影のないスケッチ
その晩、翔一は会社の上司や同僚数人と新橋の居酒屋にいた。七時から九時までの飲み放題コースだからほかのみんなには安上がりだが、ほとんど飲めない翔一にはコストパフォーマンスは悪い。その分食べ物と言ったって胃袋が大きいわけでもなく、たかが知れている。第一、こういう場は苦痛だ。できれば付き合わずにさっさと帰って、家族で晩御飯を食べたい口だ。それに、うちに帰ればまもなく四歳になる萌子と遊ぶこともできるし、まだ嫌がられずに一緒に風呂にも入れる。
「で、課長、あした何時に迎えに行けばいいっすか」隣でそろそろ呂律の怪しくなってきた年少の同僚が、課長に不器用なおべっかを言い始める。
「そんじゃ五時に行きますから。それにしてもあれっすね、課長ずい分飛ばしますねえ、ドライバーなんか交通違反ですよ。ちゃっかりスコアもまとめちゃうし」話題がゴルフなので、やらない翔一は蚊帳の外だ。調子に乗った課長はひとしきり武勇伝を披露する。これが始まるとなかなか終わらないのはいつものことなので、翔一は仕方なく、時折ビールを口先だけつけて飲んでいるふりをしたり、相槌を打って聞いているふりをしながら、早くお開きにならないかと心待ちにしていた。今朝家を出る時に、カンナに、
「今晩は少し遅くなりそうなんだ。出なくちゃいけない宴会があるんでね、ホントは欠席したいんだけどね」
「じゃ、行かなきゃいいのに」
「そういう訳にもいかないし。ま、適当にして帰って来るから。でも、僕は明日の朝、車で行くから、悪いけど今晩萌子と先に行ってて」
「わかったわ。付き合いも仕事だし、仕方ないわね。じゃあ先に萌子とおじいちゃんとこに行ってる。ねえ、萌子」カンナと萌子が翔一を見送る。
「またメールする」そう言って出て来た。結局カンナが萌子を連れて今晩一足先に行き、翔一だけが明朝車で行くことにしたのだが、やはりこんな飲み会欠席すればよかった。だが欠席すればチームから仲間はずれみたいになる気がして、それも嫌で何となく付き合っているだけなのだ。
「ところで後藤先輩は、そろそろデビューしないんすか、これ」グリップを作った手を少し動かしてスウィングの真似をして見せる。嫌な奴だ。俺がゴルフをしないことを知ってて言って来る。
「僕なんか、とてもとても」そんなことを言ってお茶を濁してやり過ごしているうちに、ようやくバイトの女の子が終了の時刻を告げに来てくれた。
初夏の金曜日の晩、みんなはもう一軒行ったが、翔一は帰った。「今晩はトコトン飲むぞ」とこれ見よがしに言った同僚の顔が、翔一の中で歪む。マンションの暗い部屋に入ると、エントランスの全身鏡に紙がセロテープで貼ってある。「おとうさん」とピンク色のクレヨンで書いてある。萌子だろう。本文はカンナの文字で「先に行ってます。冷蔵庫にサラダがあります。持って行くもの用意してあります。よく眠って遅刻しないように、運転気を付けてね。では」誰もいないリビングに入ると、ソファの上にパンパンに張ったトートバッグと小さなピンク色のリュックが並べて置いてある。翔一はほっとした。
夜明けの浜辺は、深い静寂に包まれていた。波は、ゆったりとした周期で寄せては帰るを繰り返している。遠くの方の波打ち際で、二つの小さな影が戯れているのが見えた。紐で繋がっているようだ。二つの影はゆるやかに湾曲した浜辺を水際に沿って、少し駆けたり止まったりしながら、次第にこちらの方の波打ち際までやって来た。
女はデッキの上からその様子を眺めていた。傍らのテーブルにはカメラがある。かなり使い込んだ一眼レフだ。空を見上げる。わずかに風がある。長い髪が時折なびく。望遠レンズをつけファインダーを覗き込む。レンズの中にいるのは、少女とラブラドールだ。昨日も来ていた。この辺の子だろう。そのうちに反対の方角から、老人が歩いて来た。こちらもいつもと同じだ。少女と老人はレンズの中で軽く会釈してすれ違った。連写する。
家屋から白髪の坊主頭の男が姿を現す。がっしりした体躯だ。女に声をかけた。
「早いな。何か撮れたのかい?」女は首を横に振っただけで、カメラをしまい始めた。
「今日もダメね。あしたの朝また狙ってみる」
「ああ」男はそれだけ言うと家屋に引っ込んだが、しばらくして今度は窓から顔を出して、「市場に行ってくる」と大きな声をかけた。小さなエンジン音が聞こえ、次第に遠ざかって行った。女は家屋に入ると箒を持って来て、デッキの床を掃き始めた。
英輔は自宅の小さな庭に出て腰かけ石に座っていたが、いつものようにブロック塀の近くまで近づいて、オレンジ色に染まり始めた町並みを眺めた。深呼吸をひとつする。そしてまた、石に腰を下ろす。時間が経つとまた、立ち上がり町並みを眺め深呼吸し戻って腰かける。やがて下の方でスクーターが近づく音が聞こえる。真下でエンジン音が止まる。スタスタっとコンクリートの石段を上がって来る足音がする。いつもの新聞配達がやって来た。タオルを頭に巻いている。
「ちょうかん」普段なら何も言わずに黙って郵便受けに突っ込んで行くのに、今朝はめずらしくこう言いながら英輔に手渡した。
「ごくろうさん」それから何か話しかけようとしたが、先を急ぐ新聞配達は反応することもなく、また石段を急いで降りて行った。今日は初めて孫と海に行くのだ。嬉しくて、ちょっと自慢したかった。
カンナは二階の部屋から、網戸越しに遠くの町並みと空模様を眺めていた。すぐ下の庭に父親が置き石に腰かけているのが見えた。結婚前ずっと自分が使っていた部屋だ。母親が掃除してくれているのだろう。きれいに片付いているが、昔のまま何も変わっていない気がする。昨夜、萌子を連れてここに転がり込んで来た。萌子はまだベッドの中でスヤスヤ眠っている。どんな夢を見ているのだろう。海の夢だろうか。三歳にもなれば、目が覚めた時見た夢を覚えていることもあるだろう。萌子はタオルケットをはいで眠っている。カンナはそっと萌子に掛け直した。庭をもう一度見下ろすと、父親はもういなかった。郵便受けから新聞でも取って中に入ったんだろう。
英輔は新聞を左脇に挟むと、庭に出た時に突っかけたサンダルのまま石段を降りて、そのまま住宅街を歩き始めた。そして、整然と区画整備された中を歩いているうちに、自分がどこを歩いているのかわからなくなった。四方を見渡すと、視界に入って来る道や角が、みんな同じに見えた。この歳で迷子になるなんて。そう軽く思いながら元の道に戻ろうとして入った道が違う道で、入る道、入る道、どこも無機質な角地が飛び込んでくる。途方に暮れて彷徨っているうちに、駅前のアーケードに出た。ああよかった。ようやく安堵して、アーケードの下に軒を連ねる商店街の中ほどにある将棋倶楽部の前まで来た。シャッターが降りているので、変だなと思った。今日は休みか? まだ開いていないのか。しばらく新聞でも読んで時間を潰そうか。そう思って近くの小さな公園のベンチに腰かけているうちに眠気を催し、英輔はうつらうつらし始めた。そのうちに、駅に向かう人々、駅から出て来た人々が往来し始める。
家では京子が慌てている。夫がいない。最初はトイレにでも入っているのかと思った。物音がしないので、声をかけてみるが応答がない。鍵をかけていないのか、そっと開けてみる。気配に気がついたカンナが二階から降りて来た。
「どうしたの?」
「大変、おとうさんがいないのよ」
「庭じゃないかしら、さっきいたわよ」
「あ、そう」京子は安心した。「翔一さん、何時頃って?」
「九時頃じゃないかしら」
「翔一さん朝まだでしょう。来てから一緒でいいのかしら」
カンナは萌子を起こしに行って戻って来ると洗面所に連れて行き、寝ぼけ眼の我が子に歯磨きをさせた。
翔一はソファの上のトートバッグを肩にかけ小さなリュックを手に持つと、玄関を出て鍵を確かめて、マンションの駐車場に行った。自分の駐車スペースには五年落ちのステーションワゴンが待っている。運転席のドアを開け奥の隣席に荷物を置くと車に乗り込む。エンジンをかけCDのスイッチを入れる。ライトミュージックが流れて来る。タバコを吸わないので、灰皿ケースには小銭が備蓄してある。ゆっくりアクセルを踏み込むと、車は静かに動き出した。
