまりにも、あまりにも都合の良い存在だ。だからこそ疑ってしまってもおかしくないほどに。
だが、彼女と日々を過ごしていく中でその疑惑も薄れていった。その理由は単純だ。彼女はあまりにも都合が良く――しかし『都合が良い』わけではなかったからである。
聖女は努力家だった。ただ、先述したように彼女は『異常なほどの』努力家だった。
ある日、彼女に付けた護衛の騎士から報告を受けた。毎夜聖女の部屋から物音がする。様子がおかしい。眠っている様子がない、と。
聖女にも自由がある。当たり前だ。こちらは異世界から拐かして協力を申し出ている立場であり、さらに言うのであれば『開祖』が証明するように聖女は単身で戦争中の敵国の王の居城に殴り込み、さらにはその王をぶん殴ることさえ不可能ではない。そんな存在から完全に自由を奪い去るなどという真似はできないだろう。
それだから、夜間自室で何をしていようと問題はない。ないのだが――一睡もしていないと言うのは気がかりだ。日中の業務に支障をきたす可能性もある。アイザックは聖女を監督する立場にある。聞かない、という選択肢はなかった。
「夜に何をしているか、ですか? お恥ずかしながら……私の頭ではアイザックさまにお教えいただいたことを一度で学ぶことは難しいので、その勉強が一つ。また、回復魔法の鍛錬と……武術の復習も少し。最近は、ようやくいただけたお仕事も進めています。……え、睡眠? 仰る通り、確かに眠ってはおりませんが……日中の業務に支障をきたすことをご心配なさっているのでしょうか? それならば問題ありません。アイザックさまもご存知の通り、私には聖女の力があります。自分への回復魔法は効率が良いとお教えいただきましたが、私の場合、外傷がなければ自分への回復魔法で消費する魔力と自然回復する魔力では自然回復する魔力の方が大きいようなのです。私は常に自分へと回復魔法をかけ続けて万全の体調を保っており、疲労することがなく――要するに、睡眠を必要としません。ですから、ご心配なく。私は聖女としての務めを果たすことができるはずです」
もっとも、わざわざアイザックさまが問題視されたということは私の努力が足りず、日中の務めに『支障をきたしている』と思われる程度の成果しか発揮できていなかった、ということなのかもしれませんが……。
そんなことを言ってみせた聖女に対してアイザックが恐怖に似た感情を抱いたことは言うまでもないだろう。
決して、人間味がないわけではない。人情深いことはわかっている。冗談を好まないわけでもなく、ふとしたときに怒ってみせることだってある。食事をしないこともないし、娯楽を楽しまないわけでもない。この世界の常識について教えられる中でカードのことを教えられたときにはアイザックも挑戦を受けたことだってある。ちなみに聖女は全敗した。アイザック以外に対しても勝負を挑んでは敗けていた。そういったところもある。ある、が。
それ以上に、彼女はあまりにも献身的だった。睡眠時間さえ犠牲にして努力する。睡眠時間を『不要』だと切り捨てる姿はアイザックにとって異様に映った。多忙の身である彼自身、睡眠を必要とする自身の身体を煩わしく感じることは多かったが――それが一般的なものではないことは承知していた。それを聖女は『できることだから』と当たり前のように実行している。
アイザックは頭が痛い思いだった。寄る辺がないにしても睡眠を犠牲にして修練に励むなど、どう考えても『無理をしている』。自分も過労ではないかと疑われることが多い身ではあるが、そんな我が身をして遥かに上回る過労だ。身体は全快かもしれないが、精神的なものまで含めれば看過できるものではない。
