第85話 青春の終わり
数キロメートル離れたバトルドームからでも肉眼で視認できるほどの巨大生物が、東京湾沿岸に現れていた。
目鼻は鋭い格子状の外骨格によって隠され、唯一晒された口元は歯茎が剥き出しでゾンビを彷彿とさせる。
右胸には検体番号だろうか? 『24』という数字が刻まれていた。
全身の筋肉は異常発達しており、膨れ上がった筋肉を白い外骨格が無理矢理抑えつけて圧縮しているような印象を抱かせる。
怪物としか形容できない。
実在する生物とは思えない異形の巨大生物の進撃によって、埠頭には荒波が打ちつけられていた。
だが、その影響はさしたるものではない。
埠頭に屹立する一人の人物が、無数の岩礁を生み出したことで、最小限にまで波の力が弱められているからだ。
クラウス・バゼット。
逆立つ短い銀髪のオールバックから前髪を二房垂らす彼は、鋭く研ぎ澄まされた刃のような眼光で進撃する巨大生物を睥睨する。
その眼が気に食わなかったのか、巨人は数キロメートルは離れたバトルドームまで轟く咆哮をあげる。
そして、その巨大な拳をクラウス目掛けて振り下ろした。
暴風を纏って迫り来る巨腕。
しかし、それに対してクラウスはただ、静かに黒のレザーグローブに包まれた右手を差し出すだけだった。
鳴り響く轟音。
モニターからの音声など必要ない程、遠方から響くその音と衝撃は強大だった。
けれど、会場にいるものは皆、安心した様子で見守り続けていた。
ただ、一人を除いて。
「……ハァ?」
認識すら曖昧な者——ピエロと名乗った狂嗤う道化の主要構成員の一人——は、理解できない現実を前に呆けた声を上げる。
東京湾沿岸を映し出すモニター映像。
そこには、巨大生物の巨腕を右腕一本で容易く受け止めるクラウスの姿があった。
「ハァァァアアアアアアアアアア!!!!???? バカな!!? あり得ないでしょう!! いったいどれほどの質量だと思っているのです!!? ただの人間が紋章術も使わずに受け止められる筈がない!!!」
あり得ない光景を前に、ピエロは狂ったように叫び散らす。
しかし、この場にいる彼以外の者にとって、この光景は当然の結果でしかない。
クラウスは国内の、それも闇の仕事と称される裏方の仕事ばかりを請け負う為、国外にはその実力が殆ど知られてはいない。
けれど、国内で彼を知らないものはいない。
単独で連合軍を陥せる怪物。
日本中を恐怖のどん底に叩き落とした猟奇殺人犯。
日本を裏社会から支配しようと企んでいた極道の組長。
一〇〇〇年以上の時を生きる死刑囚。
凶悪な彼らを拳一つで捩じ伏せて配下に置いた彼の偉業を知らぬものはいない。
何より、彼は特務課の班長だ。
それだけで全幅の信頼を寄せるに値すると、国民の誰もが思っているからだ。
モニターの向こうで起こる、あり得ざる光景を目の当たりにして呆然とするピエロ。
そんな彼へ、誰もいないはずの足下から冷徹な声が掛けられる。
「邪魔だ。消えろ」
「——んな!?」
ピエロが立っていた仮想空間を覆う結界。
その中から出てきた手によって、ピエロはろくな抵抗もできず、トプンッと仮想空間と現実を隔てる結界の狭間へと引き摺りこまれた。
その後には、僅かな波紋だけが残り、それも程なくして消えた。
その頃、東京湾を映し出すモニターの方で大きな動きがあった為、この一瞬の出来事を捉えていた者は関係者以外誰一人いなかった。
◇
埠頭に屹立し、巨大生物の巨腕を右腕一本で受け止めるクラウス。
当然、ピエロの言っていたように紋章術を用いずに受け止めた訳ではない。
目視できないだけで、確かにその力を行使していた。
彼は、覚醒した自然格:大地の紋章者だ。
その力は最早権能の領域に到達しており、ただ大地の力を振り回すだけではない。
自分自身に大地の概念を付与して、山のような質量を得たのだ。
だからこそ、巨大生物の巨腕であろうと微動だにしなかったのだ。
「せめてもの慈悲だ。一瞬で終わらせてやろう」
クラウスから放たれた殺気によって巨大生物は生命の危機を敏感に感じとった。
己では眼前の小さき生命には到底敵わない。
本能でそう感じ取った巨大生物は即座に逃げ出そうとするが、逃げる事は敵わない。
クラウスが彼の巨腕を握り潰すほどの馬鹿げた握力で握り潰しているからだ。
これに関してはただの魔力による身体強化にすぎない。
大地の権能など一切行使していない。
だというのに、巨大生物の全身全霊の力を持ってしてもびくともしない。
一体、この小さき身体をどのように使えば、どのように鍛えればこんなことができるのだ、と巨大生物の思考は恐怖一色に染まる。
「大地母神の慈悲」
クラウスの右手から放たれた莫大な熱線は、巨大生物の巨腕を一瞬にして蒸発させ、そのまま胸部を丸ごと蒸発させる。
大地の拡大解釈、地震による振動操作。
それをさらに発展させた、分子振動を利用した熱量操作による熱線。
彼が一流であることを示すに相応しい技術と研鑽の上で成り立つ御業である。