翔一とカンナ、それに一人娘の萌子の暮らすマンションはカンナの父母が住む戸建てとは同じ沿線で、二駅しか離れていない。なので、何か用事があればお互いに行き来している。大概はカンナが萌子を連れて幼稚園の帰りに父母のところに行く。この頃は萌子も手がかからなくなって来たし、行くと母親よりも決まって父親の方が今度はいつ来るのかと次回を約束させようとするし、カンナもいくら両親に健康には自信があると言われても気にならないこともないので、何かと顔を出すのがこの頃の生活習慣の一部になっている。
駅で二つの距離だから、翔一の車はすぐに義父母宅の最寄り駅まで来た。駅前の商店街のアーケードを横切る車道をゆっくり走っていた時、思わず翔一は声を上げた。
「あ、あれ? おとうさん?」間違いない。アーケードを横切る時、一人の老人の後ろ姿が翔一の視界に入った。
「ちょうどよかった。乗せて行こう」独り言が出る。両方のウインカーを点滅させた翔一の車は、路上に一時駐車した。
翔一は予定通り九時過ぎに住宅街の中を義父母宅のある道路に入ると、家の下の道路沿いに車を止めてエンジンの鍵を抜いた。翔一は、バックミラーに映る英輔に声をかけた。
「おとうさん、着きましたよ」英輔はすぐに反応しない。もう一度声をかけてようやく、我が家の下に車が着いたことがわかった様子だった。それでも一人で車から降りる気配がないので、翔一は先に降りて後ろのドアを開けてあげた。車から降りると、英輔は石段の手すりを掴むこともなく、スイスイと駆け上がって腰の高さほどの鉄製の門扉を押し開けた。後ろからは翔一がついて来る。
「あら、おとうさん。どこに行ってたの? 心配するじゃないの」家屋の周りを探していた京子が夫の姿を見つけて、すぐに言った。英輔は、
「ハイ新聞、今そこで翔一君と会ったよ」と言い、翔一を促しながら先に玄関の中に入る。トートバッグとリュックを抱えた翔一は、おはようございますと少しバツが悪そうにして京子に挨拶しながら中に入った。入り際、朝ご飯まだなんでしょう? と聞かれ、スミマセンと答えた。
すぐに萌子が抱き着いて来た。暑いだろうに両手を翔一の太ももに回して顔を押し付ける。ねえ、どこに行くの? お買い物? リョコウ? などと覚えたての単語を並べ立てる。
「今日はね、みんなで海に行くんだよ。萌子、海行くの初めてだよね。海、わかる?」
「ウミ~? うん知ってる。これでしょ?」そう言って、萌子は昨夜から肌身離さずに持っている絵本を広げて翔一に見せた。
「アハハハ、そうそう、これ。海に行ってみんなで遊ぶんだ。萌子は何して遊ぶのかな、砂遊び?」
「萌子、絵描くの」萌子はいつの頃からか、自分のことを萌子と言うようになった。翔一は先日の日曜日プールから帰るとカンナと相談し、カンナは実家に電話し、それから翔一が海辺に沿った国道に接したレストランに今日の正午頃の予約を入れた。十時にここを出発すれば昼頃には着くだろう。
そこへ京子が近づいて来た。ちょっとちょっとと翔一を手招きして、台所の隅で小声で訊いた。
「翔一さん。おとうさん、ちょっといつもと違うような感じしなかった?」
「いいえ、いつもと変わりないと思いますけど……。何か?」いつもおとうさんと会っている訳ではありませんがと枕詞をつけるのを忘れたが、京子はすぐに引っ込めてしまった。英輔はそこで偶然に会ったようなことを京子に言っていたが、本当は駅前で車の中から翔一が見かけて車を止め、アーケードの中を歩いている英輔を追いかけて声をかけたのだ。英輔は、行き交う人々の合間を目的もなくただ歩いているようだった。
「おとうさん」と声をかけると、誰が自分を呼んだのかわからないが、英輔は顔を上げた。英輔が我に帰るのに、少し間があった。
「あ。ああ、翔一君かあ」
「おはようございます。こんなところで、」何をしているんですか? と言いかけて言葉を変えた。
「朝の散歩ですか。いいですね」すると英輔は、これから将棋を指しに行くと言う。
「え? 将棋? だっておとうさん、」と言って、翔一は口をつぐんでしまった。
「今日はこれから、みんなで海にいくんですよね」翔一が言うと、英輔はポカンとした表情を浮かべたが、すぐに思い出したように、
「あ、そうだった、そうだった。今日は萌子と海に行って遊ぶんだった」翔一は笑いながら英輔を後部座席に乗せて、家に向かったのだった。車中、英輔は身を乗り出して真面目な顔つきをして、翔一に言った。
「さっきあそこで会ったことは家内には内緒に頼むよ。変な心配させてもいけないし」会った場所を秘密にしておいて欲しいのではなく、今日の大切な予定を忘れていたことを黙っていて欲しいということだとすぐに察して、「はいはい、わかりました。大丈夫ですよ」そう答えた。義父からの願いを無視する訳にはいかない。確かに少し様子が違っているように見えたが、翔一は京子には今朝のことを話すことができなかった。
萌子は、祖父母の家を朝から興奮気味で駆け回っている。一階の居間から祖父母の畳の寝室、台所、洗面所から風呂場まで、くまなく探検している。どこかに隠れている翔一を探し出そうとしているようだった。各場所を覗いては、「あれ、いない」を連発し、また台所に戻って来ると、京子に、
「ねえおばあちゃん、おとうさんは?」と居場所を訊く。
「おとうさんは、もう来る頃よ。今、車だから」と言って相手をしようとすると、するりとすり抜けて、今度は車はどこかなとブツブツ言いながら、また各部屋を探検する。二階にも上がってみる。翔一も車も二階にはいない。ちょうどその時、玄関で物音がした。後ろ向きに四つん這いになって急いで階段を降りる。それで玄関にいる翔一を発見して思いっきり抱き着いた。
萌子は一歳になってすぐに翔一とマンション近くの幼児向け水泳教室に通い始め水遊びをして来たので、水が怖いという本能にはだいぶ慣れてきていた。日曜日の午後、
「モエちゃんは上達早いですね」こういう教室のインストラクターがかけて来る言葉は、お世辞とわかっていても嬉しい。
「萌子はまだ、海をみたことがないんで、今度連れて行こうかと」
「あらまあ、いいおとうさんですね」などと話していると、萌子は二人の間に立って、大人たちを交互に見上げて会話を聞いている。萌子としては一人前に会話に参加している気分なのだろう。翔一は背中にもたれかかっている萌子の両肩に手を添えて、
「萌子、海ってまだ見たことないよね」萌子はインストラクターに少し人見知りするようにクルリと翔一の方へ向き直って、
「萌子、ウミ知ってる」
「え? ホントに?」インストラクターが幼児向けにわざとらしく驚いて聞き返す。
「うん、知ってるもん」翔一は頭を掻きながら、小さな声で絵本でねと言い添えた。
けれども今日は、本物の海を見に行く。最初は買い物か何かと思ったけれども、本当に海らしい。絵本をさっき翔一に見せた時、海に行ってみんなで遊ぶんだと言ってた。これが興奮せずにいられない。萌子はまた、家じゅうを走り回って、「ワーイ、ウミ、ウミ」と連発した。朝食の時も落ち着いていられない。ゼンマイ仕掛けのように「ウミ、ウミ」とはしゃぐので、しまいにカンナに叱られ、京子からは、
「さあさ、しっかり食べましょうね」と宥められた。翔一は笑っている。傍らでは、ぽつねんとした英輔が何も喋らずに物を口に運んでいる。
朝食を終えると後片付けもそこそこに、カンナと京子は畳の部屋で忘れ物がないか点検をし始めた。翔一は居間で萌子の相手をする。英輔は退屈そうにしていたが、自分だけ何もしないでいるのも嫌で、結局、居間で遊ぶ大好きな孫とその父親の方に首を突っ込んでみたり、畳の上で作業している京子とカンナの方へうろついてちょっかいを入れてみたりしながら、孤独にしていた。