そして周囲から過労だと言われるアイザックでさえその認識なのだから彼以外がどのように考えているかなど想像するまでもない。聖女の騎士――もともとは魔物との戦闘を望んでいたが最も優秀な女性の騎士であることから『聖女の護衛』を命じられたことから『聖女さまを護衛することは非常に光栄極まりないことであることは承知しているが、私に護衛任務は……』と苦い顔をしていたが、いつの間にかすっかり名実ともに『聖女の騎士』になってしまった彼女の視線がアイザックに突き刺さるようだった。彼女は目でこう言っている。『聖女さまをなんとかして休ませてあげて下さい』と。
なら自分で言え。アイザックはそう思うが、もう言った後なのだろうと思い直す。聖女の身を案じるような物言いをしたならば首を傾げて『? 私の体調は回復魔法で常に万全ですが……』などとのたまうことは想像に難くない。そういう問題ではないのだが。
アイザックはため息をついた。「聖女。夜は寝る時間だ。君は問題ないのかもしれないが……君の騎士の顔を見てみるがいい。彼女だけではない。同じ気持ちを抱いている者は多いだろう」
暗に『自分では問題なくても心配する側のことを考えろ』と言ったつもりであったが、聖女は大きな失敗に気付いたときのように息を飲んだ。
「……そう、ですね。私の浅慮によって大変な迷惑をかけてしまっていたようです。物音は抑えるように努めていたつもりですが、その些細な物音こそ警戒の邪魔になってしまったことでしょう。夜灯の油も限りある資源だと言うのに、私は自分のために惜しげもなく使ってしまって……申し訳ありません。私の思考が至らないばかりに、ご迷惑をおかけしました」
そうじゃない。アイザックは思った。きっと彼女の騎士も思っていた。アイザックの頭が痛む。眉が顰められる。聖女がそれに気付く。
「アイザックさま……ほんとうに、すみません。ご迷惑をかけたお詫びを――」
「不要だ。……君に怒っているわけではない。気にするな」
「しかし」
「二度は言わない。……自分の行動が迷惑だと思っているのであれば、これからは夜は身体を休めることだ。わかったな?」
それに聖女はうなずいてくれた。騎士からの視線が痛い。……『迷惑などではない』と聖女の言葉を否定してほしかったのだろう。だが、そう言い切ってしまっては聖女はまた同じことを繰り返しかねない。
アイザックはそう思っていたが、単に『迷惑というのはそうかもしれないが、それは「心配をかける」という意味だ』と言ってみせれば彼の本意も伝わっていただろう。彼もまた人付き合いが器用なタイプというわけではなかった。自覚はないが誤解されやすい人間だ。もっとも、そんな彼をして聖女の前では比較的『常識人』とカテゴライズされてしまうがゆえに聖女の騎士も彼にこんなことを頼んだのではあるが。
これは聖女の異常な努力の代表的な例ではあるが、それ以外の場面でも彼女は献身的なほどに善良だった。すべてに共通することは『自分の身を蔑ろにしている』傾向にあることだろう。その点はまったく褒められたことではなかった。
とは言え、そのことでアイザックが彼女への指導の手をゆるめるということもない。それはそ、これはこれ。特に武術の指導に関しては力を入れた。アイザックにとって、聖女は『危うい』存在だった。自分の身を蔑ろにする傾向にある彼女だからこそ、自分の身を守る術を身につけるべきだ。聖女の騎士は聖女を守るために全力を尽くすだろう。聖女に万一のことがあればそれはこちら側の責任だ。しかし――だからこそ、その『万一』のことがあったとしても、誰も守ることができない状況にあったとしても彼女が彼女の力で彼女を守ることができる術を教える必要があった。そして聖女は――自身の『聖女としての価値』を理解しながらも、それ以外の『自分の価値』を蔑ろにしている彼女であれば、『聖女としての価値』が毀損されない範囲内であればどれだけ自分が傷つくことになっても問題ないと考えるだろう。で、あれば。……彼女はその『万一』に自分から身を投じてしまってもおかしくはない。
