第96話 親子の愛/神の愛
凍結されていた空間が解けていく。
止まっていた時間が、再び動き出す。
閉じ込められていたことにすら気づいていなかった一〇名の出場者。
けれど、周囲の惨状を目の当たりにした一同は即座に状況を把握した。
その中で、真っ先に動いたのはルキフグスであった。
「班長が弱ってる……!?」
己にすら勝った強者。
心がポカポカと暖かくなる美味しいご飯を作ってくれる人。
そんな大切な人が弱っていることを、類稀なる魔力感知で察知した彼女は、スク水姿のまま厳との戦いでも披露した形態へ即座に変化する。
ぴょこん、と飛び出した長いアホ毛が特徴の白雪が如き純白のロングヘアー。
毛先にいくほど淡く焔のように赤みを帯びるその流麗な頭髪から、三本のねじくれた角が現れる。
両手は肘あたりまで龍鱗に覆われ、その手はまるで龍のように鋭い爪へと変貌する。
姿を変えたルキフグスは、天高く飛び上がると、大気が弾ける轟音を残して、あっという間に姿を消した。
周囲が止める間もなく消え去った直後、残ったメンバーの脳内に糸魚川声が届いた。
『状況説明している暇はありません! 第一班はバトルドーム北部にて交戦中のウォルターの助力! 第二班はバトルドーム南部にて交戦中の静&ルミの助力! 第三班はメインスタジアムにて避難民の護衛と誘導! 第五班は敵首領蘆屋道満と交戦し、敗北した紋章高専生の救出! 陸自はメインスタジアムで交戦中の高槻暁ら自衛隊員の救出! 急げ!!』
脳内に直接響いた糸魚川のいつにない切羽詰まった声は、総員を直ちに動かした。
否、その中でもある二名はそれよりも早く動き出していた。
一人は八神紫姫。
糸魚川の言葉から風早が危機的状況にあると察した彼女は、凍雲を連れて即座に空間転移を行い、蘆屋道満の元へ向かった。
そして、もう一人。
高槻厳は脳内に響く声など一切聞こえてはいなかった。
彼の頭の中を支配していたもの。
それは、溶岩より尚、灼熱の激情。
仮想空間の凍結が解除された瞬間、目に飛び込んできた光景は、彼の思考を一色に染め上げた。
元の原型を残さぬ程破壊され尽くしたメインスタジアム。
それを覆う巨大な結界を背にして、力なく倒れる愛する部下達。
そして、この世で最も大切とする愛娘に今、凶刃が振り下ろされようとしていた。
「ふ、ざけるなァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!!!!」
◇
「貴様、誰の娘に手を出しとるか分かっとるんじゃろうなぁッッ!!!!」
アキラを背に庇うように、大きな背中をした、熱く煮えたぎる漢が八岐大蛇をその凶刃ごと弾き飛ばしていた。
その背を見ていると、あの時を思い出す。
まだ幼く、戦場で死肉を漁るしか生きる術を知らなかった時分。
あの地獄から掬い上げてくれた、暖かくて、頼もしくて、誰よりも大きな背中。
「…………お父、さん……!!」
その胸に満ちるは、暖かな気持ち。
駆けつけてくれて嬉しい。
もう、大丈夫だという絶対的な安堵。
けれど、それだけじゃない。
それと同じくらいの冷たい感情が心臓を締め上げる。
何も出来なかった。
仲間に護られてばかりで、何一つ役に立てなかった。
微かに覚えている。
薄れた意識の中、己を守る為に記憶の一部を捧げた彼らの姿を。
己はただ見ているだけで、何も出来なかった。
ただ一人仮想空間の凍結から逃れて、いや、逃されて託されていたというのに。
その期待に応えることができなかった。
——何一つ、役に立てなかった……。
「ようやった。よう頑張ったわい。流石は儂の娘じゃ」
けれど、そんな不甲斐ない己を、頼れる父は認めた。
(……違う、何も出来てない。私は……足手纏いにしかなってない……ッッ!!)