「さっき翔一さんに訊いてみたんだけど、特に何も変わった感じなかったって……」
「だから、気のせいだって」
「そうかねえ……」二人がヒソヒソ話していると、英輔が近づいて来た。
「何か、忘れ物はないかなあ」などと、手持無沙汰そうにして会話に探りを入れて来る。
「ここはあたしたちに任せて、おとうさんはあっちで三人でおとなしくしててよ」娘に邪魔者扱いされて、孫の方へ行くと、萌子は「おとなしくしててよ」とカンナを真似して言い、英輔と入れ違いに畳の方へ行く。
陽はすっかり高く上がり、沖合の海原は波々が穏やかにキラキラ輝いている。砂浜が混雑し始める前の束の間、サーフィン好きの数人の若者が波乗りをしている。男もいれば女もいる。中の女が一人、砂浜に上がり遥々歩いてデッキの麓までやって来ると、床を掃いている女に声をかけた。
「おはよう、アっちゃん」朝美は顔を上げた。
「いい波来ないな。ダメだわ、今日は」なおも朝美は黙々と掃除をしている。サーフィンの女は、独り言のように勝手に話を続ける。朝美は床にバケツの水を撒いてモップをかけ始めた。
「これから彼氏のショップに行かない?」突飛な誘いに朝美は黙っていると、女は諦めてまた海の方へ帰ろうとした。朝美は、
「午後天気、荒れるみたい。さっき予報で言ってた」
「そう、ありがとう。それから昨日はゴメン。あたしが悪かったみたい」朝美は黙っていた。女は仲間の方へ帰って行った。
孫に見放された英輔はしかたなく翔一ひとりを相手に、将棋の話を始めた。
「将棋倶楽部、入ってもう長いんですか?」
「十年くらいかな、定年からだから」翔一は以前にも同じこと訊いたなと思った。
「昨日も対局したんだが、あいつ、何かズルしちゃいないだろうな」と独り言のように言う。話の雲行きが気になって、翔一が訊く。
「あいつって、誰です?」すると英輔は、まるでこの対局を翔一が観戦していてくれていたかのような顔つきをして、
「あいつだよ、カズナリ、小林一成。いやぁ、あいつにゃなっかなか勝てない」
「強いんですね、一成さんって」
「いや強いの何のって」と言ってから、まっすぐに翔一を見た英輔は、「あんなに強い訳がない。あいつ、何かズルしてんだよ、きっとそうだ」と自信ありげな言いっぷりは、翔一にも賛同を強いているようだった。翔一は子供でもあやすような気分で、適当に頷いた。
英輔の話は急に飛ぶ。
「そうかあ、これから海に行くのかあ。ずい分と久しぶりだな」少し武者震いでもしたように翔一には見えた。
「わしが学生の頃は、泳ぐと言えば必ず海だったよ」と言い、コップのお茶を一口飲むと、
「海はいい。広くて、深くて。沖合でぼーっとして何も考えずにただ浮いているのが、一番いい」それから目を細めて、遠くを見つめた。翔一は義父の顔を見た。深い傷のような皺がいくつも刻まれている。翔一は、人生の勲章だと思った。それにしても、今もこうして話をしていても、義父には少しもおかしいところは見当たらない。けれども、今朝は確かに少し様子が違っていた。翔一にはいつもと比べてどうのこうのと言うことはできない。しかし、今日は海にみんなで行くことはカンナや義母から聞いて知ってたはずだ。なのに、将棋を指しに行くと間違いなく言っていた。やはり今朝のことをカンナと義母には言っておこうか。二人とも、自分と同じように何か感じているところがあるのかも知れない。それも訊いてみようか。居間から畳の方を眺めると、二人とも畳に広げた手提げ袋やトートバッグの中身を見ながら楽しそうに話し込んでいる。傍らでは、萌子も小さな自分の秘密のリュックの中を覗き込みながら手を入れて見たりして、自分も点検を演じている。
「萌子は、ホント、ピンクが好きなのね。水着もタオルもみんなピンクだね」畳に広げた中から萌子のを摘まんで掲げた京子が笑う。萌子が満足そうに満面の笑みを浮かべると、リュックの中から、これもピンクと言いながら、小さな帽子とビーチサンダルを取り出して見せた。
そんな光景を眺めながら、翔一は、今度近いうちに今朝の話も含めて京子とカンナと三人で話し合ってみようかと思った。それにしても、こんなことを考えるのは自分が暇だからじゃないかとも思った。そもそも勘違いは誰にでもあることだし、暇だからつまらないことをあれこれ想像してしまうだけなのかも知れなかった。今、目の前にいる義父と自分との間には、展開していくような会話がいつもない。そういえば、翔一には自分が語り手になるようなことが滅多にない。会社でもいつだって聞き役に回っている。聞き上手とはよく言ったもんだ。そのことがいつの間にか話し下手になって、会社でもずい分と損な思いをして来たんじゃないか? そんな雑念が少し翔一の中に芽生える。今頃ゴルフでもやってるんだろう。また嫌な同僚の顔が浮かぶ。しかしそんなこと考えても仕方のないことだと、畳の上の萌子やカンナを見るにつけ思った。
「二階の戸締りは大丈夫よ」見に上がって降りて来たカンナが一階を見て回った京子に言う。翔一が手提げ袋とトートバッグを持ち、カンナは萌子にリュックを背負わせると、みんなして玄関を出た。鍵をかけて石段を降りると、翔一は背面ドアを押し上げて手提げ袋とトートバッグを入れる。後部座席の中央にチャイルドシートがしっかり固定されると、英輔がまず奥に入って、萌子は観念して隣のチャイルドシートに縛りつけられた。その後に京子が乗り込んで後部座席は埋まって無事に終わった。運転席に入った翔一が少し車を前に出すとカンナが助手席に入り、中古のステーションワゴンは静かに動き出した。
「お昼過ぎには着くと思うよ」翔一がそう言う。京子が、
「安全運転でお願いしますね」と翔一の真後ろから声をかけると、
「かかってもいいから」左隣からカンナがダメ出しをした。
一家の車は一車線しかない国道四六七号線を海岸に向けて走っていた。週末とあって、もう道路は相当に混雑している。翔一はみんなを快適に連れていかなければと、話題も考えて提供しながら運転するので、そのうちにカンナから運転に集中するように注意された。
「萌子、お絵かきするの」出発前に幼児用の酔い止め薬を飲まされた萌子は、前に抱えたリュックから六色のクレヨンの入ったケースを取り出して英輔に見せた。英輔が目を大きくして、
「そうかそうか、萌子は将来、絵描きになるのかな?」と笑って言うと、萌子は真顔で、
「ううん、ケーキ」と言う。
「あれ、ケーキ屋さんかあ」すると、萌子の右隣り翔一の真後ろにいる京子が調子を合わせて、
「最近はケーキ屋さんなのよね。ね、萌子」と首を突っ込む。俺の知らんことを、なぜお前が知ってるんだ。英輔はプイと横を向いた。
そのうちに渋滞はひどくなってきた。国道に入ってしばらくは、車の流れは順調だったが、すぐにノロノロ運転になり、やがて止まったり少し徐行で進んだりするようになった。後ろの方には何とかして一台でも追い抜いてやろうとする車もあって、それがちらちらと反対車線に顔を出しては引っ込めるのがサイドミラーに映った。
「何とかお昼過ぎには着かないとね」翔一にしてみれば、みんなを気遣うつもりだったが、かえってカンナに叱られてしまった。
「そんなこと、どうでもいいの。周りの車にもよく気を付けて、ちゃんと運転しなさい」ぴしゃりと来た。
英輔はそんな家族の会話もぼんやり聞いていた。翔一はバックミラーをちらっと見た。そこには普段見ることのない、くたびれ朽ちた老人の寂しい顔があった。シートに括られた幼児は時折、足をバタバタさせながら、隣のおばあちゃんを相手にして何か楽しそうに話しては屈託なく笑っている。義母がそうやって萌子の子守りをしてくれている。
翔一はそれまでかけていたCDを止めて、ラジオに切り替えた。交通情報だ。順繰りに幹線道路の混雑状況を知らせている。今走っている国道の番が来た。かなりひどい数珠繋ぎになっていて、海岸沿いの国道にぶつかるまであと二時間は覚悟しなくてはいけないようだった。