その一報がアイザックの耳に入ったのはある日のこと。聖女が『お忍び』で城下に出る日のことだった。完全に護衛を離すことはできないが、それでも彼女には少しでも自由を満喫してほしかった。名目上は『お忍び』で『息抜き』だが、実質的には『聖女自らの目で市民がどのように暮らしているかを見てもらうため』――と聖女には話したが、実際はその逆だ。名目上の『息抜き』こそが目的だった。もちろん、あわよくばこの世界のことを知ってほしいとも思っていた。この世界のことを、この国のことを。そうやって少しでも自分たちが生きる世界のことを好きになってもらえれば。そんな下心もなかったわけではないだろう。アイザックをしてそうなのだ。他の関係者にとってもそんな気持ちを抱いている者は少なくなかったはずだ。
だが、しかし――よりにもよってそんな日に、犯罪組織が活動していた。いくら潰そうともどうしても湧いて出てくる虫のような彼らは聖女を狙った。聖女だと知っていたわけではないだろう。知っていたのであれば国家、世界に対する反逆行為であり、すべて市民にとっての敵対行為だ。厄災が起こった際に命が救われるかどうか。それが聖女一人の存在によって大きく変わる。数人なんて単位ではない。数十人、数百人ですらまだ不足だ。数千、数万の人々の命をたった一人ですくいあげることのできる存在。それが聖女だ。普通の癒し手であれば一日に百人も診ることができるとは限らないが、聖女にはそれができる。たった一人の手が千に能う。一手千能の存在。それを害そうとするなど、正気の沙汰ではない。
もちろんそんな『正気ではない』存在もゼロではなく、今回の相手がそうであったとするならば聖女が無事に帰ってきていたかどうかもわからないが……その場合は防ぐこともできたかもしれない。計画的でない、突発的な犯行であったからこそ防げなかったというところもある。無論、そんな言い訳は言い訳以上の価値を持つことはないのだが。
護衛の騎士も仕事を怠っていたわけではない。即座に対処した。集団による襲撃。突発的なものにしては組織立った犯行ではあったが、聖女の騎士は生半可な実力の者に適う役目ではない。襲撃者は騎士一人の手によって一蹴された、が――聖女の騎士は元来『護衛』を目指していたわけではない。その専門の教育を受けたわけではなく、故に『護衛対象』から目を離す瞬間が存在していた。
その隙を縫って、聖女が騎士から離れて襲撃者たちへと向かって行った。そう、襲撃者が騎士の警戒をかいくぐったわけではなく、聖女が抜け出したのだ。それは奇しくもアイザックが教えた『敵対者に囲まれてしまったときの抜け出し方』をなぞったような行動だったが――聖女は優秀であり努力家である。聖女の騎士は護衛の専門家ではなく、護衛対象が自らの意思で自分から離れるなどというイレギュラーは完全に想定外だった。それらが重なったからこそ起こったことだが……言うまでもなく、聖女も何の考えもなしにそんな危険を冒す人間ではない。聖女は『聖女の価値』を理解している。また自らの騎士の実力を疑ってはいない。だから騎士が『自分を守ってくれる』ことは確信を持っていたが、同時に『襲撃者が退くならば追うことはない』だろうことも確信していた。
そして聖女は気付いていた。此度の襲撃者は『手慣れている』。既に『被害者』が存在する、と。
今なら『助けられる』かもしれない、と。
聖女は自ら襲撃者に捕まった。逃げる襲撃者の元へと『何もわからず動揺してその場から逃げ出した先にたまたま襲撃者が居た』という演技をして――そんな彼女を彼は拐った。その場で人質にされて終わる可能性もあったが、そうはならなかった。一刻も早く騎士から離れたかったのかもしれない。そうして聖女は襲撃者のアジトに潜入し――アイザックたちがその居場所を突き止め踏み込んだ頃にはすべてが終わっていた。
聖女に外傷はなかった。だが、敵対者の獲物に血の付着したものがあった。聖女は回復魔法の使い手である。どれだけ傷を負ったとしても『なかったこと』にできる。拐われていた少女たちの証言もある。聖女が自身の怪我を『治せるのだから』と無視して単身で傷を負いながらも犯罪組織を制圧したことは明白だった。
