207.ルツの話(9月5日)
ルツがやってきたのはその日の夕方頃だった。
前回と同じく、どうやってか結界魔法と土塁の二重の備えを通り抜けて、俺達の只中に現れたのである。
前回と違ったのは直後の娘達の反応だった。
「ルツの姐御!待ってたよ!」
「姉様、おかえりなさい」
昨夜の一触即発の雰囲気は何処へ行ったやら。真っ先に歓迎の言葉を口にしたのはイザベルで、次いでアイダだった。呼び方まで変わっているが、どうやらすっかり打ち解けたらしい。
「やあ、話をしに来た」
昨夜と同じ穏やかな、いや、さほど感情が籠っていなような口調でルツが俺に話し掛け、背負っていた剣を外しながら俺の前に腰を下ろす。
「ああ。来るのは聞いていた」
「うん。あの子達とは仲良くなった。それと、少し問題が見つかった」
「問題?」
「そう。人間と話すのが久しぶりすぎて、上手く言葉が出てこない」
なんとも厄介な。まるで引き籠りお嬢様みたいなことを言う。
「その割にはイザベルと話す時には饒舌だったようだが」
「あれは広い意味で同族。人間と話す時ほど気を遣わない」
“広い意味で”ねえ。気を使わない間柄の相手が一人でもいてくれれば人間関係は潤滑に回るものではあるが。
「そうか……まあ慣れてもらうしかないな」
「わかった。それで今日は何を話す?」
ルツはベールを被ったまま小首を傾げる。
なんとも少女らしい仕草であるが、これで七百余歳らしい。
「そうだな……エシハという街の古老から聞いたのだが、その爺さんが子供の頃にとある事件があったらしい。幼い少女を拐かして殺した男達が捕えられ、牢に入れられた。その男達が揃って牢内で変死したらしい。生ける屍、屍食鬼になったと。そして被害者である少女の墓が荒らされ、遺体が無くなっていたと。これはルツ、お前さんの仕業か?」
ビビアナがエシハの前領主、エシハ伯グスマンから聞いた話だ。この話はアルカンダラにも吸血鬼の伝承として伝わっている。
「私ではない」
ルツは単純明快に否定した。
「昨夜も言ったけど、きちんとした手順で眷属、貴方達の言うネクロファゴを生み出せば、生ける屍など生まれることはない」
「ではきちんとしていない手順でなら?」
敢えて踏み込んでみる。ルツは不快そうに頭を振った。
「知らない。そんなやり方は無いと思う。でも……」
ルツは何かを言い淀む。
「例えば私の血を盗めば、そんなこともできるかもしれない」
血か……血液型が適合しない血を直接体内に取り込めば、赤血球が凝集して死に至る。だが吸血鬼の血には何かが宿っていて、ただ死に至るだけでなくゾンビ化させてしまうのかもしれない。
「そういえば俺達が大襲撃と呼んでいる魔物達の一斉蜂起について、何か知見はあるか?」
ルツは腕を組み右手を自身の頬に当てて考えるような素振りを見せる。まったく、あざといぞ七百余歳。
「奔流のこと?私達はそう呼んでいた。魔物達がまるで洪水でも起きたように辺りを押し流し呑み込んでいく」
俺の両隣に座るアイダとカミラには、マブールという単語に聞き覚えがないらしい。どうやら元々の言語が違うようだ。
「たぶん同じ事象だろうな。それで、そのマブールに出会したことは?」
「もちろんある。あれはお前達がニーム山脈と呼ぶ山々の、頂が低い場所から始まる。だからこの地も影響を受ける。確か前に起きたのは……」
ルツは再び考え込む。俺だって何年も何十年も前の事を思い出すのは難しい。何百年も生きていれば尚のことだろう。
「まあ七十年か八十年前だろう。そろそろ次のマブールが起きる?」
「俺達もそう考えている。今回の騒動が前触れではないかとも思ったのだが」
「ふぅん。そういう考え方もあるかも」
「それでルツ、ルツはマブールの際にどちらに与した?」
娘達の気配がサッと変わる。だが当のルツはベールの奥の瞳だけで“何のことか分からない”と訴えているように見える。
「どういうこと?」
「魔物に与して人間を襲ったのかと聞いている」
「ああ、安心して。下々の有象無象がやることに興味は無いの。でも私が生活する場所を侵したら、魔物でも人間でも斬る」
ベールの下のルツの顔は、斬ると言った瞬間に間違いなく笑った。彼女が斬ると言うのなら間違いなく人だろうが魔物だろうが斬り捨てるのだろう。そう思わせるだけの剣技と凄味を彼女は持っている。
「生活する場所というか地域があるんだな。昨日はここに、この地方に住んでいると言っていたが、ここもルツの生活領域なのか?」
更に問い掛けると、ルツの雰囲気が元に戻る。
「少し違う?ここは私の生活に不可欠な場所じゃない。だから、ここに魔物が来ても人間が来ても関係ない」
横で黙って聞いていたソフィアが軽く手を鳴らした。
「ルツさんが言いたいのは神域なのではないかしら。ルツさんが考える神域があって、そこにさえ立ち入らなければ関知しないということではなくって?」
「神域。そう表現する人間はいたかも」
神域か。その神域に立ち入った者は人間でも魔物でも攻撃する。その場所によっては、つまりその場所が人里の近くにあれば、人々も攻撃されているかもしれない。
「その神域はどこにあるんだ?ここの近くか?」
「ん。転移魔法なら近い。魔法を使わないなら……何日か掛かる距離」
転移魔法を使う前提で話さないでほしいものだ。だが転移魔法ならば土塁の内側に易々と侵入できたのも頷ける。
しかし転移魔法か。ほぼ失われた魔法だとも聞いていたが、俺以外にも使い手がいたか。
「あの、姐御の家に行ってみたい、と思います。ついでに転移魔法を教えて欲しいです」
転移魔法に反応したのは、近い将来転移魔法を使えるようになる事が目標の一つであるルイサであった。
◇◇◇
「えっと……カズヤはそれでいいの?」
突然のルイサの申し出にルツはベールの奥で光る大きな目を何度も瞬きしている。驚いているのは俺も同じだが、許されるならば俺もルツの暮らしぶりを見てみたい。
「さすがにルイサだけを行かせるわけには……俺達全員でというわけにはいかないか?」
「問題ない。でもどうして……」
ルツが再び小首を傾げる。
後に続く言葉は“どうして自分で教えないの?”だろうか。ルイサに魔法を教えているのは主にビビアナとカミラだ。俺は単に魔法が使えるだけで、体系的にその技術や知識を習得したわけではない。そういった意味では俺が使う魔法は紛い物だ。人に教えることなどできない。
「お願いできるか?」
俺の考えを知ってか知らずか、ルツはあっさりと首を縦に振った。
「わかった。すぐ向かう。準備はいい?」
いや、よくない。次にこの場所に戻ってくるとは限らない。出立するにはそれなりの手順というか片付けがあるのだ。古来から言うではないか。立つ鳥跡を濁さずと。
◇◇◇
俺達は手早くテントや炊事道具を収納し、身支度を整える。
ベースにしていた土塁を崩し、ただの更地に変える。下手に残して魔物の巣にでもなったら困るからだ。
準備が終わる頃にはすっかり日も暮れていた。
「ルツ、待たせたな」
娘達が俺の周りに集まる。
「わかった。じゃあ行こう。嫌な感じもするし」
ルツの最後の一言は囁くように俺にだけ発せられたものだ。
その真意を確かめる前に、ルツと俺達を眩しい光が包んだ。





