骸骨にふさわしい祈り
僕は骸骨みたいな男だ。肉や血に、お前の元には留まりたくないと見捨てられたも同然に痩せこけ、目はクマの奥へ落ち窪み、額は禿げ上がりかけている。そんな見るも無残な姿を人目から隠す様にして、十年前に購入したマンションと職場、それから病院を心虚ろに彷徨う毎日を過ごしている。
病院には、結婚してすぐに髄膜炎に罹り、重い後遺症で昏睡状態になってしまった妻の恵麻が世話になっている。命が一年もたないだろうと言われていたが、そのまま十年目を迎えていた。その為、闘病者とその家族のコミュニティー界隈で、僕と恵麻は有名になってしまった。「諦めない心」とか「希望」とか「献身的な愛情」というアイコンになりかけたのを機に、いよいよ居た堪れなくなった僕はコミュニティーから去った。彼らは心底僕を心配してくれたが、慈悲深い一人が進み出て「海外では、三十年近く昏睡状態のまま生きた人がいたらしいですよ。これからも諦めないでください」と、励ました。
僕は、喜べば良いのか、悲しめば良いのか分からなかった。
石灰を口いっぱいに頬張っている様な毎日だったが、毎月十八日だけは深大寺へ出かけ、美味い蕎麦を食べた。蕎麦はその質素なイメージから、どんなに美味かろうと、妻に悪く思う気持ちを少なくしてくれるので、安心して楽しめる。
蕎麦を食べ終わると、緑滴る深大寺の奥まった方へふらりと向かう。向かう先は、森の中ひっそりと祀られている延命観音だ。道中、賑やかな参道を行く健康的な恋人達や家族連れ、恋愛成就や縁結びといった華やかな望みを持つ観光客の、弾む歩みに一人混じる事は、胸を抉られる様に寂しく、妬ましい。特に土日祝日に当たると、最悪だ。
こそこそと延命観音に辿り着くと、ホッとして祠の前に集まる人々へ早足に近寄った。
皆、毎月十八日に行われる『延命息災祈願』に訪れた人々で、祠へ手を合わせている。
誰かが奉納したのぼり旗が、湧き水の上を通った風に揺れハタハタ音を立てる中、僕はそっと彼らの仲間に加わり、頭を垂れ手を合わせる。
* * * *
恵麻が目覚めるか永遠に眠るまで、あとどれだけ待てばいいのか分からない。孤独で虚ろな日々の中、仲睦まじく寄り添い合う人々が羨ましくて妬ましくて、自分が先に死んでしまいたくなる。
義理の両親は僕に「申し訳ない」としきりに言って、恵麻との離婚を勧め続けている。けれど、そんな事できやしない。
それは本心か、と、世間や自分の理想がピカピカ眩しく光る。眩しすぎるそれは、無遠慮に僕の心を射す。怯んだ途端に、偽善だ、本当は逃げたがっている。裏切りだ、と、心が叫び出す。僕は、自分が本当は何を希望としているのか、考える事が酷く恐ろしかった。
そんな僕が縋って手を合わせる先には、岩に彫られた観音様がライトアップされ、暗闇の中に浮かび上がっている。その仄かさは、僕の心を射して苦しめたりしない。
光に浮かぶ観音様は、本心が移ろって一貫しない僕なんかに、微笑んでいる。酷く自暴自棄な、誰にでも顔を顰められるだろう、という考えや思いに至った時ですら、微笑みは崩れない。その微笑みは、自身への猜疑心で深い底に沈み込む僕を引き上げて、たとえ再び沈もうとも次の十八日まで寄り添ってくれる。
だから僕は、許されるだろうかと臆しながらも、励まされ、僕にふさわしい祈りを祈る。
『どうか、恵麻よりも長く生きさせて下さい。どんな形であろうと、最後まで傍にいさせてください』
僕を人間でいさせてください。僕の思う人間は、死ぬまで妻を愛せる筈なので。
* * * *
祈りあげた人々が、祠の前からポツリポツリと去って行く中、一人の女性が円山応挙の幽霊画みたいに振り返った。僕が会釈をすると、真昼の光に消え入りそうな笑顔を浮かべて寄って来た。
彼女は、僕がここに通い始めた数年後に現れ、毎月顔を合わすようになった女性だ。名前を幸さんと言う。名前は、彼女を守らなかったようだ。
さておき、孤独な祈り仲間を見つけた嬉しさから、いつしか姿を見るとホッとするようになり、向こうも同じだったのか、視線が合わさるようになり、それから何年目かの夏、激しい通り雨がきっかけで漸く言葉を交わしてからは、こうして短いひと時を過ごすようになった。
「いらっしゃらないかと思っていました」
「今日は少し後ろの方にいましたので……」
そう言葉を交わしながら、いつもどちらからともなく、深い緑の中へと歩き始める。そこかしこで茂る葉の瞬きの中を並んで歩き、滾々と湧いて流れて行く清水を眺めていると、心が満たされ身体に血が巡り、肉が戻って力強くなれる様な気がする。誰かと連れ立って歩ける頼もしさと嬉しさで、僕らは心を骸骨と幽霊めいた空虚なものから人間に戻し、森の小高い場所にある茶屋に寄る。人間は腹が減り、酒を飲みたくなるものだからだろうか。そして、屋外に並ぶテーブルの一つを選び、ところてんやおでんといった軽いものと一緒に、深大寺ビールを一杯だけ飲む。