そんな彼女はアイザックの顔を見て――花が咲くように笑った。
「アイザックさまに武術を教えていただいたおかげで、助けることができました!」
自身が負傷したことなど一切頓着していない。ただ『助けられる者を助けた』だけだ、と。
……結果的に『聖女の価値』が毀損されることはなかった。聖女が死ぬことはなかった。だが、死ななければいいということではない。万が一にも聖女の命を奪い得ることもあったかもしれない。今回の件は決して称賛されるものではなかった。
もちろん、聖女にも考えはあったのだろう。自身の騎士に一蹴される程度の戦力しか持っていないのであれば自分が――怪我は負うかもしれないが――命を奪われることはないだろう、と。常時展開している回復魔法を飛び越えるような致命傷は負わされない。もし致命傷を負わせられたとしても、相手は数万の人々の命を救える聖女だ。数万回は同じことをされなければ魔力が尽きることがない。それも『自分に対する回復魔法』であれば効率も良い。もっと回数を重ねなければ魔力が尽きることはないだろう。回復魔法の使い手の命はその魔力が尽きるまでは奪えない。そもそも、それだけの回数殺される前にきっと助けが来てくれる。
……それは、確かに間違いない。『開祖』が単身で魔王に殴り込みをしたのも同じ理屈だ。回復魔法しか使えないなら武術を極めればいい。そうのたまった暴走竜と同じ理屈。だが、言うまでもなくそれは常人の思考ではない。
結局、彼女は一度も『致命傷』を負うこともなく一犯罪組織を制圧した。結果論でしかないが、彼女は罪なき少女たちの命を救った。聖女が傷を負うことと引き換えに、だ。
聖女が自らの身を危険に晒したことは変わらない。相応の処分があった。もちろん、彼女の騎士にも。……聖女は自身の騎士には不手際などないと主張したが、そんな主張が通るわけもなかった。それは騎士自身が望んだことでもあり――同時に、聖女にとってはそれこそが最も『効果的』であると判断されたからであった。聖女は騎士に謝った。騎士は許さなかった。聖女は落ち込んだ。騎士が折れた。すっかり聖女に心酔してしまっている。それは騎士だけでなく、聖女を知る他の人々の多くにとっても同じことだったのかもしれないが。
恐れていたことが起こってしまった。武術の指導をしていたからこそ聖女の怪我は最小限に抑えられたと言える。だが、裏を返せば、武術の指導をしていたからこそ彼女は危険に自らの身を投じてしまったとも言える。
召喚された当初、聖女に武術の心得などはなかった。そもそも身体を動かすことさえ得意なようには見えなかった。だが、アイザックの指導と彼女の努力によって聖女は一犯罪組織を制圧できるだけの力を得てしまった。それがなければ、彼女はただの『回復魔法が得意なだけ』の少女だったはずだ。であれば、彼女が危険を冒すようなことはなかったのかもしれない。そんなことも考えてしまう。
聖女は国賓に近い存在だ。そんな彼女が危険に遭ったのだから国家として謝罪の席を設けられた。公の場ではないとは言え、国家として謝罪の意を示すことは大きな意味を持っている。しかし聖女という存在はそれだけの誠意を示す必要があるほどに重大な存在だ。
我々の謝罪に対して聖女は微笑みを浮かべた後、「自分は既にこの世界の一員だ」と語った。
「ですから、責任は私にもあります。だって、私はそのために喚ばれたのでしょう? この世界の現状は耳にしております。不定期に大規模な災害が起こる――いつ死ぬともしれぬ世界だったのですから、安心して暮らせない方が居ても仕方ありません。そうなれば心も荒んでしまうことでしょう。……そう思えば、もっと余裕のない人々が居てもおかしくはないはず。しかし、この世界の人々の暮らしぶりを実際に見させていただいて――私は感銘を受けました。このような状況にあっても、人々は笑顔で暮らしている。その治世をどうして否定することができましょうか。