「慌てても仕方ないな、こりゃ」車がつっかえて止まったところで、目的のレストランに電話を入れ、到着が一時頃になりそうだと伝えた。隣で聞いていたカンナには、聞こえるはずのない電話の向こうの声が聞こえるのか、
「ゆっくり来いって?」と言った。
「おしっこ」後ろから子供の叫び声がした。翔一はバックミラーに萌子の悲痛な表情を見て、ちょっとガマンしようねと言うと、ハンドルに前かがみになって周りをキョロキョロして見た。助かった、もうちょっと先にファミレスがある。あそこでトイレを借りよう。駐車場に左折して入ると、混んでいると思ったが、拍子抜けするほどガラ空き状態だった。他の車はみな先を急いでいるようだったが、急ぐのは諦めてのんびり行こうと思った。駐車場で車を降りた時、翔一は空を仰ぎ見た。
空は少し乾いているのか、ところどころを泳ぐ雲の姿がくっきりとしていて、抜けるように青い。室内に入ると、他の大人たちがウェイトレスに案内されながらボックステーブルの方へ行くのを尻目に、カンナは萌子を連れてトイレに直行する。
「今日は一日いい天気のようで、よかったですね」娘婿よろしく、翔一は当たり障りのないことを言った。このあと義父母の方から何か話が返ってくるかと思ったが、三人の間にはしばらく沈黙が続いた。そのうちに、頭の中で話題を考えていた翔一が、耐えかねたように、
「あの、おとうさん、最近はこっちの方はいかがですか?」と、人差し指の上に中指を重ねて駒を打つ手つきをしてみせた。出て来る前にひとしきり英輔から聞いた話題だったと、言ってすぐに気がついたが、英輔の方は気がついていないのか、
「う、うん、やってるよ」と気のない返事をするので、京子が付け加える。
「昨日も行ったのよね、おとうさん」それで少し口が緩んだ英輔は、
「う、うん。いやあ昨日は負けちゃってね、今日こそはと思ってるんだがな」
「え? 今日も?」今朝アーケードの商店街で英輔を見かけたことを思い出した。この話題はまずいな。少し困った顔になった翔一が黙ってしまったので、またしばらく重い空気が流れた。今度は京子がしびれを切らして、
「夕べは遅くまで大変でしたね。お仕事忙しいんでしょう?」などと言う。
「ええ、まあ……」これが自然体とは言え、面白い話の一つもできない自分が情けない。そうこうしているうちに、中心人物二人がやっと登場してくれた。
「もう注文したの?」と言うカンナに、いや待ってたよと英輔がくたびれた声で応じる。
「まだホントにそんなにかかるの?」カンナが翔一に訊く。
「たぶんね。安全運転で行くから」
「安全運転は当たり前よ。でもまだ、そんなに……?」要求は厳しい。聞きながら翔一にはチラリと義母の顔が見えた。楽しそうに笑っている。夫婦漫才でもやっているように見えるのか、翔一もおかしくなってニヤニヤする。カンナは、何がおかしいのというような顔をした。
「あなたたち、いい夫婦ね。」と京子はカンナに言った。改まってそんな風に言われるとどう反応していいか、とっさに身の置き場がなくなる。カンナは、
「さあ、それは旦那さま次第じゃないかしら」と言って翔一の顔を覗き込んだ。
一家がファミレスを出て駐車場の車に戻ろうと歩き出した途端、遠くの方の空で雷鳴がした。
「ヤダ、雨かしら」カンナが翔一に説明を求める。「ナンチャッテ気象予報士の後藤翔一さん、コメントをどうぞ」
「あはは、困ったねどうも」そして「午後はところにより一時的にゲリラ豪雨になるでしょう。落雷にもご注意ください」とおどけた瞬間、本当に大粒の雨が降り始めた。みんな慌てて車に向かう。翔一がロックを解除すると、みんな急いで中に滑り込んだ。京子がトランクスペースに手を伸ばして手提げ袋の中から大きなバスタオルを二枚取り出すと、一枚をカンナに渡し、もう一枚で孫の頭や顔を拭いて英輔に渡す。カンナは軽く自分の顔に当てるとそのまま翔一に渡し、翔一は頭をばさばさと拭いた。雨脚は激しく、閑散とした駐車場には大きな水たまりがあっと言う間にいくつもできた。車の中でみんながやれやれと一息ついていると、また遠くで雷鳴がした。
「すぐに止んでくれるといいんだがな」英輔は窓ガラスを少し指で擦って、外の様子を窺った。誰も帰りたいとは言い出さなかった。萌子にも事情は理解できていて、旅する象の一団の中の小象のように、ただお行儀よくしている。ここでじっとしていても始まらない。翔一はゆっくりと駐車場を出て、再び渋滞する国道に合流した。その時、今度はさっきよりだいぶ近いところで、また雷鳴がした。
家族の車は、もう少しで海岸沿いの国道に合流するところまで進んだ。雨もだいぶ小降りになり、ワイパーを長い周期に切り替えた。ノロノロ運転のまま、ハンドルを抱きかかえるように身を乗り出して、フロントガラスから前方の空を眺め仰ぐ。そのうちに、ワイパーから鈍い摩擦音が聞こえるようになった。
「止んだみたいね」
「みなさん、雨止みましたよ。萌子、雨止んだよ」翔一がアナウンスする。萌子は特等席の中でパチパチ両手を叩いた。
「あがった、雨あがったね」自分の言っていることが正しいことを確かめるように隣の英輔に言う。
「おお、あがったね」英輔は萌子の頭を優しく撫でた。
車はようやく海岸沿いの国道に入った。相変わらず少し進んでは停止を繰り返したが、着実に前には進んでいた。渋滞で止まったところで、もう一度レストランに電話を入れた。こういうところは、日頃の営業マンの癖なのか。今の居場所を上司に報告しているみたいだ。カンナは、店だって忙しいだろうし一度ならまだしも二度も途中で電話を入れるなんてと呆れ顔をして亭主を見る。でもまあ一応前に進んでいるので、文句は出なかった。ようやく右手の方にレストランの入り口が見えて来た。反対車線の方だ。ところが駐車場は左手の方らしい。「レストラン『サザンクロス』の駐車場はコチラ」というベニヤ板の案内板が目に飛び込んで来た。
駐車場と呼ぶにはほど遠い、車が三台止められる広さだけの駐車スペースだった。コンクリートを流して固め、ロープで三区画仕切っただけの簡易なもので、左のスペースには軽トラックが止まっている。この店のものだろう。翔一はその隣の真ん中のスペースに車を入れた。いつの間にか英輔はいびきをかき、隣では萌子はスヤスヤと眠ってしまっていた。
駐車スペースは、ところどころにコンクリートの下から雑草が生えて伸びていた。奥はすぐに雑木の生い茂った山の斜面が迫っていた。おかげで駐車スペースは日陰になっているが、雨が止んで地面が乾いた分、蒸し暑さだけが辺りを覆っていた。
車から降りると、蒸気のような暑さがすぐに襲ってきた。寝ぼけ眼の子供は、目を擦りながらカンナに抱きかかえられるようにして降ろされた。日陰になっているのは、駐車スペースと国道を挟んで向こう側に見えるレストランの庇の下の入り口だけで、間に通っている国道の路面には初夏の太陽の光が燦燦と降り注いでいる。横断歩道は駐車スペースのすぐ脇にあった。翔一がみんなを引率するように、ゆっくり横断歩道を渡り始める。その時、英輔は急に立ち眩みがして、隣を歩いていた京子の方に身体が少し傾いた。慌てたのは京子ばかりではない。翔一は、カンナが萌子の手をしっかり持っているのを見ながら、同時に英輔の脇の下に自分の頭を潜らせた。
「おとうさん、もうそこです」耳元で声をかける。
「おう、大丈夫だ、大丈夫だ」力ない声で英輔が応じる。
「着いたらすぐに救急車呼びましょう」と言う翔一に、英輔は何も答えなかった。
横断歩道を渡り切ると同時に、洗い立ての白い厨房服を着た体格のがっしりした男が中から飛び出して来た。
「大丈夫かい?」声をかける。「さ、中へ入って入って」と言いながら、翔一に肩を預けた英輔が中に入るのを見守る。一家は中に入って、とりあえず、すぐのテーブルに英輔を座らせると、ウェイトレスが冷たいおしぼりをいくつも持ってきた。
