ご主人様
そんなんじゃないよ、と優子がバッグを棚に戻した。デザインが気に入らなかったのか、機能的な部分が駄目だったのかはわからないが、とにかく俺が選んだバッグは優子のお気に召すものではなかったようだ。 「 そんな小さなものにエリザは入れないでしょ 」
「 猫を入れるのか? 」
「 この子だって歩ってばっかりじゃ疲れるでしょ。バッグの中に入ってれば少しは休めるじゃない 」
優子は極度の猫好きで、エリザは優子の黒猫だ。店内だというのに優子の足元で毛づくろいをしている。ペット入店可とはいえ、俺は店員から注意されないかとびくびくしていたが、幸い店員はカウンターで、売上表らしき用紙とにらめっこしているだけだ。
今日は優子との初めてのデートだった。ペット用品を買いに行きたいと優子は言ったので、俺はペットショップに行くものとばかり思っていた。少なくとも猫を持ち運ぶためのバッグを買いに出かけるとは予想していなかった。
これよさそう、と言いながら、優子が棚のバッグを手に取り、エリザを中に入れた。かわいいねぇ、と優子はのんきな声を上げたが、俺は店員に気づかれないかと焦るだけだった。
*****
1週間後また優子とデートをした。やはりエリザも一緒だ。夕日も暮れた頃、俺達は車で、数日前から予約しておいた某有名レストランに向かっていた。
「 どこに行くの 」 と優子が聞いてくる。まだ彼女にはレストランに行くことは話していない。俺は「 どこだと思う? 」 ともったいぶって言った。
「 わからないから聞いてるんだけど 」
「 ここだ 」 彼女にレストランのパンフレットを渡す。
「 大丈夫なの、ここ 」
「 金はあるから心配すんな 」
「 そうじゃなくて 」
「 なんだ 」
「 この子も入れるの? 」 優子が、抱きかかえながらエリザを見つめている。
「 いや、わからないけど。猫はここに置いていってもいいんじゃないか?あとで飯食わせればなんとかなるだろ 」
「 そんなことできるわけないじゃない。エリザもレストランで食べたいよね? 」 優子がエリザをなでる。エリザが同意するように鳴いた。俺はもう猫以下なのか、と思いながらも 「 んじゃ別のとこ行くか? 」 と提案してみた。
「 駄目。この子はもう行く気満々 」
「 なんでわかるんだよ 」
「 私この子と意思疎通できるのよ 」
俺は、ああそうですか、と流すのが精一杯だった。
*****
数日後、大学の帰り道で後ろから声をかけられた。優子だ。当たり前のようにエリザも手提げバッグから顔だけ出していた。ちょっといい?とCDショップの買い物に誘われた。
ショップに着くと優子が店前でしゃがみこんだ。どうしたのか、と思うよりも先に信じられない言葉が耳に入ってきた。 「 申し訳ありません、ここではお静かにお願いします、エリザ様 」
「 優子……? 」
「 なによ? 」
「 いや、なんで猫にそんな丁寧口調で……それに 『 様 』 って 」
「 なにが言いたいの 」
彼女の冷たい目を見てわかった。彼女は本気だ。俺はもうそれ以上は追及しなかった。
店内でCDを眺めていると優子が「 ちょっとトイレ。エリザ様お願い 」とエリザ入りバッグを渡された。
それにしても、と俺は猫を見ながら考えた。お前いい思いしすぎだろ、と。『 様 』 付けで呼ばれるなんて生意気すぎる、と俺は苦笑した。
魔が差したというべきなのか、俺はささやかな悪戯を思いついた。この黒猫に対する嫉妬もあったのかもしれない。俺はポケットからネームペンを取り出し、猫の肉球に落書きしようと試みた。バッグを床に置きしゃがむ。猫は少し抵抗したが、なんとか書くことができた。サッと内ポケットにペンをしまう。
「 まったくお前は何様のつもりだっつーの 」 俺は猫の頭をポンポンと軽く叩いた。その時後ろから冷ややかな声がした。
「 なにしてんの 」