もちろん、今回の悪事は許されることではありませんが……あのようなことが跋扈しているのであれば、街の人々はあのように暮らせていないはずです。ただ、それでも悪事をなしてしまう人々も存在してしまう。私は不幸にも滅多にないことに巻き込まれただけ――いえ、私が狙われたということに関して言えば『幸運にも』と言うべきでしょうか。私が狙われていなかったのであれば――騎士の方々の働きによってどちらにせよすぐに解決していたかもしれませんが――拐われた女性たちを救助することが少し遅れていたかもしれませんから。
そして、最初に話した通り……私も、既にこの世界の一員です。この世界に属している。私は『聖女』です。人々が少しでも安心して暮らせるようにすることが私の責務。もっとも、私には原因を取り除くようなことはできず、あくまでも対症療法的なことしかできないのですが……それでも、少しでも人々の不安を取り除く助けはできるはずです。
そのために、私は来ました。そのために、私の力があります。力なき、罪なき人々が安心して暮らせるような世界にするために。罪なき人々が不安から罪に手を染めるなんてことを選ばなくてもいいような世界にするために。
ですから――むしろ、私がお願いする立場でしょう。私といっしょに、この国を、この世界を……少しでも、不安を取り除くために。
私に、手を貸していただけませんか?」
聖女の言葉に、アイザックたちはすぐに反応を返すことができなかった。大言壮語。そう切り捨てることもできるだろう。しかし、彼女は――彼女ならば。
そう思わせるだけの力が彼女にはあった。その瞳には明確な意志の光が見えた。
彼女は異邦人だ。同意なく魂を拐かされた被害者である彼女が、この世界のためにと本気で願ってくれている。
それに感動する者が居た。感涙する者が居た。ただ、アイザックは――やはり危うい、と思ってしまった。
妄言ではないのだろう。夢を見ているわけではない。綺麗事――ではあるかもしれないが、実現不可能なことでもない。聖女の能力を適切に評価するのであればそれは『可能である』と言っても過言ではないだろう。犯罪を撲滅する……絶無にすることはできなくとも、少なくすることであれば。実際にこの世界に生きる人々が抱えている不安を少しでも取り除くことが聖女であれば可能だ。
その『現実的な策』は聖女を担ぎ上げる、象徴的に扱うようなものもあったが――彼女はそれを鼻にかけることさえなく、意外にも淡々と『そうすることが効果的であれば』と受け入れる人間でもあった。聖女のことをよく知らない時期、アイザックは善良な彼女であれば『自分を良く見せようとする』ことを否定するのではないかと思ったが、聖女はそんな人物ではなかった。「確かに、聖女という『安心』の象徴があったほうが人々の不安もより効率的に取り除くことができるでしょう」と肯定的な立場を見せた。
『聖女』という立場に驕ることはない。傲慢に振る舞うことはない。だが祭り上げられることを拒否することもなく、過剰なまでに『聖女』という象徴を使うことにも遠慮するといったことがない。ただ『そうしたほうがいい』と納得するだけ。それは聖女の印象からすれば、ともすれば意外な反応にも思えるが――違う。彼女は一貫している。一貫して、彼女は『自分の存在を蔑ろにしている』。自分のことを蔑ろにしているから、自分への印象すらも彼女にとってはただの『材料』でしかない。目的を果たすためにどんな効果を持っているか。彼女にとってはそれだけのことなのだろう。
実際、彼女はそのように振る舞っていた。『お忍び』ではない公的な『顔見せ』……市民にその姿を見せる際にも聖女として振る舞い、その力をひけらかすことを厭うこともなかった。その『聖女の力』が市民の安心に繋がることがわかっているから。普段は抑えているのだろう。人の身に有り得べからざる尋常ではない魔力が溢れていた。彼女の性格を鑑みれば、普段の彼女を見ていれば『親しみの持てる存在』になることを望んでもおかしくはないが、彼女はそれを選ばなかった。圧倒的な『象徴』として君臨することを選んだ。