「いやあ、すみません。ありがとうございます」翔一はまっすぐ相手の顔を見た。いえ、と小声が聞こえたような気がした。翔一は救急車を呼ぼうとして携帯を取り出したが、英輔は断った。
「大丈夫、大丈夫だって。ちょっと暑さにやられたんだろう。大したことないよ」と言う。「おしぼりを顔に当てていれば、すぐによくなるよ」それから、冷えた飲み水がコップに何杯もお盆に載せられて運ばれて来た。少し口に含む。それからゴクゴク飲む。「はあ~」と大きく息を吐いた。
みんながほっとして一息ついている様子を、萌子は何だろうというような顔で見上げていた。店には他に誰もそれらしき人がいないので、この男が店主だとわかった翔一は、自分の名前を告げた。
「遅くなっちゃって、どうも」
「ここの渋滞は、半端ないからな」全然レストランらしい感じがしない。店主は萌子の頭を軽く撫でた。
室内はこじんまりとしていた。薄暗く、テーブルが三つと小さなカウンターがあった。静かなジャズが流れていた。カウンターの脇のガラス戸の向こうには、砂浜に突き出したデッキがあるようだ。太陽の強い陽射しが容赦なく照り付けているのだろう、床からは蜃気楼が立っている。大きなパラソルが一つあって、その中にもテーブルが見えた。強烈な日光でガラス戸の向こうは全体が眩い真っ白な空間になっている。英輔のことが心配なので、翔一は室内からでも砂浜や海が眺められるテーブルを店主にお願いした。
じゃ、そこにでもどうぞと言われて、窓辺のテーブルに着いた。ここからなら、デッキを手前にしてその向こうの砂浜も海も眺められる。カンナは萌子を自分の脇に座らせたが、ダダをこねた子供はすぐに椅子を降りて、まっしぐらにデッキに通じるガラス戸に行くと、そこに顔をくっつけて外を眺め、走って戻って来て、「お外に行きたい」と言い出した。
「じゃあ、ジイジと行こうか」と英輔が言うのを京子も、カンナも、翔一も、とんでもないというような顔つきをして宥め、カンナが萌子に、
「ちょっと休んでからね」と口では優しく少し目尻を釣り上げて窘めた。聞き分けのいい萌子は空気を読んで、おとなしくまた指定席に座らされた。
「おとうさん、ここで休んでれば、それで本当に大丈夫なんですか?」翔一がなおも訊くと、英輔は無言のまま、幾度か頷いてみせた。
「ねえ、ウミ~」と萌子がカンナの胸を引っ張る。カンナが手を焼いていると、自分の出番とわかっている翔一が萌子を抱っこしてガラス戸のところまで行き、デッキとその向こうの眺めを萌子に見せた。
「あれが海だよ、萌子」萌子は翔一の胸の中で立ち上がった。海を指さそうとするが、うまくできない。人差し指と中指、親指が中途半端に広がった手つきのまま、右手を前に伸ばして、「ウミ、ウミ」と繰り返した。
そこへ店主が近づいて来た。
「まるで貸し切り状態ですね」と翔一が言うと、いかにも気骨のありそうな大柄な店主は、ぎこちなく、
「看板わかりにくいだろ? 俺はここの漁師なんで、たまに気が向いた日にやるくらいなんで、混んでも困るんだよ」日焼けした顔を崩した。カンナは、この店大丈夫なの? というような心配そうな顔を一瞬だけ翔一に向けた。
「でも大丈夫だよ、奥さん。調理免許も衛生管理の資格もちゃんと持ってるし、腕にも自信があるよ」
「はあ」カンナは話しかけられて、ポカンとした。
「今日は、漁に出ない日なんで」
「じゃあ、あたしたちのためにわざわざ?」
「わざわざ? んな訳ない、たまたまだよ。娘も今日はバイト休みなんで、手伝うって言うし」そこへ、さっきおしぼりと水を持って来てくれたウェイトレスが近づいて来て、
「海水浴ですかね」と声をかけた。娘の朝美ですと店主が言う。
「じゃあ、お食事はそのあとにします?」
「そんな融通きくんですか」
「ええ構いませんよ。着替えるのも奥の更衣室使ってもらっていいですよ」と娘が言えば、「いつか来た連中は、構わずここでタオルで隠しながら着替えてたな。それで、奥の物置を直して更衣室にしたんだよ」父親が手振りを交えて言う。
「去年のシーズンに作った簡単な部屋ですけど、よかったらどうぞお使いください」
店の親子が厨房の方へ見えなくなると、カンナは声を低くして翔一に言った。
「ねえ、ここ大丈夫なの? 食中毒とか」
「お腹なんか壊さないだろ。神経質になりすぎるのもね。なったらなったで、その時考えるさ」
「あなたって、危機管理はダメそうね」カンナの茶化しがまた始まった。
萌子は特別に出されたジュースをストローで飲むのもそこそこに、やはり心が逸って、「ウミ、ウミ」とせがんだ。翔一はみんなの顔を見ながら腰を上げると、
「じゃ萌子、あっちでお着換えしようか」幼児の手を引いて厨房の近くに行って更衣室の場所を訊くと、中から、そこのトイレの向かいですという声がした。
テーブルには主役の子供がいなくなり、急に大人の、それも親子水入らずの瞬間が訪れた。年老いた両親と娘の構図が急に蘇る。それはカンナが翔一と結婚し萌子が生まれてできた新しい川の流れではなく、カンナが生まれた時から流れて来た古い川の流れだった。英輔はほとんど喋らず、会話はもっぱら京子とカンナがしている。血の繋がった母と娘だから、会うのは久しぶりでもすぐに互いの気心はわかるし、話題にも事欠かない。英輔は会話に加わるでもなく、ぼんやりと二人の話しているのを聞いたり、ガラス窓越しに遠くの空を見たり、デッキの柵から少し顔を出して見える波打ち際を凝視したりしている。そのうちに急に、
「将棋に言って来る」とポツリと言うので、京子もカンナも耳を疑った。
「だっておとうさん、何言ってるの? 今日はみんなで海に来たんでしょ」京子が言えば、カンナも、
「おとうさん、少し疲れたんじゃない?」と言う。英輔は、コップに残っていた温くなった水を飲み干した。
「いやいや、そうじゃないよ。これから大事な戦いがあるんだよ。一成のヤツ、今日こそは鼻を明かしてやる」英輔の鼻息は荒い。京子は愕然とした。
「あらヤダ、何言ってるの、おとうさん」
「一成って、誰?」カンナが訊く。京子はカンナに構わずに、
「しっかりしてよ、おとうさん。一成さんは去年の暮れに亡くなったじゃないの。お葬式に行ってお別れしたわよね」京子がこう言うと、
「ああ、そうか。あいつ死んだのか」英輔は無言のまま、また遠くの海の景色の方へ顔を傾けた。京子もカンナも英輔のことが量りかねて、何とも言えない定まらない不安のさざ波が心に広がった。
「おとうさん、おトイレ大丈夫? 行ってくれば?」とカンナが言えば、京子も同調して英輔に行くように促した。
「まだ行きたくならないよ。それに今、翔一君が行ってるじゃないか」
「翔一さんと萌子は今、別の部屋で着替えてるのよ」京子が言う。
「ま、そのうちに行きたくなったら行って来るよ」と言いざま、英輔はテーブルをぎこちなく手で押して立ち上がった。
「ちょっとトイレを拝借できますかな」
水着に着替えさせ頭には帽子をかぶらせビーチサンダルを履かせると、翔一は萌子を連れて更衣室からテーブルに戻って来た。
「あれ、おとうさんは?」カンナがトイレと言うのが耳に入って、翔一の頭には再び今朝の駅前での出来事がよぎった。でももう、すぐに英輔は戻って来るだろう。じっくり話す時間はないし、第一、間が悪すぎる。そんな思いが起きて、翔一は何も言わなかった。萌子は嬉しそうに、自慢気に自分のピンク色のワンピース姿を京子とカンナに披露して、ポーズを取ってみせた。
「萌子、かわいいね」と京子が素直に褒めると、萌子はいよいよ上機嫌になっていろいろにポーズを変えて見せた。
「まあ、どこで覚えたのかしら、オマセな子になって来たわ」母親も素直な感想を言った。
英輔が戻って来ると、萌子は英輔にも水着姿でポーズを取って見せた。英輔が喜ぶと、
「おじいちゃん、海に行こうよ」と萌子は英輔を誘った。それが、「海に入りたい」とか「海に行きたい」ではなく、まるで対等に英輔を誘っているように見えて、京子もカンナも翔一も思わず吹き出してしまった。三人の視線は自然と、英輔に集中する。
