235.引き継ぎ(11月3日)
オリエンタリス辺境伯領となったのは元バルバストロ公爵領のマルチェナ、エシハ、ロンダ、グラウスと、元ルシタニア公爵領のカマス、セニュエラ、アスタの合計7つの街、そしてその周辺の村々である。元バルバストロ公爵領の4つの街のうち、住民が残っているのはマルチェナとエシハの2つの街のみ。ロンダとグラウスは完全に無人である。元ルシタニア公爵領のカマス、セニュエラ、アスタの3つの街は幸いにも屍食鬼の被害を受けなかった。アンダルクス川を越えられなかったのだろうというのがルツの見立てだ。これら3つの街は人口1,000人程度の小規模な街で、もし奴等が侵入していれば重大な被害が出ていただろう。
辺境伯としての最初の仕事は、この地を警護していた赤翼隊との引き継ぎである。彼等に引き継いで帰還したのが9月の終わりだったから、一ヶ月ちょっとで引き継ぎ返してもらうことになった。
隊長であるシドニア伯ガスパールと面会したのはロンダの街だ。侵入した屍食鬼によって無人となった街だが、ガスパールはロンダの元領主の屋敷で寝泊まりしながら赤翼隊を指揮していた。ちなみに同じく無人となったグラウスや周辺の村々の残骸は赤翼隊の手ですっかり片付いている。
面会に同席したのは今後内政を委ねる予定のビビアナと、ご意見番としてのルツだ。
「ガスパール殿、お疲れ様でした」
「ああ、いや、楽な任務だったよ。何せ敵がいないし殺しもない。悪さを働く部下も出ない。こんな楽な治安維持も無いもんだ。それもこれも姐御のおかげだな」
ガスパールが姐御と呼んだルツは、自身の眷属でありフェルが統括する狼と蝙蝠を周辺に放って昼夜問わず監視を継続している。いや、監視だけでなく魔物の侵入や不法行為を発見すると実力で阻止ないしは摘発しているのである。おかげさまでこのエリアの治安は上々で、マルチェナとエシハの人々からの評判も良いらしい。
しかしガスパールは何やら疲弊している。バルバストロ公配下の精鋭部隊として勇名を轟かせる赤翼隊でも治安維持は役目が重かったか。そう思って労おうとしたのだが、どうやら彼の気苦労は他の原因のようであった。
「部下の一部が残留を申し出ている。その数100人ちょっとだ」
「部隊の8分の1か。だいぶ多いな。理由は?」
「理由か。聞いたら笑うぞ?」
「笑わないぞ、たぶん」
お決まりの言葉を返すが、続く言葉はおおよそ見当がついていた。
「ふん。感謝されて嬉しかったんだとよ」
「はぁ、感謝か?」
「笑ってはいないが呆れたな」
「まぁ、それは否定しないけどな」
駐留していた軍の一部が残留したがるのはどこの世界でも同じらしい。こっちで家庭を持ったとか、戻っても誰も待つ者がいないとか。だが理由が“感謝されて嬉しい”とは正直思っていなかった。
「ふん。しかし奴等の気持ちもわからんでもない。重犯罪者は除くとしても、どうだろう。受け入れてもらえるか?」
「それは構わないが。エシハとマルチェナ、どっちだ?」
「エシハのほうが多いな。ほら、あっちは男手が極端に減っているだろう」
そうである。人口3,000人ほどのそう大きくはない街から、612人の成人男性が失われた。成人男性のおよそ半分である。生き残った住民達への配慮は必要だが、優先的に男手を入れなければと考えていたところに今回の申し出だ。断る理由も無い。
「承知した。名簿を用意してくれ。それと士官、いや指揮官には別途ビビアナとソフィアを訪ねるように指示を頼む」
「わかった。ルイスに手配させる。それにしてもカズヤよ。同格の爵位持ちになったというのに、ちょっと貫禄が足りないな」
と言われてもなぁ。こっちは数人の部下しかいなかったただのサラリーマンだぞ。千人近い部隊を率いる伯爵様とは覚悟が違うのだよ。
「努力しよう」
「ガスパール殿の言うとおりですわ。辺境伯としての威厳をもっと出してくださいな」
俺の隣にいるビビアナまで俺の脇腹を突っついてくる。
「ふん。まあいい。そのうち慣れてくるさ。それともう一つ提案、いや頼みがあるのだが」
「聞きましょう」
「あの狼と蝙蝠の監視部隊、あれをバルバストロ全域、特に北方に拡げちゃくれないだろうか」
おいおい。これはまた大層な無茶を言う。この地域の監視だけでも千の狼と万の蝙蝠が活動している。一つの州全域に拡げるとなると、一体どれだけの数が必要になることか。
「ほう。儂の手を借りるということが何を意味するか、お主ら理解しておるのか?」