市民の中には彼女に畏れを抱いた者も少なくないだろう。しかし、それ以上に――そんな存在がこれからは自分たちを庇護することも知っているはずだ。『親しみが持てる』なんて存在に対しては決して抱けない感情。『圧倒的な存在が自分たちを庇護してくれる』。たとえ畏れを抱いたとしても……それは、間違いなく『不安を取り除く』ことになる。それは『親しまれる』なんてことよりもずっと聖女の望みに即している。
……ただ、その際に少しだけ寂しそうな顔をして「……静かでしたね。少し、怖がらせてしまったかもしれません」とこぼしていたことも事実ではあるが。
閑話休題。そのような手段も迷いなく選ぶことができる聖女だからこそ『少しでも人々から不安を取り除き、犯罪を減少させる』という言葉は妄言でもなんでもなく『現実的な目標』だった。だが、それによって彼女は間違いなく自分を蔑ろにする。
アイザックは、それが気に食わなかった。
……今までは、ずっと自分の望みばかり口にする者たちに辟易していた。あまりにも自分勝手な者たちにあれだけ苦労をさせられておいて――今、あまりにも自分を蔑ろにする者に頭を悩ませている。真に『自分勝手』な人間は自分かもしれない、とアイザックは自嘲する。
アイザックにできることがあるとすれば、それは武術を教えること。少なくとも怪我をしなくても済むように、と。本当に武術を教えてもいいかと悩むこともあったが――彼女の『献身』を思えば武術がなくとも危険に身を投じるべきと判断したときには迷いなくその身を危険に投じることは明らかだった。決して痛みに強いわけでもないにも関わらず『死ななければいい』と幾千幾万の死にさえ飛び込む。聖女がそういった存在だということはわかっている。武術の鍛錬時にも痛みに涙することはあっても決して音を上げることはない。
……そう、彼女は『痛みに涙する』ことはあるのだ。鈍感なわけではない。痛みは痛みとして感じている。苦痛を苦痛として感じている。ただ『それ以上に優先していること』があるだけで。
そう思えば、少しでも『痛み』を感じることが少なく済むように、と武術を教えることは間違っていないだろう。……その過程において誰よりも聖女を痛めつけているアイザックにそのようなことを思う資格はないかもしれないが。
いつもの武術の鍛錬の時間。アイザックは聖女と組手をする。世界でも随一の使い手であるアイザックが聖女に遅れを取ることはないが、アイザックという世界最高峰の練習相手と彼女自身の異質とも言える努力によって、彼女の上達は飛躍的なまでの速度を誇っていた。疲労や怪我を回復魔法で補えることによりすべて癒し手は武術の上達が速いものの、そんな中でも突出している。
そして聖女は無尽蔵にも思えるほどの魔力がある。際限がない。組手を切り上げるのはどちらかと言えばアイザックの限界が――有事の際に備えてそれでも常に一定以上の魔力は保つようにしているが――その『一定』のラインを割ることが『合図』と言える。
今日もそうだった。これ以上は魔法を使うわけにはいかない。そう判断して、魔法を使わず、疲労を回復しない状態で組手を続ける。そうしてあと一度か二度だけ手合わせすれば終わりにしよう。そう判断して、アイザックは聖女を見る。
そして、最近の聖女が少しだけ様子がおかしいことを思い出す。……もともと、彼女は人当たりが悪くない女性ではある。あるのだが、どうしてか最近は自分に対して冗談を言ってみせるようなことが多々あるのだ。もちろん業務に支障をきたすようなものではないのだが……不思議に思って聞いてみても「……いえ、アイザックさまはいつもお疲れの様子なので、少しでも肩の力を抜く助けができれば、と」などと返してくるばかりで要領を得ない。そもそもアイザックは回復魔法の使い手である。精神的なものを除けば疲労などたまるはずもない。……いや、それだから『精神的な疲労』を軽減させるための冗談だったのかもしれないが……現状最も大きな悩みの種でもある聖女に言われたくはない。彼女が悪いわけではないが、そうだとしても。