生命活動を停止し、膝から崩れ落ちる巨大生物の身体を二次被害が出ないよう、大地の腕で支えるように拘束する。
そして、モニター越しに見守る人々へ言葉をかける。
「任務完遂。これより帰還する」
◇
東京に突如襲いかかった悪の手は、特務課第三班班長クラウス・バゼットの手によって瞬時にケリがついた。
その様子をメインスタジアムのモニター越しに眺めていた観客やマスメディアたちは大いに湧き上がった。
先まで命の危機に晒されていたというのに、呑気な話であるが、それだけこの国を護る者達を信頼している証でもある。
「凄かったね!! 流石特務課班長! まだまだ高みには遠いなぁ」
観客席から東京湾襲撃事件を眺めていた風早は興奮しながらも、未だ高みにある目標に目を輝かせていた。
「うん! 一時はどうなっちゃうかと思ったけど、何もなくて良かったね」
横にいる雨戸も安堵した様子で、ホッと胸を撫で下ろしていた。
「……せやな」
その背後の席で、芦屋は周囲の喧騒から取り残されるかのように、一人静かに逡巡していた。
そして、決心したように、その手を雨戸へ向ける。
「動くな。少しでも動こうとしたら殺す」
バリッという電流が流れる音が人知れず響いた。
耳聡くその異音を聞き取った風早が振り向く。
すると、芦屋の背後から首元にナイフを突きつけるルークがいた。
「な、何をしてるんですか!」
風早は、即座に雨戸を庇うように立ち、ルークへトネリコの槍を構える。
「騒ぐなよ。周りに気づかれたら騒ぎになる。俺は公安の関係者だ。芦屋道永には今日一日ずっと目を配っていてな。怪しい動きをしたから同行願いたいんだよ」
騒ぎを起こして無駄な混乱を招きたくないルークは風早に注意を促しつつ、目的を話した。
風早としても、周囲に混乱を招くのは得策ではないと判断し、声を抑えて疑問の声をぶつける。
「それにしても物騒じゃないですか? いきなりナイフを突きつけるなんて。芦屋が何をしたって言うん——」
「すまんな」
風早の声を遮るように、芦屋は謝罪の言葉を吐く。
「青春ごっこはここまでや」
そう、名残惜しげに呟くと、芦屋はいつの間にか右手の指に挟んでいた呪符を発動する。
すると、芦屋の全身を風が飲み込み、その姿を隠した。
「チッ!」
芦屋が風に姿を隠すと同時に、ルークはその首筋に一億ボルトの雷を帯電させたナイフを突き立てる。
だが、ナイフは硬質な手応えを返すだけで、肉を斬り裂く感触は返ってこなかった。
異様な手応えではあるが、想定内だ。
相手はあのルシファーが自身と同等と語った存在である可能性が高い人物。
いや、この本能が告げる鳴り止まない警鐘音の通りならば、目の前の高専生徒、芦屋道永こそがその存在で間違いない。
故に、加減など一切しない。
実力が遥かに劣るルークに、そのような余裕があるはずもない。
連行は諦めた。
この場で、確実に殺害する。
「全能神の雷霆!!」
己の全魔力を槍の形に圧縮し、風に包まれた芦屋の背を全力で穿つ。
ズバァァンッッ!!、と雷鳴がメインスタジアム全体に轟く。
辺りの観客は稲光と轟音に驚いて、一瞬にして喧騒に包まれ、我先にと逃げ出していく。
しかし、そんなものを気にする余裕はない。
なぜなら、
「おめかしする時間くらいくれてもええやろうに、せっかちなやっちゃなぁ」
風の中から現れた芦屋の背には依然として雷霆の槍が突き立っている。
だと言うのに、なんら堪えた様子はなく、平然としているのだ。
「バカな、全力の一撃だぞ!?」
ルークの攻撃が弱かった訳ではない。
万全の状態で、全魔力を込めたのだ。
その威力は一画分の紋章絶技にすら匹敵し得る絶大な威力を誇るものだ。
それでも尚、芦屋と雷槍の間に隔たれたほんの僅かな間隙すら埋められない。
彼の身体を覆う薄い結界一つ抜けられない。
「そら悪いことしたな。でも、儂も暇やないねん。ここらで退場してくれへんか?」
ひらり、と芦屋が手を軽く振るうと、その動作に相応しくない馬鹿げた突風が発生する。
風は容易く雷槍を掻き消し、ルークはメインスタジアムの壁を突き破って遥か彼方へ吹き飛ばされた。
「芦屋くん、なの?」
「な、なんだよ。……急にどうしたんだよ芦屋」
壁の向こうまで吹き飛ばされたルークの心配よりも、変貌した親友の姿への驚愕が先行し、二人は絶句する。
風に包まれた後に現れた彼の様相は一変していた。
襟が丸く、袖の広い漆黒の狩衣と烏帽子を纏ったその姿はまるで陰陽師そのもの。
ショートヘアに切り揃えられていた黒と白の入り混じる髪は腰よりも長く伸びており、首には勾玉のネックレスが提げられている。
何より、その瞳が異形だった。
角膜は黒のままであるが、そこに紅蓮の螺旋模様が加わり、瞳孔は黄金に輝いている。
「芦屋道永とは仮の名。儂の真名は蘆屋道満。一〇〇〇年以上の永き時を生きる、平安時代に晴明めと覇を競った陰陽師よ」
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