ようやくルツが口を開く。その目はベール越しにガスパールを真っ直ぐ捉えている。
「ああ。バルバストロ公もご承知の上での頼みだ。収穫期が近いこの時期に、これ以上北方に兵や狩人を張り付けてはおけない。だがノルトハウゼンの侵入は防がねばならん」
「それで我が眷属に監視と対処を任せると」
「ああ。そういうことだ」
「ふむ。主人様よ、どう思う」
「ルツが言ったとおりだ。領地の防衛に俺達の手を借りる、魔物を使うということは、諸国にとっては本格的に人類の敵と見做されかねない。その覚悟がバルバストロ公にはあるのだろうか。外交問題になっても俺は知らんぞ」
俺の返事にルツはベールの奥でニヤリと笑う。人外と呼ばれるルツにとって人間同士の争いなど知ったことではないはずだ。外交問題になるならそれも良いと思っているに違いない。
「ガスパールよ。そのあたり、どうなのじゃ?」
「そうだな。それはこちらでも検討した。それでも動員による国力の疲弊よりはマシだという結論に至った。事実、あの赤翼隊、懲罰部隊と呼ばれた俺達が何の悪さも出来ず、魔物の侵入もなかったんだぞ。姐御の力を借りられるのなら警戒体制は最小限で済む、そう結論が出た」
動員による国力の疲弊か。
国境紛争に備えた動員。それ自体は必要なものだ。動員されるのが常備軍だけならそう影響はないのかもしれない。だが動員されているのは常備軍だけではない。各地を魔物の被害から守っている狩人はもちろんのこと、動員された兵士を食わせるだけの食料や飼葉、資材や職人達、それに近隣住民達も駆り出されているのだろう。騎士団や各地の領主達の私兵は普段は農作業やその他の第一次産業に従事する者も多いと聞くし、その穴埋めに各地の衛兵達が充てられるなら犯罪も増える。それらの者達が長期間の軍務に就くことによって社会基盤が揺らぐのも事実だ。
「ルツ、秘密裏に眷属達を活動させることは可能か?」
「ふむ。夜は蝙蝠を、日のあるうちは鴉でも使うかえ?」
カラスか。元の世界での、特に日本でカラスと言えば真っ黒な羽根に太い嘴のハシブトガラスが主流で、郊外や海沿いに行けばハシボソガラスが、ごく一部の地域や渡り鳥としてカササギや、より大型のワタリガラスが見られる程度だ。だがこの世界でカラスと言えば白や灰色が混じったズキンガラスやコクマルガラス、それに長い尾を持ち黒と青が混じった羽根と白い胴体のカササギが多くみられる。もっと北方に行けばワタリガラスが主流になるらしい。その総称が鴉だ。
「そいつらを出すとして何が出来る?」
「狼と違って攻撃力はないからの。監視ぐらいじゃな」
「攻撃できないだって?俺の部下は何人も襲われたぞ。まあ火事場泥棒を働いた奴等だったが」
「襲われた?」
「ああ。爪で引っ掻かれるわ羽根で切り裂かれるわ。挙句に高熱を出して倒れる始末だ」
それは災難だったな。蝙蝠に限らず野生動物は多くの病原菌を保有している。中には人間に感染するものもあるだろう。
「それは自業自得じゃな。悪事を働くのが悪い」
「それはそうだが。それで、そいつらを貸してもらえるのか?」
「指揮権は渡さんよ。お前達には管理できまい」
ルツに言われてガスパールが黙る。だが事実として彼等にはルツの眷属達とのコミニュケーションを取る手段は無いのだ。
「まぁ、主人様の頼みというなら北方まで監視網を拡げてもよいが、この地の監視密度が低下するのは間違いないぞ」
「ああ。構わない。この地は直接俺達で監視する。眷属の半数を北方へ向かわせてくれ。それとビビアナ、ガスパール個人に通信機を貸与する。手配を頼む」
「承知しました。受発信ができるものでよろしいですか?」
「そうだな。向こうから発信できないと困るだろう。ガスパール殿、異常を察知したら通信機で連絡する。それでどうでしょう」
「もちろん構わない。連絡さえくれば対処できる。それで、その通信機ってなんだ?」
ああ、そうだった。通信用に開発した魔道具について説明していなかった。
通信機の実物を用意して操作方法を説明する。残留希望者のリストを受け取り、代表者と面談する。それ以外に彼等が収集した金品や重要物の目録と現物の引き渡し、彼等が得る報酬の調整と引き渡しを経て引き継ぎが終わった。支度が出来次第、赤翼隊はこの地を去る。彼等の戦死者は作戦初期に派遣された偵察隊の8名の他、作戦中に病死した6名を加えた14名に留まった。