そもそも、アイザックは冗談を言われたとしてもあまり笑えない人間だ。冗談を好まないと言うよりは単に『解さない』。何が面白いのかを理解できない。『それが冗談だ』ということは理解できてもそこで止まってしまう人間だった。それだから聖女に冗談を言われても困るばかりで気の利いた返しをすることはできない。
どうすれば聖女の冗談に笑ってあげられることができるだろうか。『聖女の力』だけではなく、聖女自身が、聖女個人も大切な存在だと聖女に思わせてあげられるように……その一助となるかもしれない。そう思うと、聖女の冗談で笑ってあげることは重要なことのように思える。冗談について学ぶべきか……。
そんなことを考えていたからだろうか。疲労もある。アイザックの動きに、隙があった。
聖女はそれを見逃さない。
「そこっ!」
ふわり、とアイザックの身体が浮いた。その段階になってアイザックは自分が投げられたことを理解したが、もう遅い。気を抜いた自分への罰だと考えて大人しく投げられることにした。
そうやって地面に叩きつけられたアイザックに聖女が覆いかぶさった。馬乗りに――文字通りマウントを取って、聖女がアイザックの顔を間近で見下ろす。
髪の帳に閉ざされて、アイザックから聖女の顔しか見えなくなる。
そして、聖女は。
「私の勝ち」
獰猛な獣のように、歯を見せて笑った。
今までに聖女のそんな顔は見たことがなかった。聖女らしくない、獣じみた笑顔。
そんな彼女を見て、何も考えられずに呆けてしまう。そんなアイザックの様子に気付いたのだろう。聖女は「あ」と彼女らしからぬ間抜けな声を出して、
「ご、ごめんなさいっ! わ、私、めちゃくちゃ失礼なこと……と言うか、たぶん、すごい顔……え、えっと、その……あ、アイザックさまに勝てたのが嬉しかったあまりに、いや、その……わ、忘れてください……」
あわあわと慌てながらそう言った。……そんな様子も含めて、普段の彼女とはあまりに違った姿で。
「……ふっ」
思わず、アイザックは笑ってしまった。
先程見た、聖女の笑顔を思い出す。普段の楚々とした彼女の姿からは想像もできないような獣じみた笑み。暴力的な、あの笑顔を。
少しだけ、聖女のことが苦手だった。
あまりにも危うい彼女のことが気がかりだった。感謝はしている。人間性についても好感が持てる。ただ、その在り様があまりにも危うく見えて――それだから、彼女のことが苦手だった。
しかし、つい先程見たあの顔に危うさなんて欠片もない。
あれが聖女の本性だ、などとは思わない。だが、彼女の中に一部でもああいった部分があるということも事実なのだろう。
今まで見たことがなかったのは、彼女がずっと聖女として自分を律しているから。自分たちに心を許していないわけではないだろうが……完全に何の遠慮もしていない、ということもないのだろう。
彼女は賓客だ。世界の賓客。今はもうこの世界の一員だとしても、真に馴染むにはまだ時間がかかるのだろう。
彼女が本当にこの世界を自分の居場所だと考えられるようになったならば、またあの顔が見られるのだろうか。
もしそうなのであれば――可能な限り早く、彼女がこの世界で過ごしやすくしなければいけないな。
アイザックは思う。もう一度、あの顔が見てみたい。
とは言え、わざと負けてやるつもりもないが。
アイザックはその場で顔を抑えて蹲っている聖女に声をかける。もう一戦だ。気を抜いた自分に勝ったくらいで調子に乗られてしまっては困る。
アイザックは聖女をぴょいと放り投げた。勝った。アイザックは満足した。
単に負けず嫌いだっただけなのかもしれない。
*
やっちゃった!!!!!