「 コミュニケーションだ 」 俺は彼女の方を振り返りながら心にもないことを言った。
「 エリザ様に気安く触らないで 」そう言うと彼女はバッグを寄せ「申し訳ありません」と猫に頭を下げた。
肉球の落書きに気づいていないのが少し愉快だった。
*****
「 いただきます 」
「 なんだ、この配置は 」
「 食事中はお静かに願います 」
俺の隣には優子、四角いちゃぶ台を挟んだ対面にはふかふかのソファーに寝転がっている黒猫の姿があった。上座に座る上司を思わせる。
優子のアパートでの夕食だった。今日はご主人様の誕生日なの、という優子には申し訳ないが、そんなことはどうでもよかった。もはや猫をご主人様と呼んでも驚かなくなった自分がいる。
「 ご主人様どうぞ 」優子が刺身の一部を猫のえさ皿に寄せた。もう見ていられない。俺は目を背けた。
なあ、と話を切り出そうとした時、優子の携帯が鳴った。すみません、と優子が部屋から出て行く。どうせその言葉も俺ではなく猫に言ったつもりなのだろう。
「 お前、こんなに食ったら腹壊すだろ 」と俺は猫が食べている刺身の一部を奪って自分の皿にのせた。 「 なにがご主人様だ 」
「 すみません 」 と優子が戻ってきた。
「 おい 」
「 なに? 」
「 俺はもうお前には……いや 」 俺は一泊置いてから、 「 お前とそのご主人様にはついていけないな 」と最大限に嫌味を込めて言い直した。 「 猫なんかにそんなこと言って恥ずかしくないのか 」
「 なんですって 」
「 猫のご機嫌取りして楽しいか? 」
猫が俺の言葉を遮るように短く鳴いた。そして、優子を見て今度は間延びしたように鳴き始めた。
「 ちょうどいいわ。ご主人様もあなたには帰ってもらいたいらしいし。ついでにご主人様の刺身取らないでほしいんだけど 」
「 またお得意の意思疎通か。ご主人様の意見は聞いてない。お前の意見だ、聞きたいのは 」
「 ご主人様の意志が私の意志 」
「 話にならないな 」 もはや彼女は俺の知っている優子ではない。
俺が立ち上がろうとした時、また猫が鳴いた。優子が 「 はぁ、気づきませんでした、申し訳ございません 」 と恐縮した声で言った。
「 どうかしたか、黒猫君 」
「 あなたね、こんなことしたの 」 優子が猫の肉球をこちらに向けた。肉球にはわずかに 「 エリザベス女王サマ 」 と書いてある。俺は動揺したが、 「 してない 」 とかろうじて答えた。
「 嘘おっしゃい。私を馬鹿にするのはいいけど、ご主人様を馬鹿にするのは絶対に許せないわ 」
「 こんな時のために、わざと自分で書いた落書きを消さないでおいただけなんじゃないのか。人に濡れ衣着せるな 」
「 ご主人様がそうおっしゃってるのよ 」
「 ああそうかい 」 俺はこの会話に疲れ始めていた。
「 信じる信じないはあんたの勝手だけど。もう出てって 」
「 んじゃ遠慮なく。ご主人様によろしくな 」
「 出てって! 」
外に出ると、怒るというよりは呆れるという感情が俺を包み込んだ。
*****
男が帰った後、優子は申し訳ありませんと猫の前に跪いていた。 「 ご用命をお願いします 」
猫は怒った様子もなく、みゃぁ、と鳴いた。
*****
まさか、またあの女に出くわすとは思わなかった。ただでさえアルバイトで疲れているというのにこんな夜遅くに、しかもアパートの部屋の前で、だ。後ろで手を組みながら、横にいる猫共々俺を見つめている。顔がどす黒く見えるのは夜の暗がりのせいだけとは思えなかった。 「 まだなにか用か 」
「 ご主人様は、 」 優子が後ろで組んでいた手を前に出した。
「 あなたと同じ空気を、 」 優子の手にあるナイフが妖しく光る。
「 吸いたくない 」 俺は本能で後ずさりした。
「 とおっしゃってる 」 猫が、みゃぉと鳴いた。
「 だから 」
視界がなくなる瞬間、黒猫が笑ったような気がした。
ありがとうございました。