第44話 白い死神
気温マイナス四〇度。
白雪積もる針葉樹林が生い茂る川辺。
かつてフィンランドの白い死神と恐れられたシモヘイヘ。
彼がソ連軍四〇〇〇人をたった三十二人で迎撃してみせたコッラー川を再現したフィールド。
雪の降り積もる丘の上でルミは銃を構えていた。
丘からは下の川辺で戦闘を繰り広げる静と風早に憑依した八神の姿が見えた。
彼女はスコープなど使ってはいない。
そんなものを使わずとも、シモヘイヘの常軌を逸した視力は彼女たちの姿を捉えていた。
かつてシモヘイヘが愛用していたモシン・ナガンM28というボルトアクションライフル。
彼女にはそれに搭載されたアイアンサイトで充分なのだ。
否、光を反射して位置を知らせてしまう恐れのあるスコープなど、逆に不要なのだ。
彼我の距離はおよそ五〇〇メートル。
シモヘイヘの紋章者であり、過去の英傑に並ぶ程の狙撃手でもある彼女ならばまず間違いなくヘッドショットできる距離。
そして、徐に一発の銃弾が音もなく放たれた。
無音で放たれた一発の弾丸は、川辺で戦闘を繰り広げる八神が憑依した風早の側頭部に迫る。
だが、直前で頭を逸らして弾丸は躱される。
今の彼女は風早の身体に宿っているが故に、アキレウスの紋章は扱えてもルシフェルの紋章は扱えない。
つまり、未来視などできぬはずなのに避けられたのだ。
(身体は違えども経験はそのまま。無念無想による未来視に等しい直感は使えるんだね)
ならば、とルミはもう一度。
否、ボルトアクションの連射速度とは思えない超速連射で一秒間に三発の弾丸を放つ。
しかし、動きを制限するための二発の弾丸だけでなく、三発目の胴体を狙った狙撃もジャンプしながら身を捻ることで躱される。
だが、ルミが放った弾丸は三発だけではなかった。
シモヘイヘの紋章により、彼女は雪中ならば瞬時に空間移動できるのだ。
それを利用した彼女は、別角度からもう三発の弾丸を放っていた。
それでも卓越した槍技によって二発の弾丸が弾かれてしまうが、最後の一発が風早の脇腹を穿つ。
そして、同時に狙撃で出来た隙を突いて静の渾身の一撃が炸裂する。
「雷哮掌!」
黒い雷を幻視するほど鋭い掌底が、空中で身動きを制限された風早の身体を撃ち抜く。
「——ッッカハッ!」
内臓が掻き乱されるかのような衝撃を受けて、川の向こう岸まで吹き飛ばされる。
「さっすが! 吹き飛ばされながら片腕持ってかれるとはね。また腕上がったんじゃない?」
静の右腕は腱が断ち切られ、血が溢れていた。
右腕に大気圧をかけて止血した静は、彼女の成長速度に舌を巻く。
風早は静の攻撃が避けられないものと瞬時に悟り、防御を捨てた。
捨て身の彼女は攻撃を受けると同時に、槍で彼女の腱を断ち切っていたのだ。
「脇腹に一発と追い討ちの掌底のお返しが腕一本じゃ釣り合わないっての」
風早は吹き飛ばされた衝撃でへし折れた針葉樹に背を預けながら血反吐を吐く。
(脇腹に一発って、……殆ど効いてないじゃん)
静の放った雷哮掌は体内から破壊する技であった為、まだ有効だった。
しかし、脇腹に着弾したルミの弾丸は僅かに血を滲ませる程度。
“超克”を用いた弾丸であればアキレウスの千分の一以下にまで威力を減衰する加護すら撃ち抜くことができる。
ただ、風早も同様に“超克”で防いだため、アキレウスの加護と合わさって貫通力の高いルミの弾丸でさえ殆ど通じなかったのだ。
この事実を冷静に受け止めたルミは作戦を変更する。
当初は静との戦いの隙を突いて撃ち抜くつもりであったが、こちらに決定打がない以上その作戦は敵わない。
しかし、決定打はなくとも彼女は弾丸に当たった時、着弾の衝撃で僅かな隙を見せた。
弾丸をできる限り避けたり、槍で防いでいたのも隙を作らない為だったのだろう。
故に、貫通力による殺傷ではなく衝撃による妨害工作に移る。
風早のように並外れた防御力を持つ紋章者用の対物ならぬ対紋章者ライフル。
バレットM82A1にも似たそのライフルは、かつて龍種の紋章者すら撃ち抜いて見せたほどの威力を誇る。
シモヘイヘの紋章者として、彼の愛銃以外を使うのはポリシーに反する。
だが、必要とあらば即座にポリシーを捨てられるのが彼女の強さでもあった。
(穿て)
無音で放たれる破壊の暴威。
龍の鱗すら穿つ一撃が風早に迫る。
先の弾丸とは比にならぬ危機感を覚えた彼女だったが、当たらなければ意味がない。
千里を瞬きの間に駆けるアキレウスの瞬足を活かした、空間転移にも等しい高速移動でルミの弾丸を容易く避ける。
しかし、彼女はその威力を甘く見ていた。
地面に着弾した弾丸は音もなく大地を大きく抉り、衝撃波で大量の雪と土砂を捲り上げる。
その衝撃波により足を滑らせた風早の隙を逃すはずもなく、静に蹴り飛ばされる。
追撃で静から空気による不可視の矢が放たれる。
幸い、吹き荒れる雪によって不可視の矢は可視化されており、難なく避けられた。
(ちょちょちょっと大丈夫なんですか!? 流石に二対一は厳しかったんじゃ……)
「大丈夫! 漸くこの身体にも慣れてきたところだから」
身体の主導権を八神に譲り渡している風早が内心で慌てふためくも、八神は好戦的で自信に満ちた表情を浮かべてその不安を払拭する。
今までの八神は言い訳でもなんでもなく本調子ではなかった。
自分の体ではないのだから当然と言えば当然だ。
しかし、それもここまで身体を動かせばもう問題ない。
戦いの中で重心や筋肉量、体格といった元の身体との誤差を修正は完了した。
「だから、ここからは本気の速度だ」