アイザックさまに勝てたのが嬉しくて素が出てしまった。ヤバい。せっかく今の今まで聖女ムーブを続けてきたのに……な、なんとか誤魔化さないと。そう思って慌てながら誤魔化そうとする。それも普段の聖女ロールプレイではあんまりしない感じだったけど、なりふり構っていられない。慌てる姿ならまだしも、さっきのは……さすがに聖女っぽくなさすぎる!
でも、ずっとアイザックさまには勝てる兆しさえ見えなかったのだ。やけにアイザックさまが気を抜いていたりしたとは言え、ようやくアイザックさまに勝つことができた。それでテンション上がっちゃうのは……仕方ない! わたし悪くない! 私は悪くねぇ!
しかし、やらかしてしまったことは事実だ。アイザックさまの反応を見るのがこわい。でもアイザックさまのことだからいつもの険しい顔のまま冷たく流してくれるかも……。
そうやって、恐る恐る彼の顔色を窺うと。
「……ふっ」
アイザックさまが、微笑んでいた。
「えっ……」
その瞬間、すべてを忘れてしまった。
冬のような人だと思ってきた。すべてが白く、厳しい冬のような人。
そんな彼の笑顔はどんなものなんだろうかと思っていた。……笑うことなんてあるのだろうか、と思っていた。
ずっと、彼の笑顔が見てみたかった。
そして、今。実際に彼の笑顔を見て……その、優しい、春の陽射しのような笑顔を見て。
喜ぶよりも、嬉しいよりも、それよりも先に――急に、顔が熱くなった。
えっ、ちょ……そ、その顔は、ちょっと。
悟られないように、頬を抑えてその場にしゃがみこみ、パタパタと小さく足踏みする。居ても立ってもいられない。でも動けない。顔が、熱い。きっと、さっきよりずっと誰にも見せられない顔してる。
でも、あの笑顔はずるい。反則だ。私、聖女なのに。人たらし系聖女なのに! そんな私をたらすなんて、そんなの、あっちゃいけないことなのに。
「……くそぉ」
せっかく勝ったのに――これじゃ、負けたみたいじゃん。
熱の冷めない頬を抑えながら、私はぼやく。
……でも、ここからアイザックさまを攻略できれば引き分けだから。
そうと決まれば、ここからは武術とかそういうネタ的な展開じゃなくてラブストーリーの開幕……なんて思っていたらアイザックさまに声をかけられてもう一戦と誘われた。
え? いや、私、今そんなところじゃ――なんか目がガチじゃないですかアイザックさま!? ちょっ……もー! いいですよ! 私もさっきのがマグレじゃないって証明――あっ。
ぴょーい、と投げられた。ぎゃふん。
負けた。完膚ないほどに見事に負けた。やっぱりさっきのはマグレだったっぽい。
……もうちょっとロマンスに浸らせてくれないかなぁ! 何が「回復魔法しか使えないなら武術を極めればいいじゃない」なの! 過去の聖女め〜! 恨むからね!
まあアイザックさまが険しい顔しながらも得意げなのはちょっと良かったけど! 正直かわいかったけど! あっ……意外と負けず嫌いなところあるんだ……かわいい……ってなったけれども!
だからと言って投げられたいわけじゃないんだけど!?
決めた。一刻も早く武術を極める。逆に考えるんだ。アイザックさまに完勝できるくらいになればもう武術の鍛錬とかしないで済むって。アイザックさまとのラブストーリーに専念できるって!
ふっふっふ……アイザックさま! 私を本気にさせたことを後悔してください! 絶対にあなたをこてんぱんにして、私とのラブストーリーを始めさせてやりますから!
首を洗って、待ってろよ!
……なんかめちゃくちゃ悪役っぽくなっちゃったんだけど!?