「よし、行こう」と言う英輔に萌子は大喜びしたが、
「おとうさん、ダメよ。それに、おとうさんの水着持って来てないし」諦めさせようとするカンナだったが、英輔は、
「大丈夫だって。ちょっと水際まで行くだけだよ。それに翔一さんだって一緒なんだし。心配ないよ」と人への迷惑も考えずに、年老いた子供のような我がままを言った。話の流れで翔一は、
「心配ないですよ」と言いながら、カンナの顔色を少し窺い、
「すぐに戻って来ますよ」と京子に言った。手提げ袋の中の魔法瓶の水筒と手ぬぐいをカンナから受け取ると、水筒を肩にかけ手ぬぐいをベルトに挟んだ。
「少しでも調子が悪そうになったら、すぐに戻って来るのよ」と京子は老いた大きな子供に念を押した。
萌子の手を取った翔一はデッキに出た。後ろには英輔がいる。突き刺すような夏の太陽の光が、容赦なくデッキに降り注いでいる。床からの照り返しも凄まじく、蜃気楼がゆらゆら揺れている。急いでパラソルの中に入ると、直射日光は避けられたが、まるで身体じゅうが熱波で燃えてしまいそうだ。暑い微風がデッキをかすめるが、それがまた暑さに拍車をかける。
「いやあ、どうにも暑いな」英輔が思わず悲鳴を上げたので、翔一は英輔が室内に戻ろうと言うだろうと思いきや、本人は、
「早く海へ行こう」と、手摺りを伝って木製の階段を砂浜まで降り始めた。翔一は萌子を片手で抱きかかえて、やはり手摺りを伝って後に続いた。
遠くに白く、波打ち際が見える。萌子は翔一に抱きかかえられたまま、今度は行く手をまっすぐ人差し指で指さした。顎をほんの少し上げて前を見つめている。英輔には、凛とした萌子の姿が遠い海原を指さしているように見えた。英輔は、朦朧としてなのか夢見心地になってなのか、心もとない足つきで水際の方へと歩き出した。萌子は、
「ジイジ、ジイジ」と英輔に遅れをとるまいと、翔一の胸の中で足をばたつかせる。翔一は砂に足の運びを取られながら、英輔にすぐに追いついて、並んで歩いた。
萌子にまっすぐに見つめられていた海は、穏やかな表情をしていた。波打ち際では子供が砂遊びをしたり、若者がオイルを塗った身体を日光に向けたり、ビーチパラソルの中で日焼け止めを塗ったり、ビーチバレーをしたりと、思い思いに楽しんでいる。地元の中学生だろうか、スイカ割をしているグループもいる。浅瀬の方は、水面からたくさんの頭が出ていて、浮き輪やビニールボートで込み合っている。そんな混雑を避けて、サーフィンの若者たちは沖合目指してボードを漕いで少し波乗りするとすぐに態勢を壊して、また沖合に向けて漕ぎ出しては少し戻るを繰り返している。
翔一と萌子それに英輔は、勢いをなくした波が優しく撫でている水際にようやく到着した。翔一の胸から降りた萌子はそこにペタンと座り込み、水の中に手を入れ、砂を両手いっぱいに掬っては落とし掬っては落とし遊んでいたが、すぐに退屈してしまい、立ち上がって翔一の太ももに絡みついた。何を要求しているのか、翔一にはすぐにわかった。翔一は萌子の両脇に手を入れて高い高いをしながら、萌子を少し水の中に入れると、また高い高いをした。プールでもやっていたこれが萌子もお気に入りなのか、キャッキャッと声を上げて喜んだ。
「おとうさん、なんか飲みたい」萌子を抱いたまま、翔一は水筒を肩から降ろして冷えた麦茶を萌子に飲ませた。傍らには英輔がいる。周囲の砂浜の熱気に圧倒されて疲れたのか、英輔は親子の水遊びを見て楽しむでもなく、浮かない表情で目を細めて遠くの海原の方をぼんやりと見つめていた。その手前の浅瀬では、サーフボードに腹ばいになった若者たちが波間に漂っている。
「おとうさんも、飲んでください」翔一は水筒の中蓋に冷えた麦茶を入れて英輔に渡す。
「熱中症になったら大変ですから。飲んだら、もう戻りましょう」と言った。英輔は何も言わずに渡された麦茶を飲み干すと、
「もう帰ろう」と言った。萌子を遊ばせることよりも、むしろその言葉を待っていたくらいの翔一は、萌子に「また来ようね」と言って、その手を引いて、英輔のことも気にしながら、帰りは小さな萌子を真ん中にして三人並んでデッキを目指して戻った。砂浜からデッキに上がった時、ひと際大きな雷鳴がした。三人とも急いで室内に入った。
京子とカンナは三人が砂浜に行っている間、英輔のことを話していた。
「やっぱり少し進んでいるのかしらね」
「でも翔一さんは特に変わったところはないって」
「おかあさんがそう思いたいのはわかるけど、でも絶対変よ」そんな話をしているところへ、三人が戻ってきた。
萌子はガラス戸越しに海の方を見た。大きな白い雲がニョキニョキと大空目がけて上がって行く。
「あれなあに? おとうさん」
「かみなり雲っていうんだよ、萌子。ああいう雲が出て来るとね、ゴロゴロって鳴って雨が降って来るんだよ」
案の定、沖合の空に稲妻が横に走ったかと思うと、急に大粒の雨が降り出した。海辺にはたちまち大雨が打ち付けた。あっという間に浜辺が水浸しになる。砂浜にいた人々は右往左往し、みな一目散に海の家に逃げ込む。サーフィンの連中だけが雷雨をよそに平然としている。慌てて駐車場の車に走って行く人々もあれば、海の家に駆け込んだものの、すぐに諦めて身体を雨に晒したまま、やはり車の方に歩いている人々もある。海の家の中は、押し寄せた人々でごった返した。更衣室の前も順番待ちの長い行列ができた。水着のまま不安そうに空模様を眺めるカップルもあれば、人目も構わずにタオルを身体に巻いて着替える男や、中には女もいる。この混雑では海の家も、商売らしいこともままならない。誰も、悠長に食事している者はいない。そのうちに、また雷鳴が轟き亘った。この分では、すぐに雨は止みそうにない。海の家に避難していた人々は雨の中を、蜘蛛の子を散らしたように四方八方に駆けて行った。先ほどまでの暑い太陽から一転して大雨が降り注ぐ砂浜は、人の気配もなくなり、がらんとした海の家の屋根だけが雨に煙った。
「本格的に降り出しましたね」と言いながら、店の娘が今度は温かいおしぼりをいくつも持って来た。三人とも間一髪で難を逃れたので、幸い、雨に濡れる羽目にはならなかった。カンナはトートバッグからバスタオルを取り出すと、子供の髪に当てた。そして、今度は自分が萌子を連れて更衣室に行き着替えさせると、すぐに戻って来た。
そろそろみんながお腹が空いて来たのを見計らったように、店主が現れて、
「食べるかい? そろそろ」と言った。飾り気がなく朴訥だが優しい言い方だった。翔一はニコニコして、
「お願いします。もうみんなハラペコです」みんなの表情を窺いながら言った。
「漁師のやる店なんでね、生きのいいのを出すだけだから、おまかせしかないけど、お代はほとんど貰わないよ」そう言いながら、店主は厨房に引っ込んだ。
「当分、止みそうにないわね」カンナが言う。
「まあいいじゃないか、こういうのも。何も海と決めたら何が何でも泳がなくちゃいけないもんでもあるまい」翔一への気の利いた助け舟のつもりか、なかなか会話に首を突っ込まない英輔がめずらしく言うと、カンナは、
「もっと日を選べばよかったのに」と言った。
「そんなことより、おとうさん、大丈夫? 食事したら帰りましょうね」
「え? 大丈夫だよ。萌子と一緒に泳いだし」
「あらヤダ、おとうさんったら。泳いだの?」カンナは翔一に訊いた。
「ああ泳いだよ。少し泳いで来た」カンナは英輔を見たが、どこも濡れていない。
「海はいい。何も考えずに浮いているのは最高だな」英輔は夢を見ていた。そこへ店の娘がやって来て、
「飲み物のメニュー、これです」と言って翔一に渡した。
激しい雨が降り続いていた。店主は厨房の窓から国道を少し見た。
「全然止まないな」言いながら、国道に打ち付ける雨脚をガラス窓から見た。