「奥様の転院先は見つかりましたか」
青いチェック柄のクロスがかけられたテーブルに目を落として、幸さんがそっと尋ねる。僕らの会話は、いつもこんな感じだ。
「はい、なんとか家から通える場所で、受け入れてもらえました」
「良かった。親切なところだといいですね」
「ありがとうございます。息子さんは、新しい施設に慣れましたか」
幸さんの息子は、福祉型障害児入所施設に入所しているという。本当なら中学校へ通う頃に、とうとう小柄な彼女の腕力では支えきれなくなり、施設に頼る事にしたという。どれ程苦労して、どれ程迷ったのだろう。今だってそれを細い背に背負っている。それなのに、彼女に子供の世話を全て押し付けていた夫は、息子を家から捨てるのかと彼女を責め、薄情な女だと、一人去って行ったそうだ。
その話を初めて聞いた時、唖然とした。彼は彼女へ、全て擦り付けるタイミングを待っていたのではないか。自分は正しく、お前が悪いのだ。だから正しい俺は、ここから去るのだ、と。善にも悪にもなり切れない僕にとっては、いっそ潔よすぎて、憧憬を持ちそうになった。しかし愚かな憧憬は、木々の間から吹く風に飛ばされて行った。憶測はお止めよ、と、僕の頬を打って。
誰もが、お前や幸さんの胸の内を解からない様に、彼女の夫の胸の内もそうなのだ。そう言ったあの風は、何処から吹いてきたのか、未だに分からないでいる。今は別の優しい風が、幸さんのもつれた髪を揺らしているばかりだ。
幸さんは、先ほどの僕の問いかけに目を細め、深呼吸とため息の間の息を吐いた。
「いいえ。元の施設に戻る手続きをしています。家から近い方がたくさん顔を見に行けると思ったのですが」
「そうでしたか」
僕は幸さんの細い肩を抱き寄せる代わりに、「食べましょう、美味いから」と言って、その日つまみに頼んだ皿を彼女の方へ寄せた。彼女は微笑んで頷く。輪郭が、白日に溶けそうだ。僕はビールを飲むのに忙しいフリをする。
テーブルの上の、ビールとつまみの皿の上を、木漏れ日がゆらゆらと揺れている。僕らが去り、やがて落日となるまで。
* * * *
縁結びで名高い深沙大王堂の横を通る時は、そっと目を伏せとぼとぼ歩き、参道へ流れ出ない様に踵を返す。なんとなく、二人で境内から出たらいけない気がして。
それから僕らは、もう一度延命観音の前へ戻り、手を合わせる。
いつか、どちらかが先に、この日々を終える。
それは何年か先かもしれないし、来月かもしれない。
そうしたら、僕らはもう会えない。二人で境内から出てはいけない気がするように、そういう約束で、今を許されている気がするのだ。
僕が幸さんの横で祈るのは、今だけ。幸さんが僕の横で祈るのも、今だけ。
幸さんが熱心に祈るのは、子供の息災か、自分の延命か。どちらだろうと、共感で胸が張り裂けそうだ。どうして誰かが、この人に寄り添い、守ってくれないのか。
僕は少しだけ、彼女の為に祈りあげる。
『あなたの祈りが、どうか優しく、一番いい形をもって、あなたを救いますように』
僕はチラリと観音様を盗み見る。
それはお前にふさわしい祈りではないと、怒った顔をしてくれたらと思うのに、観音様は微笑んでいる。だから僕は自ら恥じて、僕にふさわしい祈りを祈り直す。
祈りへの了承の声が、午後五時の鐘の音を借り、遠くで響き渡り始めた。
僕はその深く穏やかな音色を聴きながら、再びみすぼらしい骸骨となるが、十八日に出会える微笑みを抱き、生きていく。
いつかきっと、「最後まで妻を愛しました」と、死ねるように。
そうしたら、ピカピカ眩しい光に言ってやるんだ。
憶測はお止めよ、と。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
この短編は深大寺の恋愛小説公募へ挑戦して落選した話です。
ですが、何か胸にお届けできたら嬉しいです。
ここからは個人的なお礼……
出してみない!?と声をかけて腰の重いわたしを盛り上げてくださったすみれさん、七ッ樹さん、お二人となら怖くない!と、参加できました。本当にお二人とも明るくタフで、「書いた?」「まだー」とやりとりするのが楽しく心強かったです。ありがとうございます。書き始めのカオス状態の時に仏の如く「書けるさ!」と背を押してくださった冴吹さんと、書き終えた後に「どちゃくそ泣いた。棺桶に入れて(!?)」と応募前に勇気づけてくださった狼子さん、本当にありがとうございました。惜しくも落選となりましたが、お二人のくださったお言葉が、わたしの創作を今後も明るく照らす勲章でございます。
素敵な機会を皆さんありがとうございました!