無力感を嘆く声は言葉にさえならず、心の内で虚しく木霊する。
「フフ、無表情が悩みじゃったか? どこが無表情なのやら。こんなにも感情豊かじゃというのに」
そんな愛娘の声にならぬ慟哭が聞こえぬ父ではなかった。
厳はアキラの方へ振り返り、目線を合わせるようにしゃがみ込むと、彼女の目元を指で優しく拭う。
彼女の瞳からは、大粒の涙が零れ落ちていた。
何も出来なかった己を呪って。
そんな己の不甲斐なさが、仲間の記憶の一部を奪ってしまったことが許せなくて、彼女は知らず涙を零していた。
「わ、私、のせいで……。私が!! なにも……、でぎながっだから……!!」
己を責め続ける彼女の頭を、厳はその大きな手で優しく撫でる。
「何を言うとるか。お前が頑張ったからメインスタジアムの観客は皆死なずに避難できた。お前が頑張ったから、今も尚、避難シェルターは無事なんじゃろうが」
アキラが八神の指示通り、天羽に気を抜かないようにと伝えていたからこそ、迅速に避難シェルターを築くことができた。
彼女が八岐大蛇の注意を引いていたからこそ、普羅や狭間が避難民の誘導を迅速に行えた。
それらは彼女が誇るべき偉業に他ならない。
厳はその光景を目にしてなどいない。
八神と違い、千里眼も未来視も使えない。
それでも分かるのだ。
そこに理由などいらない。
未来視したからだの、千里眼が使えるからだのといったこじつけは蛇足だ。
この世界に、愛娘の活躍を見逃すような父親はいない。
ただ、それだけの簡単な話なのだ。
「普羅も狭間も優秀じゃ。しかしな、死にたがりの勇者などではない。お前という大切な仲間を護りたいからこそ、記憶さえも代償にしたんじゃ」
民を護る大義の為ではない。
そんな事のために大切な記憶を掛けられるほど、英傑狂いになった覚えはない。
彼らは表情が乏しいことに悩み、ユーモアの教授を願う、そんな不器用で健気な仲間を護る為だからこそ、己の大切な記憶さえも差し出せたのだ。
「それでもなお、自分を責めるというのなら——」
コツン、ととても軽い音が響く。
ボロボロと涙を流し続ける彼女の額を軽く小突いた厳は、厳しい面構えを柔和に崩す。
「——その想いを抱えて強くなれ。記憶など代償にする必要もないほど強くなれ。そして、次はお前があやつらを護ってやるんじゃ」
地獄から掬い上げてもらった己を暖かく迎え入れてくれた大切な仲間たち。
彼らが犠牲になる姿など、もう見たくない。
彼らを失うことなど、想像もしたくない。
——そんな悲しい未来は、絶対に嫌だ!!
駄々を捏ねるだけの幼児に温情を与えるほど、この世界は優しくなどない。
犠牲が嫌だ。
失いたくないと叫ぶだけでは、大切な者は護れない。
だから、彼女は決意する。
もう、こんな想いをせずに済むくらい。
強くなると。
「う゛ん! 次は、次こそは、私が護っでみぜる……!!」
「よし、それでこそ儂の娘じゃ」
最後に愛する娘の頭を優しく撫でた厳は、彼女に背を向ける。
そして、虚空へと呼びかける。
「糸魚川」
「分かっています」
方舟から戦場全体を見ていた糸魚川は、アキラの側にゲートを構築すると、彼女を回収していった。
続いて、メインスタジアムを囲う結界を背に倒れていた普羅と狭間の両名も保護。
その場には、高槻厳と八岐大蛇だけが残された。
「さて、待たせたのう。この落とし前はきっちりつけさせてもらうぞ」
眼前に佇む八岐大蛇を睨むその顔に、先迄の愛娘に向けていた柔和さは欠片も存在していない。
歴戦の戦士さえも竦み上がる視線を向けられて尚、八岐大蛇は手を頬に当てて優雅に微笑む。
「あらあら。そんなにも大事な娘さんだったのかしら? ごめんなさいねぇ、あまりにも弱かったからつい甚振って遊んじゃったわぁ」
安い挑発。
否。
彼女は心の底から謝意を述べていた。
なんの悪意もなく、含みもなく、彼女は純粋に己が過ちを認めていた。
彼女が人間に向けるその感情は歪んだ慈愛。
愛玩とも称せるものだ。
故に、謝罪した。
大切な玩具をもう少しで壊してしまうところだったことを。
「謝意などいらぬわ。神がどうだかは知らぬが、少なくとも貴様とは相容れん」
「あらぁ、私これでも貴方達を愛しているのよぉ?」
「玩具としてだろう。それに、そんなことはどうでもいいんじゃ」
厳はその身を更に煮えたぎらせる。
彼の感情を表すが如く、辺りから溶岩が噴出して、周囲を彼の色に染め上げていく。
「貴様は儂の大切な部下と愛娘を傷つけた」
周囲に煮えたぎる溶岩は、その放熱だけで普羅の紋章絶技で漸く傷がつく程に硬質で柔らかな八岐大蛇の皮膚を焼き焦がす。
その事実に彼女は驚愕し、笑みを浮かべる。
眼前の男は、これまでになく己を愉しませてくれる玩具であると認識したが故だ。
高槻厳という玩具を存分に堪能すべく、彼女は歪んだ愛情の下、笑みを浮かべて翡翠の剣を握る手に力を込める。
「それだけで万死に値するッッ!!!!」
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