土砂降りの国道は相変わらずノロノロ運転の車で双方の車線とも混雑している。バシャッバシャッと一定の間隔で泥水が跳ね上がる音がガラス窓を通して、冷房音のする厨房の中まで聞こえて来る。飲み物のメニューを渡して厨房に戻って来た娘が言った。
「ひどい雨ね。これじゃあの人たち気の毒だわ」店主は、めずらしいことを言うもんだという顔をして、娘に言った。
「ま、しゃーないな」
「デザートのサプライズ、興ざめしないかしら」
「そりゃ、しないようにしないとな。記念に残る写真でも撮ってあげるんだな」そう父親に言われて、また一家のテーブルに行った。会話が盛り上がっていない様子に、気を遣うように話しかけた。
「あのう、」と言いかけると、顔をあげたカンナと目が合った。
「とんだ海水浴になっちゃいましたね」
「やっぱ、そうですよねえ。もっと日にちを考えればいいのに」とカンナが翔一をちらっと見ながら加勢を得たように言う。すると、英輔が急に口を開いた。
「朝美さんって言いましたっけ」みんなは驚いた顔をした。朝美は、コクリと頷いた。
「朝美さんも、あれ、やっぱり波乗りすんの」京子は、変なこと言い出さなきゃいいけどと、内心ハラハラした。
「え? そう見えます?」と訊き返すと、英輔は無遠慮に、
「だって顔なんて、すっごく焼けてんじゃないの」大きい声で言うので、京子は、
「すみませんねえ、失礼なこと言って」と、小声で取り繕う。すると、言われた当の本人は全く気にしていない様子で、
「あたし、写真が好きなんです」と言う。
「ああ、写真ね。どんな写真が好きなの?」
「写真撮るのが趣味なんです」つかさず翔一が訊く。
「じゃあさっき、更衣室に飾ってあった写真、あれそうですか?」カンナは意外そうに、
「あれ? 更衣室に写真なんか、あった?」翔一が頷く。
「そうです、そうです。でもあれ、あんまり。コンクールに見事、かすりもしなかったし」
「どんな写真、お撮りになるの?」今度は京子が訊く。
「海の生き物です、かね」顔には、まだ始めて間もないですと書いてある。
「じゃあ海に潜るの?」と今度はカンナ。
「ええ、まあ」萌子も大人たちをかわるがわる見上げながら、やり取りを聞いている。
「でも全然ダメなんです。自分ではいいのが撮れたと思っても、どれもコンクールでは予選落ちなんですから」
「でもさっき奥で見たのは、浜の岩場の写真でしたよ」と翔一が言う。
「ええ、あれは友達と父を撮ったんです。コンクール用じゃありません。でも、父がどっかに飾っておけって言うもんですから……」
それで更衣室に飾った。
「今度、いい生き物の写真が撮れたら、それに取り替えようと思ってます」褐色の笑顔に白い歯がよく似合っていた。
「いいご趣味だわね」と京子が言い、隣の英輔もうんうんと首を縦に振った。
「あなた偉いわね。アルバイトもして家の手伝いもして、趣味もあって」朝美は、手のひらを少し横に振りながら、そんなことないですと言うと、注文票を白いエプロンのポケットから取り出した。みんなはそれで気がついて、誰もアルコールはダメなので、ウーロン茶と萌子だけオレンジジュースを注文した。
「それにしても、ひどい雨ね。止みそうにないわね」カンナはさっきから同じことを言っている。少し恨めしそうなふりをして翔一を見る。
「おいおい、やっぱ僕のせいかい。ねえ、萌子、おかあさんヒドイよね」と言って、萌子を抱き寄せて、頬ずりしようとする。
「おひげ、チクチク。ヤダ」萌子は抵抗して離れた。それから、いろいろと忙しいのと言わんばかりに、お気に入りのリュックからクレヨンを取り出して、
「これでお絵かきするの」と言う。
「おかあさん、なんか紙ある?」と要求する。そこへ店主が大盛りのサラダと刺身の船盛を持って来た。
「俺の出すのは支離滅裂だって言うお客もいるけどね、でも間違いなく旨いよ」と言う。
「そん中に箸もナイフもフォークもあるよ」テーブルの上の籠を指さした。
「お絵かきはあとでね」カンナは手提げ袋からポケット付きの前掛けを取り出すと、ふざけて嫌がってみせる萌子を押さえつけて首に結び付けた。
上空では、黒い雲が目まぐるしく動いている。西の方からの強い風で幾重もの雲々が流れ、その合間から時折、太陽が顔を覗かせて、地上目がけて強烈な光を放っている。大きな黒い雲は激しい雨を矢のように下界に打ち込んでいる。上空では激しい雨と太陽の光が相克し、下界では、浅瀬にサーフボードに腹ばいになったり乗っかったりしている小さな人影がいくつか見える。
海岸に沿った国道は依然として大雨の中で渋滞していて、どの車もライトを点けて徐行している。ゆっくりと徐行する車の群れの中で、人々はじっと我慢している。時折、引き返そうとして方向転換のため反対車線に強引に入って、クラクションを鳴らされる車もある。この大雨じゃ、車から降りて喧嘩する気も起らない。みんな仕方なく退屈そうに我慢している。
一つ大きな雷鳴がしたが、その後に続く雷音は次第に弱くなり、やがて遠ざかって行った。雨だけが、ただただ降り続いている。
萌子はもう一人前に、一人でスプーンを使って食べている。持って来たお気に入りのピンク色のプラスチックのスプーンだ。孫の食べる様子を見るにつけ、ほんの数週間前に会いに来てくれた時はまだ食べさせてもらっていた孫が急に成長したようで、京子は嬉しい。今日は一段と賢くなっているような気がする。
「ねえ萌子、幼稚園は毎日楽しい?」祖母には訊かずにはいられないことだが、毎日が格闘のカンナには、祖母のこの問いかけが平面的でつまらなく感じられたが、邪魔することもなく祖母と孫の他愛もない会話をニコニコして聞いていた。
「うん、楽しい」そっぽを向きながらありきたりの答えが返って来るので、それ以上会話がなかなか続かない。つまらなくなった萌子はカンナの方へ顔を向けて、
「ねえおかあさん、なんか紙ある?」自分のしようとしていたことを覚えていた。
「まだダメよ。お絵かきはあとでね」カンナがきつく言うと、萌子はハァイと小さく言って、おとなしくなった。
やがて店主が大きなバースデーケーキを運んできた。翔一と店主が小声で何か言い合っていたのはこのことだったのか。カンナも京子もちょっと感心して翔一を見た。英輔は運ばれてきたケーキを見ている。ケーキには四本、四色の小さなローソクが立てられている。萌子は運ばれるそばから目を大きく見開いて、もう半身乗り出して、手にはそれまで使っていたスプーンがしっかり握られている。誰からともなく萌子の誕生日を祝って歌い出すと、すぐに一家の合唱になった。店主と朝美も加わったが、萌子も一緒に歌った。
「萌子、誕生日おめでとう」翔一の音頭でみんながおめでとうと言うと、萌子は翔一の顔に合図を見て、四本のローソクを一気に吹き消した。外はうっとうしい雨が降り続いているが、冷房の効いた室内のこのテーブルには、心地の良い温もりの明かりが灯っている。
一大イベントが終わると、朝美はレジの近くの棚から包装紙を何枚か持って来て、萌子に直接手渡した。萌子はぎこちなく、ありがとうと言い、朝美はどういたしましてと返した。
「どうもすみません、ありがとうございます。この子、普段は少し人見知りするんですけど、朝美さんとは波長が合うみたい。萌子、よかったね」カンナも朝美にお礼を言った。食器がテーブルから下げられると、萌子はもらった包装紙を広げてクレヨンでお絵かきを始めた。英輔はその様子を目を細めて眺めていたが、しばらくすると思い出したように、
「あ、そうだった」と大きな声を上げた。
「何よおとうさん、ビックリするじゃない」カンナが言う。
「そうよ、おとうさん。どうしたの?」すると英輔は、
「今、何時だ?」と言う。
「三時すぎだけど。なあに?」京子が訊く。すると英輔は、
「将棋だよ、将棋。もう行く時間だろ?」と言う。京子は困り果てて、
「今日はね、おとうさん、将棋はお休みなんだって」と倶楽部から聞いて来たような出まかせを言うと、英輔は安心したのか、そうかそうかと呟いた。翔一、カンナ、京子は互いの顔を見合わせる。萌子は三人を見上げる。三人とも三様にそれぞれの心の中の声を聞いていた。
そのうちに雨は止んだ。雨は止んだが、太陽は戻らず、空はどんより曇っていた。初夏の午後とは思えないほど、気温も上がらず空気も乾いている。沿道の車は窓を開け始めた。
「なんか、変な天気だぜ」トラックが言えば、
「風、気持ちいい」アベックの車は応える。雨上がりで涼しくなったが、また暑さが蒸し返すと思うと、どの車もうんざりしている。
トラックの中では、ラジオから交通情報と天気予報が流れている。運転手は聞くともなしに聞いている。交通情報が終わって天気予報になると、「まずはじめに注意報をお伝えします。沿岸沿いにはさきほど濃霧注意報が出ましたので、沿道を走行中のドライバーのみなさんは、くれぐれも通行にご注意ください」というアナウンスが流れた。そこかしこの車も聞いている。じわじわと、海岸一帯に深い霧がしのび寄って来ていた。
雨に冷やされた海面の水蒸気が霧に生まれ変わり辺りに漂い始めると、やがて沖合も浅瀬も海面の際まで霧が降りて来て、静かに濃霧が覆うようになった。波打ち際や砂浜にも霧が漂うようになり、その中をボードを抱えたサーファーたちが引き上げていく。
沿道ではどちらの車線も、白いヘッドライトと赤いテールランプだけが濃霧の中に滲んでいる。時折、軽くクラクションを鳴らす音が聞こえる。
沖合には、穏やかな波がゆったりとうねっている。深い霧に覆われた海面はその上のどんよりとした雲と一体になっていて、どこからが空でどこからが海なのか境界がない。それは浅瀬も同じで、深い霧の中に、時折、波が忽然と姿を現しては、また霧の中に吸い込まれるように消えて行く。
一家のテーブルから引き上げた朝美は、デッキに出て、それから霧のかかった砂浜に降り立ち、海の景色を見ている。この世に海が誕生してから変わらない永遠の波の営みの一瞬を捉えたいと思った。デッキに戻ると、一家がそこにいた。翔一が携帯で家族を撮っている。大きなパラソルの中でおしゃまなポーズを取る萌子。デッキの欄干の前に並ぶ英輔と京子。二人の間では萌子がピースをしている。カンナと萌子が並んだ写真も、翔一が撮った。
「写真、撮りましょう」朝美が声をかけた。
「スミマセン、お願いします」と翔一は言って、携帯を朝美に渡した。一家は欄干に行儀よく並んだ。中央に英輔と京子が立ち、その両脇にカンナと翔一が、英輔の前には萌子がちょこんと立った。京子は英輔の腕の輪に手を入れてピッタリくっついた。朝美の合図で京子もカンナも翔一も作り笑いする。萌子もニッコリと笑った。英輔一人が眉間を寄せて難しい顔をしてあさっての方向を見ている。
あいにくの天気になってしまったが、せっかく来たのだし、カンナも京子もまだ砂浜に降りていなかったので、みんなで雨上がりの砂浜を少し歩いてみることにした。朝美は砂浜に降りる一家を見送り、しばらくデッキの欄干から家族が散歩する砂浜を眺めていた。
霧の中を萌子が先頭を切って走り出した。小象は大人にすぐに追いつかれる。走っては追いつかれを繰り返しながら、みんなは水に濡れないように気をつけながら波打ち際に沿って散策した。
やがて、一家の行く手の遠くの方から、やはり波打ち際に沿うようにして、こちらにやって来る影があった。どこか、この辺りの学校の女の子だろう。犬を連れている。放課後の飼い犬の散歩なのだろう。霧のかかった人の気配のないのんびりした砂浜の風景と潮風に癒されながら、朝美は今朝の少女の散歩の風景を思い出した。
すると、英輔はいつの間にかみんなから外れて、後ろの方をとぼとぼと歩くようになった。英輔はだいぶ遅れると、波打ち際に立ち止まり、霧に覆われた浅瀬の方を見つめた。
「おとうさん、おとうさんってば」京子とカンナが、後ろを振り向いて英輔を呼ぶ。二人とも楽し気な声だったが、なかなか英輔の姿が見えないので次第に気になり始め、今度は真剣な呼びかけになった。
「おとうさん、おとうさん、どこなの?」英輔の返事は聞こえて来ない。
「ジイジ、ジイジ」萌子も後ろに向き直って、大きな声を出す。しかし霧の中で英輔の姿は見えない。
英輔の耳には、もう家族の声は届いていない。少し水に入りかけたところで、その冷たさに我に帰った。夢を見ている自分がいた。四方を見回した。霧で何も見えない。どうしていいかわからず途方に暮れていると、やがて自分を呼ぶ男の声が聞こえて来た。そして、突如として目の前に大きな黒い人影が現れた。
翔一は無言のまま、英輔の腕を持って自分の肩に回して、そのまま砂浜の方へ向かってゆっくりと歩き始めた。翔一に身体を預けた英輔は、半ば引きずられるようになりながら歩いたが、途中で立ち止まると、つられて立ち止まった翔一の顔をまっすぐに見て、
「翔一君、わしはもういいんだよ」とポツリと言った。翔一は黙ったまま、英輔の身体をぐいぐい引っ張りながら歩き、水際からだいぶ上がった砂地にようやく辿り着いた。そこで二人ともへたり込んだ。京子とカンナが、すぐに駆けつけて来た。遅れて萌子も走って来た。
「おとうさん、おとうさん」京子とカンナが耳元で呼びかける。
「ジイジ、ジイジ」と萌子が泣き叫んだ時、英輔は仰向けに空を向いたまま、ようやく息を吹き返した。デッキから朝美も顔色を変えてすっ飛んで来た。
「ああ、怖かった、怖かった」震えながら、やっとの思いで立ち上がった英輔は、それしか言えなかった。カンナが手提げ袋からバスタオルを取り出して翔一に渡そうとしたが、翔一はそれを受け取らずに、代わりにベルトに挟んでいた手ぬぐいを手にすると、英輔の足元を丁寧に拭いた。翔一は心から英輔が愛おしかった。そして、今朝駅前で英輔を目撃した時の話はもう忘れようと固く心に誓った。
みんなして英輔に気遣いながらデッキに戻ると、店主はすぐに温かいお茶をパラソルの下のテーブルでへたっている一家に持って来た。そうして、一家が休んでいると、しばらくしてから、今度は首から一眼レフをぶら下げて、朝美が近づいて来た。
「あのう、今度はこっちので撮らせてもらってもいいですか」カメラを両手で少し持ち上げて、恐る恐る訊いてみた。
「ああ、もちろんだよ。頼むよ」そう言ったのは英輔だった。それで反対する者は誰もいなかった。一家は朝美の言うとおりに欄干の前で自然に並んだ。朝美はファインダーを覗き込みながら、一家に合図を送り、二枚、三枚とシャッターを切った。
やはり同じような初夏のある日の午後、この海辺にやって来た旅人があった。旅人はしばらく浜辺を彷徨っていたが、昔を懐かしく思い出して、近くにあるカフェに入った。ドアのカウベルが鳴り、いらっしゃいませという黄色い声がした。薄暗く落ち着いた雰囲気の洒落た空間だった。
適当に目についたテーブルに着くと、ウェイトレスがおしぼりとお冷を持って来た。腹も減っていたのでナポリタンとアイスコーヒーを注文した。ウェイトレスが食事を持って来た時、確かこの辺なんですがと前置きして、この付近に漁師のやっているレストランがないか尋ねた。何を訊かれているのか要領を得ないウェイトレスが奥に引っ込み、見た目三十過ぎの男が代わりにやって来た。
「さあ、わからないなあ」聞けば男は、五年ほど前からここでカフェを始めたと言う。それだけ言うと、カウンターの中に引っ込んだ。
「トイレどこでしょう」奥にあると言われ、行く。そしてトイレの後、真向かいにある部屋の扉が目に留まった。そっと開けてみた。そこには、暗く黴臭さの漂う物置のような空間があった。
だらしなく積み重ねられた布団の塊の奥に、大きく引き伸ばされた一枚のモノクロの写真が見えた。色褪せてセピア色になっている。
全面が霧に覆われていて、空も海もなく、絡み合う二つの小さな影が、漂う霧の合間から覗いている。そんな景色を背にして写っているのは家族の団欒で、みんなにこやかな表情をしている。旅人はほんの少しの間、目を細めて写真を見つめていた。